手が届く距離に幸せがあるというのは、本当に恵まれたことだ。
食べ物に困らず、着る物に困らず、寝床にも困らず、共に生きる存在もいる。少なくとも、今は。
あまりにもはっきりしていた貧富の差も、ようやく消える兆しが見え始めた。
まだ隔たりは完全に無くなったわけではないが、変わりつつある。
そう、感じた。
だが一度経験した底辺の記憶は、決して消えない。
大切なものがどれほど呆気なく失われるのか。容易く奪われるのか。
それを知っているからこそ、手にしたものへの執着は強くなっていった。
「ジャック?」
は、不思議そうにオレの名を呼ぶ。ゆるく跳ねた黒髪に頬を寄せるようにして、を抱き締める。
控えめにオレの背へと回されるの手。静かにオレへ身を任せる温もりに、どうしようもなく胸は高鳴った。
「ジャック、あったかいな」
「貴様のせいだ」
「そうなのか。……ごめん」
「謝ることなど何もない」
自分でもどうしてこんな口を利いてしまうのかと、腹立たしくなることがある。それでもは怒らなかった。全てオレの照れ隠しであることが、にはお見通しなのだ。
なんと聡明で愛しい存在だろうか。
を抱きかかえ、ソファーに腰を下ろす。オレの膝に乗せられたは、きょとんとした顔でこちらを見ている。
のこういう表情が大好きだ。子供のように純粋な眼差しが、オレだけを映して輝く。
「どうした? なんか面白いか?」
「いや、小さい上に軽いなと思っていた」
「ばか。お前がおっきいだけで俺は普通サイズなの!」
ぺしりと頭をはたかれた。
口調の割に怒っている様子はない。つい笑みが零れる。
を引き寄せ、柔らかな頬に口付けした。くすぐったそうに身をよじるを決して離さずに、少しずつ唇で触れる位置を下げていく。
「ジャック、ちょっ……」
肉の薄い首筋に触れると、の声が掠れた。
のささやかな抵抗を封じる為に、ソファーに押し倒す。何か言いたげな顔をしていたが、気にしない。
服の隙間から手を滑り込ませ、の肌に触れる。
「なっ、おまっ……!」
「嫌か? 嫌だと言われても続けるがな」
「意味ねえじゃないか!」
言葉に反して、触れる度には小さく震えて反応した。
強情な方が、色々と甲斐もあるというものだ。
「だいたいリビングだぞ、誰が何時来るかも判んないんだから!」
の言葉には一理ある。しかし、この衝動を押さえるのはなかなか厳しい。
オレが黙り込むと、は更に言い募った。
「そんながっつかなくたって、大丈夫だろ!? 俺は溶けて消えるもんでもないし、落ち着いて! マジ何かあったのかジャックっ?」
……溶けて消えてしまっては困る。
だが貴様は実際消えかねないではないか。
ある日ふらっと現れたのことだ。いなくなるときも一瞬に違いない。
大事なものほど、なくなる時は、あっという間だ。
「判っている。だがそれとこれは話が別だ」
口では平静を装った。しかしオレは確実に動揺していた。
(消えようなどと思えぬように、オレという存在を、この体に刻み込んでおかなければ)
何時来るかも判らないその瞬間に、どうして怯える必要があるのか。
自分らしくもないことを考えているのが嫌だった。
は諦めきれないようだったが、反論される前に口を塞ぐ。
重ねた唇は、熱かった。
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