は嘆息した。憂鬱であった。この間チンピラに絡まれ一蹴した大人げなさへの後悔や、寝付きが悪く二時間ぐらいしか眠れなかったこと、折角買ったワインをうっかり手を滑らせ全部おしゃかにしてしまったことなど、原因は多々ある。しかし今一番彼をそうさせているのは、リビングのソファーに我が物顔で寝そべっている魔女・ベヨネッタの存在だった。
――小さな頃はあんなに無邪気でかわいかったのに。こんなに変わってしまうものなのか。
女性という生き物の神秘性に畏怖しつつ、は黙々と昼食を作る。
狼男である。本来ならば、満月の近いこの時期にはもっと明るく、溌剌とする。……あくまで普段に比べてそうなるだけで、判りやすく弾けたり羽目を外すような真似はしないが。
しかし今日の彼は、まるで借りてきた猫のように大人しい。住み処にいるはずだし、どちらかと言えばイヌ科の自分が“借りてきた猫”というのは可笑しな状態だ。それは彼が一番判っている。
はベヨネッタが嫌いな訳ではない。寧ろ彼女に抱く感情は好意的なものばかりだ。ただ彼はベヨネッタに限らず、女性への接し方というものを身につける機会に恵まれなかった。だから、此方をからかうようなベヨネッタの、本気か冗談か判断しかねる扇情的なアプローチにおろおろしてしまうのだ。
「パスタで良かったかい、お嬢さん」
「ありがとうワンちゃん」
「どういたしまして」
可愛らしい呼び名を訂正する気もない。はまるで従者のような恭しさと共に、出来上がったばかりのパスタをテーブルに並べた。
「飲み物は紅茶で良かったかな。コーヒーもあるが。昼間からワインってのは、いただけないよな」
独り言に似た響きを持つの問いかけに、「紅茶で結構よ」と魔女が笑う。
手際よく飲み物を準備し終えたと、ソファーから体を起こしたベヨネッタ。向かい合う形でテーブルについた二人は、早速ランチと洒落込んだ。
「トマトソース? 本当にトマト好きね、」
「それもこれも健康のため、あとトマトの安い店が近くにあるからだな。嫌いでは無いだろ?」
「おじさまの作る料理なら何でもイケちゃうわ」
「最高の誉め言葉だよ、お嬢ちゃん」
せめて“お兄さん”くらいにして欲しいが、我儘はぐっと堪えてはベヨネッタと語らう。
「浮いた噂をちっとも聞かないけれど、貴方まさかソッチ系がお好み?」
「終わった恋への踏ん切りとケジメがつかないだけさ」
「まあ、一途」
もしくはとびきり特別な意固地ね。
パスタをぱくりと一口上品に頂いてから、ベヨネッタがくすくすと笑う。
は決して口答えや反論をしない。この事に関しては、ほぼ彼女の言うとおりだった。
「……群れで教わった生き方がたまたまそうだった。だから俺もそうなっただけで、多分特別なことじゃあない」
は笑った。珍しく突っ込んだ話を振ってくるベヨネッタを見ながら、問いかける。
「もしかして、群れのことを聞きに来たのか?」
「正しくは生粋の“人狼”についてよ」
「なるほどな。……どう、語ればいいもんかな……」
「ありのまま、あるだけの情報を頂戴な」
ベヨネッタの瞳が、眼鏡の向こうで優しく細められた。純粋な好奇が伝わってくる。こういう視線は嫌いではない。ましてや幼い頃から面倒を見てきた子が相手なのだ。
親が子に昔の思い出を明かすような調子で、はゆっくりと語り始めた。
「俺の群れだけが特別な訳ではなく、種族として全体的にそうだと聞いた。群れの仲間は家族。人間と適度な距離を置きつつ、一応何かがあった時のために人の生き方も学ぶ。だから俺達は、ときには野を駆ける狼として、またあるときには動物を追いながら過ごす遊牧民として生きた。群れを守ることが第一だったから、必然的に人間とは友好的な関係を保つようになっていた」
目蓋を閉じれば、その日々のことが今も鮮明に蘇る。仲間たちとの生活は、楽しかった。人との交流も嫌ではなかった。
