真っ白な壁か天井を見つめる毎日。ほとんどベッドから動かないわたしは、窓から外を覗くことも少ない。
テレビも無い独りきりの病室は、無音に近かった。医師たちも、わたしに世間の話をすることは無かった。特別、“外”の話を聞きたいとも思わなかった。
入院したころは両親が見舞いに来てくれないことを気にしていたけど、今は流石に諦めがついていた。
わたしは何も知らない。
知るための力が、わたしの体には無かった。それをわたしは理解していた。
だからわたしは、彼が好きなものも、目指す場所も、やろうとすることも、何も判らなかった。
彼は何も教えてくれなかった。
何ヶ月も会えないと思ったらいきなり顔を出して、でも、わたしの体調を聞いただけですぐに帰ってしまう。
わたしと彼の関係は、とても曖昧だった。
だから、わたしは、中身のない面会を終わらせようと思った。病室を出ようとした彼に、わたしは思ってもいないことを言った。
「面倒でしょう? もう、来なくて良いよ」
何時も自信に満ち溢れて気高い彼は、端正な顔を歪ませてわたしを睨んだ。
踵を返し、わたしに詰め寄ってきた。わたしは素早く両手で耳を塞いで顔を逸らす。瞼をきつく閉じて、何も見えないようにした。
彼は強い力でわたしの手を掴んだ。痛かった。涙が出た。
涙は止まらなかった。
体が震えて、喉も痛くて、悲しみで胸は焼けそうだった。
彼の叫び声は、病室の外にまで響いた。気が付いたら看護師たちが病室にやってきて、大勢で彼を追い出していた。
最後であろう彼の声が、わたしに何を訴えていたのか。
わたしは何も覚えていなかった。覚えないように、聞こえないように、していたから。
でも、これで良いんだ。
彼は、わたしの顔なんてもう見たくもなくなったはず。
すごく怒っていた。
わたしは嫌な奴。意味が判らなくて最悪な奴。親切に会いに来てやったのに、失礼な言葉を言って、嫌な思いをさせた、礼儀知らずな奴。
これで、良い。
(それでもわたしは、彼の知らないところで、彼に知られないところで、勝手に想い続ける)
きたない、わたし。
わたしはわたしが嫌いだった。
醜くて。卑怯で。無知。
このままベッドの上で腐ってしまえば良いのに。ひとりで、惨めなままに消えたら良い。
自分に自信が持てないわたしは、彼と釣り合う筈がないのだから。
(たまに会えるだけで幸せだった。でも、またすぐに、次の幸せが欲しくなる。わたしは耐えきれなくなってしまった)
ベッドで勝手に泣いている時に気付いた。
交わす言葉は少なくても、彼は常に微笑んでいてくれたことに。
今更過ぎた。
彼が嘘で笑えるような性格じゃないことは、知っていたのに。
わたしは彼を傷つけた。彼を傷つけたわたしのことが、わたしはますます嫌いになった。
嗚咽を噛み殺して、わたしは朝まで泣いた。
ある日、わたしの手術が決まった。突然だった。わたしは流されるがままに手術を受けた。
わたしの体は、ぎこちないながらも自由を手に入れてしまった。
しばらくベッドで怠けていたせいで筋肉が衰えた体は、お化けのようにひょろひょろで気持ち悪かった。
それでもひとりで車椅子に乗って動けるようになった。
病院は思ったより広かった。
辛い病に苦しむ人はわたし以外にも沢山いた。わたしはいかに自己中心的だったかを改めて悟った。
世界を知りたくなった。
わたしは少しずつ、活動の範囲を広げた。
他の患者と仲良くなることもできた。その人の病室で、わたしは数年ぶりにテレビというものを見た。
そしてわたしは初めて知った。
彼が、世界に名を馳せる大企業の社長だったことを。
――わたしは、本当に無知だ。
その後、程なくして医師は教えてくれた。
わたしの部屋にテレビが無い理由。親に放任されているはずのわたしが入院できている訳。突然の手術。疑問の答えは全て明らかになった。
全部、彼の指示だった。
わたしに社長であることを知られないようにするために、情報を遮断するようにしていたそうだ。
入院の面倒も、手術の費用も、医者や技術の準備も、彼が、整えてくれていた。わたしの知らないうちに、わたしの両親から了解もとっていた。
「どうして、そこまで」
わたしの言葉は途切れた。
足音がする。聞き慣れたリズム。懐かしい速度。
それは病室に入ってきて、わたしに近づいてくる。
「体の調子はどうだ」
彼だった。
数ヶ月ぶりに、もう二度と会うことはないと覚悟していた、彼が、今わたしの目の前にいる――。
医師は去り、わたしと彼はふたりで向き合った。
「外に出てみないか」
沈黙を破ったのは、彼。
