風邪を引いた。
鼻が利きにくいし、頭の中には鈍痛が居座って退きやしない。
しかし熱はさほど高くない。
これなら薬を飲んでおけば明日には大丈夫だろうと考えた。
それだけならまだ良かった。
……それだけだったら。
一日薬を飲んで寝たら治るだろうと高を括っていたら全く治らなかった。
仕方ないので仕事を休ませてもらう電話を職場に入れて――一人暮らしの俺を大層心配してくれ、看病に来そうな勢いであった。丁重に断ったがその優しさに少し涙ぐんだ――、俺は悩み抜いた挙げ句にロダンの所へ行くことにした。彼処なら狼男にも効く薬が揃っているはずだ。
「今までは人間用の市販薬で間に合っていたんだがなぁ……」
普段鋭利な五感が鈍ると妙に居心地が悪いものだ。
とりあえず軽く食事をとり、着替え、部屋を出る。
扉を開けるなり俺の目に飛び込んできたのは黒髪の美女だった。
――俺は扉を閉めた。
何でだ。
何が起きているんだ。
何でベヨネッタが俺の家の前にいるんだ。
「開けなさいよワンちゃん」
「狼だ。あとだ」
「知ってるわよ、そんなの」
コンコンとノックだけは上品に響かせながらベヨネッタは言う。
「風邪引いたって聞いたから看病しに来てあげたのに」
何処で誰から聞いた!? なんて野暮なツッコミは引っ込めて出来る限りの丁寧かつ優しい口調で俺は答えることにした。
「若い娘に年寄りが拗らせた風邪を移しては申し訳ないから早く帰りなさい」
「……あんたに比べたら確かに若い娘でしょうけどね」
扉越しだと言うのに何なんだ。
この魔女の威圧感は――!
汗ばむ額を拭いながら、俺は息を飲んだ。
とりあえずベヨネッタに喋らせてやろう。俺が慌てふためくのを見て聞きたいんだろうし程々に希望に沿って様子を見る。
「移しちゃった方、早く治るっても言うでしょ。気兼ねなくべったりびっとり私になすりつけたいって素直に言いなさい」
「さも俺が欲してるかのように言うな、人聞きの悪い」
「ふふ、嫌いじゃあなさそうだけれど……。そういうの」
「俺をどういうキャラクターにカテゴライズしているんだ君は」
口論しながらも俺は考えた。
俺が人狼とは言え、魔女相手ではなかなか分が悪い。
風邪のせいでふらふらするし。
早くこの場を逃げ出してロダンの元へ薬を買い付けに行かなくては。
振り返ると、ちょうど開けっ放しの窓が目に入った。換気してそのままだったのを忘れていた。
ベヨネッタがまた発禁単語か何かを言い出すのを流し、俺は迷わず窓へ駆け寄り、飛び出した。
相手は魔女の中の魔女。この俺の行動も予測済みだろう。案の定すぐに後ろに彼女の気配を察した。
しかし。
俺は未だかつて無い全速力を出した。
速く速く速く。
こんな必死に駆けたのは何時ぶりだろうというほどに。
予測出来ても追えなければ意味が無い。
今まさに迫らんとしていたベヨネッタの指を、俺はあっさりとかわして逃げることに成功した。
これが年の功だ、窮鼠ならぬ窮狼の底力だ!
