の胸は高鳴っていた。自然と頬も赤らみ、じんわりと体は熱を持っていく。
ユリウスは手袋をしているが、の体温の上昇に気付いていた。笑みを深め、何も言わずにの手を握り直してみせる。
「遅いな、ルドガー」
「そうですね……」
ユリウスが幾ら微笑もうと、にその表情は見えない。の視覚を補うための源霊匣が――ジュードの協力によって試作された簡易的なものだが、の視力を常人と変わらぬレベルに戻してくれた素晴らしい発明品だ――、今、彼女の元には無かった。
先程にぶつかったエレンピオス人が、の源霊匣諸々の入った荷物を持ち去ったのである。ひったくりだ。それを見たルドガーはすぐさま犯人を追い掛けた。走り出す直前に兄へ向けて、
「兄さん、のこと頼む!」
と、言い残して。
――それからかれこれ一時間、ユリウスはの手を握り、街の片隅のベンチに座っていた。源霊匣が無いとは目が見えない。まるで神がかった封印のように彼女の目蓋は閉じたままで、ずっと瞳を覆い隠している。これは、目が見えないの癖らしい。病で目を患って以来、開けていても気味悪がられるならばと閉ざし始めたのだとか。だが心配も同情も必要ない。源霊匣を得てから彼女は瞼を閉ざさぬように心掛けている。荷物さえ戻ればまた開かれることだろう。
故にユリウスは、の手を握ってやることにした。見えないならば触れてやるしかないと思ったのだ。すると不安そうだったの顔が確かに綻んだものだから、彼も“良かった”と胸を撫で下ろした。遠い昔、幼いルドガーの手を引いて歩いていた頃にも似た、暖かいものが彼の心を満たしていく。
しかし次第には恥ずかしくなってきたのか、左手から伝わる温もりは時間ごとに増していた。
目が見えないながらも、は人の感情をしっかり察することが出来る。声音やイントネーションの微妙な違い、然り気無い仕草から生まれる音、その人が纏う雰囲気……。目が見えないからこそ、そういった感覚が鋭敏になったのだろうか。だからは、相手の顔が見えなくても、表情が判らなくても、難なく他者とコミュニケーションを交わす。ユリウスが笑っていることも、は判っているのだ。
対するの表情は晴れない。
「ルドガー様にもユリウス様にも、会ったばかりだというのにご迷惑をお掛けして申し訳ないです……」
「そんなことはないさ、ルドガーが試験に落ちて沈んでいるときに元気付けてくれたそうじゃないか。それに困ったときはお互い様だ」
「いいえ! 此方こそエレンピオスでの勝手が判らず悩んでいたところ話して頂けて、本当に救われましたから」
はリーゼ・マクシア人で、行方の知れぬ弟を探してエレンピオスにやって来た。弟を持つユリウスには、の心配が手に取るように判る。家族の大切さは誰よりも強く実感してきていた。
そして今が、ユリウスたちの手を煩わせてしまっていることを深く悔やみ、自分を責めていることも伝わっていた。
「気に病むことはない」
穏やかなユリウスの声に、はハッとしたように肩を震わせる。「ですが……」何か言いかけたを遮り、ユリウスは続けた。
「じゃなく、ひったくりなんかする方が悪いんだ。その辺りを遊び回ってる子供に訊いてもそう言うさ。……にしてもルドガーの奴、手間取ってるな。やはり俺が行った方が良かったか……?」
ううむと考え込むユリウス。
は、苦笑しながら彼の方に顔を向けた。瞼が少し震えたのがわかる。
「……ユリウス様は本当に素敵なお兄様ですね」
「も素敵なお姉さんだろ?」
「弟が何をしているかも判らない姉が、素敵なはずがありません」
状況のせいか、どうにもは自虐的だ。
――困った。
ユリウスは少し考えてから、改めて口を開く。
「ルドガーから聞いたんだが……」
何とかを元気付けようという思いからだった。ルドガーが話していたについての情報を思い出しながら、静かな口調でユリウスは語る。