彼に何かを誘われるのは初めてだった。わたしは考えるより先に頷いて返していた。彼は微笑んだ。
車椅子に移る時にも、彼はわたしを支えてくれた。要らないと断るつもりが、久しぶりに彼に触れたことに動揺して、声も出せなくなっていた。
彼に車椅子を押して貰いながら、わたしたちは病院の中庭に出た。
外に出るなんて、何時ぶりだろう。日の光って、こんなに強かったんだ……。
――嬉しい。
わたし、外にいる。彼と一緒に、同じ太陽を見て、感じてる。もう会えないと思ってた、このひとと一緒に。
彼に会っただけで、世界がこんなにいとおしい。わたしは、やっぱり単純な人間だった。
「ようやく、笑ってくれたな」
彼の呟きに、わたしはハッとした。自分の頬を触って、改めて確認する。本当に笑ってる。久しぶりに笑った。変な顔になっていないだろうか。
不安になって彼を見上げた。彼はわたしを真っ直ぐ見つめている。恥ずかしくなって、慌てて視線を逸らした。
周りでは、患者が看護師に見守られながら散歩していたり、肉親と共に語らっている。皆が皆、それぞれの時間を楽しんでいた。
わたしは視線を巡らせながら、口を開いた。
「質問、して良い?」
「ああ」
「社長だって話してくれなかったのは、なぜ?」
「お前の前では、ただの海馬瀬人でいたいと思ったからだ。社長と知れたら下手に気を遣われることが目に見えていたのでな」
「うん、その通りだわ。今も何だか不思議な気持ちなの」
彼は淡々と答える。
わたしも淡々と話す。
「どうして、わたしの体を治してくれたの?」
「オレがそうしたかったからだ」
「わたしの親、何か言ってた?」
「どうぞお好きに、と」
「そう」
思ったほどショックは受けなかった。わたしの中で、既に両親との絆は風化していたらしい。
「だからオレは言ってやった。“ならば貴様たちの娘は今日からオレのものだ。金輪際関わるな”と」
――わたしは彼を見上げた。
車椅子を押す手を止め、彼はわたしの前に回った。片膝をついて、わたしと視線を合わせる。
わたしは震える手を握り締めて、彼を見た。
「どういう……ことなの?」
わたし、あなたに嫌われたと思っていたのに。
わたしが好きになれないわたしなんて、好かれなくて当然だと思っていたのに。
彼は、言った。
「お前がたとえ“死にたい”と言っても死なせはしない。お前の命はもうオレのものだ。お前がどう足掻いても、オレから離れられるとは思わんことだな」
高圧的な口調とは裏腹に、優しい眼差しがわたしを捉えていた。震えるわたしの手を、彼の手が包み込む。
嘘みたい。
喉まで、震えてきた。
風の音も、人の声も、もやが掛かったみたいに遠い。すぐそばにいる彼の顔さえ、ぼやけて見えた。
「わたし、自分が好きになれないの。だから、あなたに嫌われているんだと思ってた」
「お前の価値観など、オレには関係無い」
「そうね、そういう人だったね。あなたは」
わたしは、かすれた声で笑った。涙が頬を滑って、ぽたぽたと零れていく。
束縛ともとれる彼の言葉。けれどわたしは、それが堪らなく嬉しかった。
わたしは、構わない。
「あなたの思うままに、わたしを縛りつけて。何処にも行けないようにしてください」
「既にそうしている」
「もっと、もっと。あなた以外の何かなんて、わたし、要らないから」
「今から、そうしていく」
彼の指がわたしの涙を拭う。
優しくて、あたたかい。
「大好きだよ、瀬人」
はじめてあなたがわたしの前に現れた時から、ずっと。
瀬人、あなたはわたしの全てだった。あなたが嫌うものなんて全て要らなくて、あなたが幸せならわたしは消えても良かった。
わたしがいなくなることで、あなたが幸せになるなら、わたしは笑ってその運命を受け入れるつもりだった。
「わたし、あなたを好きで、良いの?」
輪郭を取り戻し始めた視界。あなたの顔が鮮明に映る。
「今までのように、これからもオレだけを想え」
「……わかった」
「オレがこんなに想うのも、後にも先にもお前だけだ」
たまらずわたしは車椅子から身を乗り出して、倒れ込むように彼へ抱きついた。瀬人は容易くわたしを受け止めて、きつくきつく抱き締めてくれた。
あたたかい。
少し苦しいけれど、彼に包まれている幸せの前じゃ、大した問題じゃなかった。
空っぽだったわたしを、彼が埋めていく。
ようやくわたしは、嫌いなわたしとひとつになった。まだ癒えない傷も自虐も全部抱えて、少しずつ溶けて混ざっていく。
そうして形を見つけ出した新しいわたしは、新しい世界を、あのひとの隣で生きていく。
わたしのいのちは、あのひとがとらえた。
企画「The mind song」様に提出