流れる水はキラキラと陽光を返して輝き、透き通った川の底を泳ぐ魚の姿がちらついた。川の中にそっと手を差し込むと、想像よりずっと温かい水の感覚に驚く。形のないものに触れるのは何だか楽しくて、は何度も水をかいた。ぱしゃり、ぱしゃりと雫が跳ねる。前のめりになって水で遊んでいると、後ろからふと声がした。
「それ以上傾いだら、頭のてっぺんから川に落ちてしまうぞ」
釣り道具を抱えたサレオスのものだった。は慌てて身を引き振り返る。にこにこと微笑むサレオスは、そのままの隣までやってくると、腰を下ろした。釣り針に虫を引っ掛けながら彼はに問う。
「川が珍しいのか?」
こくりとは頷いた。「そうか、そうか」サレオスも頷く。
川に釣り糸を垂らしながら、サレオスは更にに問いかけた。どうしてそんなに川が珍しいのか。水が好きなのか。それとも魚が好きなのか。
サレオスの釣りを観察しながら、は答える。捕まっている間は川含め自然のすべてから離れていたから。水が好きというより、お日様を受けて輝く姿が好きだから。魚は食べられるけれど、特別好きなわけではない。
が答えるたびに、サレオスは「そうか」「なるほどなあ」と、興味深そうに頷いていた。
サレオスが魚を釣り上げると、は拍手をした。楽しそうに魚を次々と釣っていくサレオスを見て、素人のでも彼が釣り上手であることが分かった。
「サレオスさん、すごい。魚を釣るの得意なの?」
「いやぁ、今日は調子が良いだけさ。釣れないときはとことん釣れん」
「どのくらい釣れないの?」
「五時間粘ってボウズ、なんてこともままあるぞ」
「五時間……。そんなに座ってたらお尻が固まっちゃいそう……」
「ああ。カチコチになるな」
笑うサレオスの坊主頭がきらりと輝く。眩しい。は少しばかり目を細めた。彼の坊主頭は常にぴかぴかと輝いているように思えた。恐らくの気のせいなのだが、今も実際眩しい。
は自分が何をしに川へ来ていたのかもすっかり忘れて、サレオスの釣りを眺めていた。
サレオスは穏やかな人物だ。水が流れるように自然になりゆきを任せて、ただ穏やかならぬものがあればそれを制して、またゆっくりと流れに身を任せていく。彼といると時間の流れがゆったりと感じられた。緊張しいなも適度に肩の力を抜いて話せる彼の人柄は、個性豊かなメギドの中では逆に珍しく思える。
「……さて。そろそろアジトに帰るとするか!」
「はい」
籠いっぱいの魚を見て、サレオスはうんうんと頷く。
「今日のアジトの面子ぶんぐらいは賄えそうだな。ソロモンたちはいないが、のんびり夕飯を楽しもう」
「そっか、ソロモンさんたち、今日いないんだった……」
「さみしいか?」
質問されることは苦手なはずなのに、は不思議とサレオスの質問には落ち着いて答えることが出来た。
「少しさみしいけれど、サレオスさんたちもいるから、平気です。……気を遣ってくれたんですか?」
「お前さんはソロモンに随分と懐いているように見えるからな」
こまめに話を振っていたのもの気を紛らわすため、川まで来たのもの様子を見るためだったことをサレオスは明かした。「川の近くまでお散歩してきます」と書置きを残して行ったを心配して、内心慌ててここまで来てくれたのだと言う。
「ひとりで川は危ないからな。うん。何事も無くて良かった」
「ありがとうございます……」
「どういたしまして、だ。思ったよりお前さんはしゃんとしてるらしい。余計な世話をやいてしまったか」
「いえ、余計だなんて。とてもありがたかったです」
頭を撫でて苦笑するサレオスに、首を振りながらは返した。
「多分、サレオスさんに声を掛けてもらってなかったら、本当に真っ逆さまに川に落ちていたと思うから」
川はそれほど深くないが浅くもなかった。少し進めばの小柄な体はすっぽり沈みそうなぐらいに、緩やかに中心に向かって深くなっていた。膝まで水があれは人間は溺れてしまう、と何処かで聞いたことがある。膝をはるかに上回るあの川に落ちていたら、泳ぎ方を知らないはパニックになっていたに違いない。
でも、何だか川の底というのは心惹かれるのだ。やんわり冷えた流水の下から見上げる空は、どんなに輝いているのだろう。優雅に泳ぐ魚の腹を見上げたら、どんなに胸躍るだろう。水に包まれ、あらゆるものから遮断されたその世界は、どんな心地がするだろう。
俯くの横顔を見て、サレオスは、何となく彼女の心情を察した。
「川は美しいが、怖い」
「……はい」
「万が一変な誘惑が沸き起こるようなら、俺の起こす水の流れを思い出すといいぜ。きっと目が覚める」
サレオスが操る水。は以前見た戦いの記憶を呼び起こした。
敵を飲み込む激流――。時にその流れは呪いとなって敵の体を蝕む。沢山の亡骸を蓄えた竜のような彼のメギド体。恐ろしくもどこか雄々しいものだった。
のみならずヴィータにとってメギドというのは驚異そのもの。慣れることは決してなかったが、以前ほど恐れを抱くことはなくなっていた。だがそれが「甘さ」なのだと気づく。たまたま彼らを統べるソロモン王が平和的な性格であり、サレオスもまた平和を好む性質であるからこそ、こうやって対話が叶っている。本来ならば交わることのなかった線同士で、こうやって並んで歩けることは奇跡に等しい。
――私は何て馬鹿なんだろう。
はすっかり現状に甘んじている己を恥じた。
「何だ、まあ……とりあえず程々にということだ」
の表情がどんどん複雑になっていったのを見て、サレオスは再び口を開いた。
「恐らく余計なことにまで考えを巡らせてひとりで落ち込んでいるんだろうが、考えすぎも良くないぞ」
「はい……。すごく難しいです……」
「お前さんの場合は気楽に考えるぐらいが丁度よさげだ」
ぽんと背中を叩かれて、は面食らったように目を丸めた。しかし、見上げたサレオスの笑顔に、つられて顔を綻ばせる。
「そうそう、そうやって笑っていた方がいい」
サレオスは安堵しながら言い添える。
「今までのぶんを取り返すぐらい、いっぱい笑っていこうぜ」
サレオスに自覚があるのかないのかは分からない。しかし彼の態度や言葉は、にとって、緊張を和らげて心を温かくしてくれるものばかりだった。
メギドとしての力をひけらかしたり強調することもなく、まるで普通のヴィータのように――いや、ヴィータよりもずと同じく近い目線で立ってくれるサレオスに、少女は改めて深く感謝する。
彼の気遣いに応えられるよう、今一度笑みを浮かべて。
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