「目が見えないのに必死に料理を練習して、弟の為に振る舞っていたんだろう? 目が見えないからと家に籠ったりせず、弟と共に村で仕事に励んでいたんだろう? それから、いなくなった弟を探すためにリーゼ・マクシア中を巡って、遂には勝手の知らないエレンピオスにまで来た。十分、弟想いな姉だと俺は思うが」
女性の一人旅というだけで危険やトラブルは増えるはず。のようにおっとりした人柄となれば尚更だ。現にひったくりに遭うぐらいにぼんやりしていて、危機感が無い。なりに気を付けていて、それがリーゼ・マクシアでは通用したとしても――エレンピオスでは不十分だ。なにせ両者の間には大きな確執がある。エレンピオスではリーゼ・マクシア人に対して排他的な組織もある。元々治安の悪い場所もある。あまりにもはこの世界にとって弱く脆い。
だが、全てを覚悟の上で来たの固い決意を、ユリウスは同時に感じ取っていた。
大切な家族の身を案じ、守りたいという想い。自分が守らねば誰が守るのだ、という強い意志を。
「まあ、些か注意不足なのは事実だ。今度からはもう少し気を付けた方がいい」
「はい……肝に銘じます」
頷きながらは、ユリウスの手を握る力を緩めた。
「あの、ユリウス様」
「何だ?」
「どうして、その……私の手を握ってくださってるんでしょうか」
戸惑いがちなの問いに、ユリウスははたとした。
街中を先導する時ならまだしも、ベンチに腰を落ち着けつけてからも二人は手を繋いだままだった。よく考えれば、手を離しても良さげなものだというのに……。
反射的にユリウスは手を解きかけた。しかし――寸でのところで止める。離れかけたの手をきゅっと握り締め、彼は笑った。
「が好きだからかな」
「えっ!?」
途端には真っ赤になった。反射的に閉じっぱなしだった目を見開いて、はユリウスの顔があるであろう位置を見上げる。源霊匣が無いながらも、しっかりその眼差しはユリウスの目を捉えていた。
偶然だろう。しかしユリウスは何となくそれが嬉しかった。
「はは、随分動揺するなぁ。可愛いぞ」
「ま、また、そんな……!」
「おっと、ようやくルドガーが戻ってきた」
が言い募ろうとするも、ちょうど駆け寄ってくるルドガーを見つけたユリウスはそう言って流してしまう。
真っ赤になって俯くの手を優しく引いて、ユリウスは立ち上がった。
「遅かったなルドガー。待ちくたびれたぞ」
「ごめん、なかなか捕まえるまで掛かって……。けど、しっかりの荷物は返してもらった」
「そうか、お疲れ様」
の荷物を抱え、息を切らしながら戻ってきた弟を、兄が労う。
兄弟のやりとりを聞いて我に返ったも、慌ててルドガーへ頭を下げた。
「あ、有難うございます、ルドガー様」
「どういたしまして」
荷物を受け取ったに、視力が戻った。焦点のあった視線を二人に注ぎながら、再びは深々と頭を下げる。
「ご迷惑をおかけ致しました。そして、本当に有難うございました」
の手が、ユリウスの左手からするりとすり抜けて行ってしまった。仄かに手袋に残る温もりも風に紛れてすぐ無くなっていくのを感じながら、ユリウスは呟いた。
「……何だか寂しいな」
「兄さん?」
「いや、何でもないさ」
呟きを聞き取れなかった弟が聞き返すも、ユリウスは涼しげに笑ってはぐらかす。
しかしユリウスの隣にいたの耳にはしっかり届いていたようだ。折角落ち着きかけていた頬の紅潮がぶり返し、耳まで赤くなっている。
理由の判らないルドガーは、心配そうにを見た。気の優しい彼は、の顔を覗き込みながら訊ねる。
「大丈夫か? 」
「だ、大丈夫れすっ……!」
盛大に噛んだの微笑ましい動揺ぶりに、ユリウスはたまらず声を上げて笑った。
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