波の音。とても懐かしい、海のこえ。極寒の地に隔離された此処では聞くことの叶わない音。あのしょっぱい風を浴びるのは嫌いじゃなかった。
 あおく、ひろい、うみ。
 懐かしい、なつかしい、うみ。
 何度も読み返すうちに草臥れ切った小説を机に置いて、部屋を出る。新しい本が欲しいな、とこれまた叶わないことを考えた。昨日までびっちり一週間殆ど眠らず作業していた。いい加減眠らなくては体がもたないと思ったけれど、限界を超えた体から睡眠欲求は飛び出してしまっている。
「海は、広いーなー……」かすれた歌声で廊下を進む。出来るだけ可及的速やかに睡眠導入剤の処方を求む。でもドクターは忙しいし、勝手にくすねてしまおうか。医務室にるんるんで忍び込み、すっかり慣れた調子で薬を頂戴する。
 ミッションコンプリート。
 嬉々として医務室を出た私を「ちょっと待った」と止める声が。

「何ですかロビンさん」
「何ですかじゃないっすよ。おたく何くすねてきたんですか」
「いつもの通り……薬物を」
「何で危うげな言い回しを選ぶかね」

 私から薬をふんだくったロビンさんが、医務室に薬を返して戻ってくる。その感、数秒。私より速い。カルデア歴は間違いなく私の方が上だというのにこれが英霊か。
 たんまり溜息を吐いてロビンさんは私を見た。

「とりあえず飯を食わないと。ここのところロクに食ってないって顔だ」
「あまりお腹空いてなーい……」
「ちょっとで良いんですよ。2、3日食わないとかはまぁ俺も人のこと言えた義理じゃあなし、けど一週間はキツすぎる。そんなインドア体質なら尚更。脂肪どころか筋肉も削げてく。あまりってこたァ少しは減ってんでしょーよ。御粥でもおじやでも一口二口摂取してそれでも駄目ならまた薬持ってきてやるから」
「死ぬ、このままでは死んでしまう……」
「だーかーら、死なないようにいい加減食えって言ってんでしょーが」
「……まあ、何か食べたら眠くなる可能性も無きにしも非ずですよね」
「そうそう」

 ロビンさんの面倒見の良さはもう周知の事実。本人に言ったところで「そんなんじゃないですよ」とか恥ずかしそうに逃げられるだけなので、大人しく捕まっておく。

「おかゆかぁ。エミヤさんのおかゆすごい美味しいだろうなあ」

 ……とか思っていたら、私は真っ直ぐ部屋へと連行された。え、食堂行かせてくれないの、と思っていると、何故か私のデスクにほっかほかのお粥がスタンバイしていた。「前もって頼んどいたんですよ」手際の良いメイキング。わざわざここまでお粥を持ってきてくれたエミヤさんにも後でお礼を言わねばなるまい。「なに、気にするな」とか爽やかに返されるのだろうけれど。
 ほら座りなさい、と椅子を引っ張られ、大人しく座る。アツアツのお粥を、少しずつ私は口に運ぶ。熱いけどとっても美味しい。流石はカルデアの厨房を支えるアーチャーの一品。見張りのロビンさんの視線さえなければ顔を存分にふやかしているところだ。
 私は睡眠より食事を欲していたらしい。するするとお粥が喉を通っていく。お腹が満たされていく。

「母なる海だ……これは母のごとき海のように大らかで大きな優しい素敵なものだ……」
「相当参ってるなこりゃ……何言ってるか全然わからねぇ……」
「いやちゃんと関係あるんですよ。アッサリとした塩気に私は、ついさっきまで懐かしんで思い返していた海をリンクさせてですね。ああもうそんなことより美味しい、たまらん、美味しい」

 一週間ほぼ断食状態だった私にも丁度いい優しさと量だった。はふ、と至福のひとときを済ませ椅子に凭れる私のお腹はきゅるきゅると、英霊とはいえ男性の前で響かせるのは羞恥心を刺激するようなうなりを上げた。はっとしてロビンさんを見る。ロビンさんはぼーっとそっぽを向いて、聞かないふりをしていてくれていた。なんてイケメンだ。

「ロビンさんって超イケメンですよねぇ……」
「は? 何ですかそりゃ」
「外見も中身も素敵な男性とおほめしているのですよぉ……」
「いや、俺が言ったのはそういう意味じゃなくて……。ああ、おたく、さては眠気でいよいよおかしくなったな」
「眠いのは事実ですけれど……ロビンさんのイケメンぶりもまた事実」

 さてお鍋を片付けなくては、と立ったところで急激な眠気。ふらつくというよりは頽れる形で床に片膝をついた。「大丈夫か」ちょっとばかり焦ったロビンさんの声に、平気です平気と手を振って返す。

「一週間のツケが来たところですよ……」
「あー良いから、ベッドまで歩けます? 歩けないよな、ちょっと失礼するぜ」

 ロビンさんが支えてベッドまで運んでくれた。なんたる紳士。卑怯者とか自分を卑下するの止めた方がいい。この親戚の素敵なお兄ちゃんみたいな親しみやすさかつ憧れ感を振りまいておきながら卑下は止めるべきだ。「さすが顔のロビンキング……」「混ざってる」ツッコミも冴えたもの。何だろうこの英霊、パーフェクト過ぎないですか? そんな英霊に世話されている私は一体何ですか? 英霊すら見兼ねるダメダメっぷりとは。ドクターロマンとヘタレ決定戦をしたら私が刺し違える形で勝利するかもしれない。ドクターはヘタレでもとても優秀有能な方なので、完全に此方が圧倒的不利。そうだ、カルデアがこんなことになる前は、いつかマシュちゃんと海に行きたいなぁとか、ドクターに話して寂しい顔をさせてしまっていた。

「ロビンさん……ロビンさん……海は好きですか」
「へ?」
「いつか海……一緒に行けたら良いなって……」

 ベッドに横たわりながら、私はいよいよ現実と夢想の境目が危うい微睡に差し掛かっていた。
 当然のように受肉しカルデアにいてくれるサーヴァント。彼らとの交流は人間同士のそれと何ら変わりなく、彼らの存在にはカルデアの使命うんぬんを抜いても支えられていた。そして、彼らと共にあることが当然のようになりつつある私にとっては、いつか、ここを出て皆で大はしゃぎできたらなんて。そんな、どうしようもない空想が過ぎるのだ。

「きっと……ロビンさん、海も似合う……」

 私の意識は、そこで睡魔に攫われていった。




 英霊と共に『外に出たい』だなんて。『海に行きたい』だなんて。
 よりにもよって。しかも誘う相手が俺だなんて。
 眠りこけた彼女にブランケットをかけてやりながら、苦笑いを浮かべる。
 ――無理で、ムチャクチャな願いだ。
 マスターでもない、同じ英霊でもない、ただの人間だからこそ、そんな惚けたことが言えるのだろうか。
 その思いを、睡魔に抗ってまで俺に告げる意味は何だろう。

の知ってる海ってのがどんなところか、興味はあるけどな」

 気持ちよさそうに一週間ぶりの熟睡を堪能している彼女の邪魔にならないよう、そっと部屋を出る。空になった鍋を持ち出すことも忘れずに。

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