ああ、母様。
僕はやはり、
この世界が嫌いです。




「母様の、声、が?」

 錆の町で再会したカイムが話した事実に、は言葉を失った。
 ――声が、途絶えた。
 契約者であるカイムに、ドラゴンからの声が届かなくなってしまったのだと。
 この世界……否、カイムを救うために封印となった、赤き竜からの声が。

「どういうことですか、カイム様! 母様の身に、これ以上何が起きたというのですか……!」

 はカイムの服を掴み、何度も叫んだ。揺さぶられながらもカイムは静かにを見つめていた。
 その蒼い双眸に浮かぶ光は、怒り。憎しみ。かつての戦いの時と同等、いや――それ以上の狂気だった。冷たく重たいそれは、の眼差しを受け、強さを増していく。

『俺は、行く』

 不意に届いたカイムの声に、はぴくりと肩を震わせた。

「……行くって、何処へ?」
『――それは』

 問うて返って来た声に、は目を丸めた。

「ヴェルドレ……」

 18年前、戦いを共にしたあの男。
 奴が、封印を増やし、女神となった竜への負荷を大きくした。そのために声が途切れてしまったのだという。
 は呆然とカイムを見上げていた。力が抜け、半開いた口から、途切れ途切れの思いが漏れだす。

「そう、ですか。……間に合わなかったんですか。それで、封印が……」

 の頭は、あっという間に怒りで満たされた。母を想う子の、切なる憤怒であった。
 あいつが。あいつが母様を。あいつが母様に。この世界の歪みも負担も苦しみも、嫌なことすべて押しつけたんだ。辛いのに。母様は辛いのに。どうして母様だけに押しつける? どうして母様を痛めつける? どうして母様が引き受けてくれるなどと考えた? どうして、どうして? 憎い、悪い、にくい。母様はお前たちのために女神になったんじゃない。母様が守ったのは、守ろうとしたのは――!

「なんで、かあさま……」

 視界が滲んだ。噛み締めた唇は容易く裂け、真っ赤な雫がの口を伝って落ちていく。
 震えるをそっと抱き締めて、カイムは言った。

『助けに、行こう』

 優しく、狂気を孕んだ声。
 今のには、その狂気が異常であるとは感じられなかった。彼にとって、カイムのその心は真っ当なものであった。
 頭に、胸に響く。
 思考を全て麻痺させてしまうようなカイムの呟き。
 嗚呼、なんて甘くて心地良いの――。

(今に始まったことじゃ、ない)

 何年も前から、カイムの闇はを捕らえて離さなかった。
 愛情を越えた何かが胸の中で渦巻いている。時を重ねて尚それは勢いを増し、うねり、脳髄を支配した。

「ええ。母様を、助けましょう」

 どうしたことか、カイムの前ではよく笑う自分の存在に、は今更気付いた。

「母様が苦しむなんて、あってはならないんですから」
『ああ、助けよう。会いに行こう』
「大好きな母様のためなら、何があろうと乗り越えていけますもの」

 怒りはいつの間にか消えていた。
 母様に会いに行ける。母様を解放できる。その想いがを満たしていた。嬉しさに笑いが込み上げる。
 あの優しい赤に、僕はもう一度包まれたい。

「カイム様がいて良かった! 僕ひとりだと物足りないですもんね。ふふっ、僕達が会いに行ったら、母様、驚くだろうなぁ……」

 カイムの腕の中で、は楽しそうに笑った。子供のように屈託のない笑顔。
 つられたカイムの頬も緩む。彼は幼子を労るように優しく、の額にそっと口付けを落とした。くすぐったそうにが目を細める。

「……また、さんにんで、楽しくしあわせにするんです……今度こそ、静かに、しあわせに」

 その為なら幾らでも、何でも潰そう。棄てよう。たとえば、この世界であっても。
 母様のためにならない世界なんて、無いのと同じだから。

「だから、カイム様。僕を置いていかないでくださいね」

 縋るような声音に、カイムは小さく頷いて返した。




さあ、共に堕ちようか。



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