「ヒコにゃん」

 時が止まった。
 真田は静かに、真正面で真顔で突っ立っているを見据えた。
 の後ろには、慌てる風花、笑いを堪える順平とゆかり。そして盛大に噴き出す奏夜の姿があった。
 真田は、額を押さえながら聞き返す。

「今なんて言った?」
「ヒコにゃん」
「俺は何処ぞのマスコットキャラクターか!」

 恥ずかしさに赤くなる真田を、は指でさしながら笑い始めた。

「でも先輩、落ち込んだ時とかまじヒコにゃんって感じの顔なんですもん!」
「ひ、ヒコにゃん言うな! どんな顔だ、ヒコにゃんって感じって!」
「こういう顔」

 は携帯を差し出した。そこにはしょぼくれた真田の顔が画面いっぱいに写っている。

「い、いつの間にこんな……」
「ヒコにゃん顔でしょ」

 悪びれる素振りも無く、はニッコリと笑った。あまりにも見事な笑顔に、今度は別の意味で真田の顔は赤くなる。

「と、とにかく! もうその呼び方は止めろっ」
「真田サンたら、ちょっとしたジョークっすよ! な、
「ねー」
「ひこにゃんに似てるって言ったの風花だしね?」
「あっ、ちょ、ゆかりちゃん!」

 盛り上がる後輩たちをそのままに、真田はずかずかと階段を上った。
 部屋に戻り、トレーニングもそこそこに切り上げ、風呂から上がってすぐ布団に潜る。
 何だか、変に疲れた。
 真田は目を閉じた。



◆◆◆



 何時ものように学校へ向かう。
 何時ものように女子に囲まれる。
 昨日の妙な疲れが抜けない身には、少しきつい。

「真田せんぱーい」
「ねえっ、先輩ったらー」
「ヒコにゃーん」

 ――!?
 今、ひとつおかしな呼び声がまじっていた。
 真田は周囲に視線を巡らせ、見覚えある黒髪に素早く近付き、肩に担ぐようにして強制連行した。
 女子たちが唖然と見つめる中、真田は、を抱えたまま駆け続けた……。
 ……走り続けて、校門近くの中庭までやってきた。

「ちょ、先輩、スカートめくれるっ!」
「あっ、すまない!」
「馬鹿掴むな馬鹿セクハラーッ!」

 スカートを押さえるつもりがに怒られた。触りどころが悪かったらしい。
 「男同士なんだから良いだろ……」という真田の言い訳はあっさり黙殺された。
 やかましいのでいい加減を下ろしてやる。
 校門そばの茂みの中。向こうには屋根とベンチがついた、簡易な休憩所がある。が好んで立ち寄る場所だ。

「……俺がこんな行動に出た理由は判ってるな?」
「ヒコにゃん」
「そう、それだ!」

 良く通る声と共に、後輩をびしりと指差しながら真田は返した。
 には反省する様子もない。

「いーじゃん。愛称っすよ単なる愛称」
「良くない。俺の威厳に関わる」
「だって、先輩のリアクションが面白いから!」
「遂に自白したな良い度胸だ」

 ハッ、とは大袈裟に肩を跳ねさせた。
 右手の平に左手を固めた拳を軽く打ち付け、真田はにこやかに笑いながら怒っている。

「人前でもうヒコにゃんなんて言うなよ」
「す、すいません。気をつけます……けど」
「……どうした?」

 が何か言いたげに真田を見つめる。
 真田が尋ねると、はそっと口を開いた。

「あきひこにゃんだったら怒らない?」
「一発いっとくか?」
「すいません冗談です」
「俺も冗談だよ……」

 本気で怯えるが気の毒になって、真田はなるべく穏やかに返した。
 ぱあっとの顔に活気が戻る。表情がコロコロと変わる様は、子供のようだ。不思議と、胸の奥が暖かくなる……。

「愛称をつけて真田先輩と仲良くしよう作戦失敗かー」
「……十分に仲は良いだろう?」

 じゃないと、あんな間抜けな顔を撮られたりしていない……。
 いわく『ヒコにゃん顔』の写真を思い出す。
 幾らなんでも、仲が良くない奴が近くで写真を撮っていたら、気付く。察する。警戒する。
 そんな勘定を沢山込めて、真田は笑った。

「お前といると飽きないしな」
「天谷くんほどでは」
「あれは例外だ……」

 は何だかニヤニヤとしている。
 真田は首をかしげた。
 何か変なことを言ったか、俺。
 そんな真田の心情を察したように、が口を開く。

「“お前といると飽きないしな”……なんて! 俺だからよかったものの、女子には気安く言ったら駄目ですよ。立派な口説き文句ですヒコにゃん!」

 一瞬呆気にとられながらも、真田は我に返った。

「は? ……って、今、ヒコにゃんと言ったな?」
「先輩、“人前で言うな”って言いましたもん。今、誰もいないし」
「俺がいるだろ!」

 怒る真田を、はいはいとあしらい、は話を切り換える。

「思わぬ形で先輩の気持ちを知れました。良かった俺、嫌われて無くてっ」
「嫌われて……なんて思ってもないくせに」
「あ、バレました?」

 は満面の笑みだ。

「先輩、ウソ下手だから。俺のこと嫌なら嫌って言うよなーって」
「判ってるじゃないか」

 真田も笑い返す。
 結局のペースに呑まれて話は収束した。が、嫌な気はしない。
 ――さて、何だかんだと話しているうち、随分と時間が経ってしまった。
 今日は部活も無いし……どうするか。
 少し考えてから。真田はを見た。

、海牛にでも寄ってかないか?」
「おー、行きましょ行きましょ」

 二人は揃って校門から出ると、巌戸台駅へと向かったのだった……。



◆◆◆



 ――翌日。
 普段通りに登校したものの、何だか周囲の視線がおかしい。
 真田は不思議に思いつつも校門を抜けた。

「明彦」

 呼び声に振り返ると、何故か厳しい表情の美鶴が立っていた。
立ち止まる真田に近寄ると、重たそうな口を開く。

「……神聖なる学舎でそういう行為に及ぶのはどうかと思う」
「は? 何の話だ……」
「昨日、下級生の女子を茂みに連れ込んだそうじゃないか。暫くしてから二人揃って下校したとか」

 あくまで風の噂だが“一発いっとくか”だの“俺がいるだろ”だの、何やら騒がしかったようだな……。
 そう言い募る美鶴に、真田は「ああ」と合点がいったように頷いた。

「……が“ヒコにゃん”と煩いから、注意しただけだ」
「え? だったのか、女子というからてっきり……まあ見た目、女子だものな」
「ギャラリーがいる中じゃマトモに注意なんてできないだろ?」
「なるほど。すまない、私の誤解だったようだ。……だがの見掛けはああなんだ、もう少し配慮すべきだぞ?」
「ああ、悪いな」

 美鶴は謝罪を述べると早々に立ち去った。
 真田はホッとした。下手をしたら「学び舎を何だと思っている!」と怒声をくらい、“処刑”が執行されたに違いない。

「誰だか知らないが、下らない噂を流しやがって……」

 その下らない噂に、真田とがしばらく振り回されるのは、また別の話であった……。

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