最近よく通っている本屋に、気になる人がいる。
両目が隠れそうなくらいに伸びた前髪、度がきつそうな眼鏡。背は高いのに細くて、折れそうに見えた。
名前はさん。
「すみません……」
「はい、いらっしゃいませ、……あっ」
おずおずと声を掛けると、ハッとしたように目を丸めて、それからさんは笑った。
「この間、注文していった本ですよね? 申し訳無いんですけれど、入るの明日になりそうなんです」
「そうですか……」
本ではない他のことに、僕の目的はあった。
「……あの、さん。このあと、お暇ですか」
「へっ? まあ、はい……」
「5時で終わりですよね? 僕、待ってますから」
「え、はぁ……」
少し強引だったかもしれないけれど、さんが頷いてくれたのを確認して本屋を出た。
近くのコンビニで時間を潰してから本屋に戻ると、丁度さんが来たところだった。
「お、おまたせ……」
「すいません、いきなり誘ったりして」
「い、いや、良いんだよ。僕は大丈夫。タツオくんの方が良いなら……」
「名前、覚えててくれたんですね」
「よく来てくれるし、ね」
垣間見えた瞳が穏やかに細められていたのが、すごく嬉しかった。顔が赤くなりそうになるのを必死にごまかす。
……さんは、優しい人だ。
少し気の弱いところがあって、こんな風に話せるようになるまで時間が掛かったけど……。
「さん」
「え?」
「二人きりで話したいから…少し歩きませんか」
「い、良いけれど…」
僕はさんの手を掴んで歩き始めた。
細いその指先は冷えて切っていて。少しでも温かくなるように、そっと握る。
さんが慌てていたのを、小さく笑って知らん振りした。
「さんに、聞きたいことがあるんです」
誰もいない公園。少し肌寒い風が抜ける中、僕たちは揃ってベンチに腰掛けた。
さんは何も言わずに僕を見つめて、言葉を待っている。
僕は続けた。
「さんは、この世界が嫌になったことはありませんか?」
「え……」
さんは、何か心当たりでもあるように息を呑んだ。
「僕は、キッカケさえ有ればこの世界を棄てて、違う世界に行ってみたいって思います」
「タツオくん…?」
「さんは、どうですか」
かなりの時間、さんは悩んでいた。繋いだままの手から、小さな震えが伝わってくる。
「……僕は」
か細いさんの声に、じっと耳を澄ませた。
「確かに、この世の中で生きるのが嫌になったりするけれど……でも」
顔を上げたさんは、泣きそうな顔で笑っていた。
「それでもこの世の中で生きてるのは……、多分、此処が僕の生きる場所だって、判ってるからなんだと…思う」
眼鏡を外して、さんは何度も目を擦った。
「だから、此処で生きてたいかなぁ……」
間に合わなくて涙がぽたぽたと零れる。僕は慌ててハンカチを差し出した。
「すみません、変なこと聞いて……」
「いや、これは僕が泣き虫なだけで……ごめんね。色々と思い出しちゃって、つい……」
大人が情けないよね、とさんは落ち込んだ。
――そんなこと、ない。
この世界に未練は無い。
そう思って、僕はサイレンの世界へのアンケートに答えてしまった。
今思えば、僕はただ逃げただけで、未練が無いというのも、嘘で。
ああ、もっと早くに、さんと出会っていたなら。少しは僕も、この世界に馴染めたのかな。
「さん」
震える腕で、さんを抱き締めた。さんが慌てているのがよく判る。
「ごめんなさい、ありがとうございます」
「え、え?」
「…最後にまた困らせちゃうかもしれないんですけど、言わせて下さい」
少し息を呑んで、僕は決心した。
「僕、あなたのこと、好きです」
これから何があっても、何処へ行っても、きっと変わりません。
僕は、あなたのことが大好きです。
「あなたにも僕のことを好きになって、とは言いませんから。僕がさんのことを好きだってことを知ってくれたら、良いですから」
僕は泣きそうな顔になってると思う。
そっとさんを離して、立ち上がる。振り返らずに歩き出す。
「――た、タツオくん!」
さんに呼ばれて、思わず足が止まる。それでも振り返らない。
「ぼ、僕も、好きだよ! タツオくんのこと、好きだよ! だから…」
珍しく大きな、さんの声。
「まるで今生の別れみたいに、言わないでよ…」
僕は何も言えなかった。
零れた涙を両手で拭いながら、さんを置いて、走った――。
あれから僕はサイレン世界へと迷い込んだ。
沢山の恐ろしい思いをして、気付いたら自分の身体はとうにボロボロで。
「さん…」
そういえば、頼んでおいた本、取りに行けずじまいだった。
(いつか元の世界に戻れたら…取りに行こう。さんなら、まだ取っておいてくれてるよね)
澱んだ液体が滲む胸の傷が、強く痛んだ。
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