夢を見た。暗く重たい泥の海を歩く夢だ。刃の錆びた剣を持ったまま、ひたすらに泥を掻く。果ては何処か、何処なのか。僕は何時、この歩みを止めたらいいのか。何が僕にこの歩みを強いているのか。判らないが、進むしかない。
 体力が尽きたならば、気力で進んだ。がむしゃらに、泥の重みに抗った。しかしその気力さえも尽きて、僕は泥に倒れた。ゆっくりと身体が沈む。粘ついた黒い泥が、僕を引き込もうとする。
 ――これがお前の選んだ道だろう?
 誰でもない声が僕に囁く。底から響く、僕を手招く声。優しくて甘くて、つい身を委ねたくなるような、おぞましい罠の声。
 ――選んでしまったのだろう?
 剣だけは手放してなるものかと必死に抱き寄せる。大切なつるぎ。ようやく剣を抱え込んだ僕は、遂に指先さえ動かせなくなってしまった。この海は“僕”という意識さえ崩して泥に溶かしてしまうのだろう。この脆い外殻を風化させて、中から何もかも引きずり出して。運命の楔ごと。この感情ごと。
 この、きもちごと……。

 だいすきな、赤い竜の姿が見えた気がした。
 僕は顔を上げた。
 呑まれることを嫌だと思った。また抗うことを選んだ。無くしてはいけない。この心を無くしてはいけない。嫌だ。失ってなるものか。そのとき、僕は気付いた。僕の抱える剣が、何なのか。
 こんな所で堕ちてなるものか。蝕まれてなるものか。
 僕の堕ちるところは、ここではない。
 上を見た。光があった。細く頼りないそれを僕は目指した。
 手を伸ばして、何も判らない白に向けて爪を立てる。手応えはない。それでも、爪を立て続けた。

「にがさ、ない」

 もう片手で剣の柄を握り締め、光を仰いだ。力任せに剣を振り上げる。

「にがしは、しない」

 憎たらしい絶対的な白。
 その中に輝く、僕の知る赤とは似て非なるそれを、迷うことなく貫いた。



 ――魔物の氷像が、辺り一体を埋め尽くしている。
 はブレスの名残でまだ冷たい息を漏らしながら、氷像を見つめていた。
 我ながら見事な出来映えだと、細やかな自画自賛に耽ってみる。
 普段はブレスの勢いに負け、対象が破損したまま凍ることがあるのだ。今日は骨太で肉付きもよい魔物が相手だったためか、欠けることなく全てを凍りつかせるまでに至った。

「相変わらず見事ですね」

 台詞に反して低い声のマナに、は言葉もなく笑んでみせるだけだ。それがますますマナの気に障ったらしく、彼女はわざとらしくから目を逸らした。
 は、マナが失った過去を覚えている。愛に飢えた可哀想な娘――愛情への飢餓に対してはも言えた義理ではない――が“神”に見いられた果てに起こした悲劇の全てが、愛しい紅を喪失した痛みと共にの中に燻っている。
 恐らく過去のマナはが嫌いだったろう。記憶を無くした今も、その嫌悪だけは彼女に宿ったままなのだ。だからマナは、が旅に介入してきたことを好ましく思っていないし、今も嫌疑を拭いきれずにいるのではないか。
 そんなマナの判断は、正しく聡明で、全うであるとは感じていた。

「レグナの炎も凄いけど、の氷もやっぱり凄いな」

 寧ろ追われる身でありながら、あからさまに怪しいを受け入れるノウェの無警戒ぶりこそ間違っている。たとえ彼の信頼するレグナとが同じ種族であろうと、その考えまでは等しいと言えないのだから。
 はレグナの思惑を悟っているし、レグナもレグナで、未熟なの考えを見通しているはず。
 今のところ利害が一致しているだけで、がいつ反旗を翻すとも判らないというのに。

(まあ、万が一翻したところで僕が勝てる戦では無い)

 ノウェの屈託ない賞賛に笑んで返しながら、腹の底、はそんなことを思った。
 そんなに、今度はユーリックが口を出す。

……今日はいやに荒れてたみたいだが、嫌なことでもあったのか?」
「なんにもですよ、ユーリック様」
「そうか。……なら良いんだけどな」

 変わらぬ笑みを称えつつもの目はずっと笑っていなかった。
 は、ユーリックの聡明さが嫌だった。人当たり良さげにしながらも此方の腹を探ってくる賢いこの男の対処に困っていた。
 しかし円滑に旅を進めるために、あからさまに態度には出さないように心がけている。時折耐え兼ねて辛辣に出ることがあるのは致し方無いとして……。

「意味もなく靄が溜まり、自分の力を奮って晴らしたくなることは誰にでもあるでしょう?」
「鬱憤ばらしじゃないか」
「そうとも言いますね」

 ユーリックを見つめながら、は何故か先の夢を思い返していた。
 泥の海。
 懐かしい色。
 あの人の剣。
 にも理由は知れないが、は、ユーリックを見ると“あの人”を思い出すことがあった。
 まるで真逆な二人の男を並べ、様々に思うのだ。
 憎たらしくて大嫌いでグチャグチャにしてやりたくなったり、逆に抱き締めて頭を撫でてやりたくなったり、似つかわしくない幸福と安堵に埋めてあげたいだとか。やっぱり頭から飲み込んでやろうとか。
 形容しがたい愛憎が体の下で蠢くのを押さえ込みながら、は在った。
 夢で手にした剣の感触が残っている気がする。
 既に此方に背を向けたユーリックを、じっと見据える。ノウェとマナはもっと向こうへ歩を進めていた。
 ユーリックの背を見つめながら、はゆるりと口を開く。

「……判らないなあ」

 無意識のうちに手を伸ばしていた。
 夢の中で剣を振り上げた方の手だった。
 男の背というよりは、首を捉えようとする角度を持って伸ばされたそれ。
 そのままユーリックへと歩み寄り、はもう片手も掲げた。
 あっという間に二人の距離が詰まる。の手が、ユーリックの首を包むようにぴったりと触れた。
 唐突なの行動に、勿論ユーリックは驚き、肩を跳ねさせた。
 の氷のブレスで辺りが冷え込んだところに、更に冷えたの手の追い討ちだ。無理もない反応だった。

「な、なんだ?」
「……ああ、ごめんなさい」

 はにっこりと微笑んだ。大して悪びれた様子もなく、無邪気に告げる。

「判らないのが、判るかと思って」

 ユーリックは意味が判らず首を傾げたが、がすんなり手を退けたことで一先ず良しとしたらしかった。「何かあったなら言えよ」と彼らしいお人好しな言葉を溢して、また歩き出す。
 を咎めることもなく。
 はしばらくぼんやりと突っ立っていた。両手にはユーリックの首に触れた感触。代わりに、夢の剣の名残は消えてしまっていた。

「……危なかったなあ、ふふふ」

 は笑った。

「きっと、あの人の首だったら絞めていたもの」

 訳も判らずに笑っていた。
 ――夢の記憶は次第に遠退く。
 彼が作った氷像の群れから離れるたび、遠く、遠くへと。
 氷竜はきっと、目的を果たすことを迷い始めていた。


(Title by 亡霊)

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