人は弱く、暖かい。彼らと過ごすことは単なる学習ではなく――少なくともにとっては、心から楽しめることのひとつだ。今もそれは変わらない。
しかし――。
「中には、積極的に人間を襲うような奴もいる。多分、今も何処かにいるだろうな。……俺たちの場合は、吸血鬼がそれだっだ」
ベヨネッタは、ああ、と軽く頷いた。頬杖をつきながら、を見上げるような眼差しを向けている。
「なるほどね。でも吸血鬼みんなが悪いってわけじゃないでしょ?」
「そりゃあな。だが吸血鬼はどうしても人間の血を頂かなくちゃならない難しい種族だ」
一旦が紅茶で喉を潤す。冷めないうちにとさっさとパスタも平らげ、ふうと一息。
吸血鬼の話に移った途端、の表情は陰る。しかしの種族や生き方について語るには、触れざるを得ない話題だった。
「動物の血で飢えを凌ぐ奴も中にはいるらしいが……それを続けると、その動物に近付いてしまって、結果的に自我が崩壊する。吸血鬼ではないものに変わるんだとさ……」
「ああ、そんな話も聞いたことがあるわね」
「……そういう訳でさ、吸血鬼が出たんだ。俺の群れが交流している人間が住む街に。残念なことに血の気の多い奴がな」
吸血鬼は子供と女性を次々に襲った。人の身で敵う相手では無い。の群れは酷く悩んだ。悩んだ挙げ句に、大きな決断を下した。
「俺の群れのリーダーが、街を荒らす吸血鬼と戦い、始末した。……逆に、暴れまわる狼男を吸血鬼が始末したって話も沢山聞いた。出来れば平穏に暮らしたいって気持ちは同じなのに、相性が悪いんだろうな。俺たちと吸血鬼は、話し合いってのがなかなか上手くいかない」
そうして街に平和が戻るかと思いきや、そうはならなかった。
「次第に吸血鬼狩り、狼男狩りが始まった。魔女狩りのようにな。とにかく人ならざるものを排除するって流れになった。皮を剥がされた仲間もいた。その皮を得て無茶な呪いをして、人間が狂っていくのも見た。……見ていられなくなったよ」
「確かに、魔女を名乗るおバカな人間がそんなことをしていたらしいわね」
「本当に参るよ。今もそういうことが続いてるんだろうな。たまに依頼を受ける」
「そういう男だものね、あなたは」
ベヨネッタも話の最中に食事を終えていた。は彼女の分の食器も回収しながら、こう溢した。
「俺は生まれながらの狼男だったし、生き方を教えてくれる存在がいた。けど呪いでそうなった奴等は、満月や自分に怯えて生きる。彼らへ指針を与えるのは、人間たちに介入してしまった俺の義務だと思う」
「その堅っ苦しい考えが恋愛にまで影響してるわけなの?」
「かもな。歳のせいもあるだろうけど」
歳を食うと何でも引き摺ってしまうな、とは苦笑する。
ベヨネッタは何も言わない。
沈黙のなか、はさっさと食器を片付けた。
「紅茶のおかわりは?」
「いただくわ」
二杯目の紅茶を互いのカップに注ぎながら、はベヨネッタに尋ねる。
「何故、人狼について聞きたがった?」
「あら、レディにそこまで言わせる気?」
思わせ振りなベヨネッタの返答に、目に見えて硬直する。歳のわりにそういうところは全く成長しない男だ。
――あなたの中で私はまだカワイイお子さまってことでもあるんでしょうね。
「……興味と好奇心よ」
諦め気味に笑って魔女がそう言うと、何故か狼男は安心したように胸を撫で下ろしていた。どちらが年上なのか判らなくなるような子供くささだ。
「まあ、俺だけ君の過去を知っているっていうのもフェアじゃないしな。丁度良かったか」
しかし、今まで聞いても話してくれなかった過去を彼が打ち明けてくれたことは、彼女の中で確かな喜びとなっていた。
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