「後で見てなさいよ――」
ぞっとする呟きは風邪による幻聴だとすることにして。
ここまでならまだ良かった。
……まだ、何とか。
◆◆◆
何とかベヨネッタを撒き、ロダンを頼り、薬を確保して摂取した頃にはすっかり夜になっていた。
帰ってまたベヨネッタがいたらどうしよう。
どうしたら帰ってくれるんだろう。
一体俺は何と戦っているんだろう。
考えれば考えるほど空しくなってきた。溜め息まじりに歩を進める。
その時、ふと感じるものがあった。
血の臭いと、“あっち側”の存在――。
間に合え、と俺は駆け出した。
角を二回、三回と曲がる。気配を殺したまま石畳を走る。臭いと存在はすぐそこだった。
自分の得物に手を添えたまま、ようやく開けた場所へと出た。
しかし。
「……間に合わなかったか」
血溜まりに横たわる女性の亡骸があるばかりだった。
遅かった。
せめて亡骸が人目につくところへ動かすべきだろうか。まだこのあたりには存在の名残を感じる。
――人が“悪魔”と呼ぶものたちの、だ。
亡骸すら悪魔に弄ばれてはあんまりだ。時として奴等は亡骸に入り込むこともある。
亡骸に歩み寄り、屈み、抱き抱えたときだった。
「よぉ、兄さん」
横目に認めた銀色の輝き。
確認するまでもなく剣先だと判った。
亡骸を一旦降ろし、ゆっくりと振り返る。
相手にまだ攻撃の意思がないことが知れたので俺はとりあえず口を開いた。
「……いきなり物騒だな、青年」
銀髪に碧眼。赤いコート。
なかなか見ない凝った装飾の剣を持った男だった。
何よりも異質なのは纏う気だ。
ただの人間じゃなかった。
思い当たるままに俺は、その感覚を口にしてしまう。
「半魔か……?」
「一目で判るのか? ますます怪しいぜ、あんた」
もしかしなくとも女性を殺したのは俺だと思われているらしい。弁解しようと口を開きかけて、俺は固まった。
べっとり血がついたこの状態で「俺じゃないです」は絶対に疑われるパターンだ。
うっかり彼を半人半魔と見抜いたせいで警戒心はマックスだろうし、だからと言って黙れば黙ったでそれも怪しい。
八方塞がりじゃないか。
風邪のためにまだ頭が働かず、上手い説明が出てこなかった。
口を半開いたまま黙する俺に、青年は淡々と話し掛けてくる。
「あんたも人間じゃねえな」
「……いわゆる人狼だ」
「確かに今日はご立派な満月だ、が。盛ったにしちゃあヤりすぎだろ」
「これは……俺が来たときには事後でもう……最近盛る元気もあんま無いし……」
何言ってるんだ俺は。
正面の青年も勿論きょとん顔である。
良い歳してこの類いの視線を受けるのはちょっと恥ずかしい……。
だが怪我の功名。俺の間抜けな発言は、お相手さんの敵意と警戒心を完全に解いたようだった。
青年の気迫が明らかに刺を引っ込めたのである。
「疑って悪かったな兄さん。こっちも仕事でね」
「いや、此方こそややこしい姿で済まない」
「で、申し訳ないついでなんだが――」
朗らかな空気は一変した。
急激に増す血の臭い。禍々しい狂気。蠢き始める闇色のもの。赤黒い糸に吊り上げられながら現れた、操り人形のようなかたちをした悪魔たち。
「少し、付き合って貰っていいか?」
「ああ、構わないぞ」
青年の声に応じて、俺も腰を上げ、得物を手にした。
その時ようやく思い出したことがある。
エンツォがふとした話。
銀髪碧眼の青年。
癖のある何でも屋の男。
彼が反応するキーワードが――
“悪魔”
名前は何だったか。
確か。
確か――。
幾つかの悪魔を切り伏せた時、俺は彼の名前を思い出した。
「そうだ、君は……ダンテだな」
「何だ? どっから聞いた?」
「子煩悩のエンツォから」
「あいつの知り合いだったのかよ! その割に随分テンション低いな」
二丁の拳銃から止めどなく弾丸を撃ち出しながら笑う青年――ダンテに、義手で悪魔の頭を握り潰しながら俺は笑う。
「今日はちょっと風邪気味なんだ」
核を失った血塗れの人形は、断末魔の代わりに闇を吐き出しながら消失した。
彼は戦い方を熟知しており、背中を預けるには申し分ない人物だった。ただ茶目っ気のあるタイプのようで、どこぞの魔女程ではないが人をおちょくる傾向がある。
再度言うが、どこぞの魔女程ではない。可愛いものだと笑って済ますことの出来る範囲だった。
義手に弾丸が当たったり義手の上を刃が滑ったりしたのも序の口。悪魔がいなくなったと思ったら何故か今度は俺と手合わせしたいと言い出したり断る間を与えなかったりしたのも全然許せる。
何てことはない。
――へとへとになって帰った俺を待ち受けていた、黒髪の魔女に比べたらな。
「待ちくたびれちゃったわよ」
待てと言ったつもりも無いんだが。
答える気力もないまま、まるで俺の部屋の主に成り代わったようなベヨネッタを見つめる。
笑いながら俺の腕に絡み付いてくる彼女。ぴったり寄せられた魅惑的な肢体の感覚が、まるで他人事かのように俺は静かだった。
悲しいかな、怯えはすれども盛りはしない。
「……眠らせてくれ」
「そういう趣向がお好みならね」
もう俺は、どうにでもなれ、とベッドに身を投げて瞼を塞いだ。
(Title by ジャベリン)
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