「わたくしが教えられることなんてほぼ無かったですわね……。お力になれたか、物凄く不安ですわ」
玄関で靴を履き、は仙道を顧みる。
彼は小さく笑って「そんなことはないさ」と肩を竦めてみせた。
「あんたに教わらなきゃ判らねえ場所の方が多かった。クッキーも美味かったし、助かったよ」
「まあ……良かった! 来た甲斐がありましたわ」
心底嬉しそうにが両手を合わせて頷く。それから「忘れ物は無いですわよね」と呟きながらカバンの中身を確認し始めた。
眼鏡をかけっぱなしのままで。
……これはある意味“忘れ物”なのでは無いだろうか。
「」
「はい?」
滲んだ好奇心を細やかな悪戯に変え、仙道はそっと手を伸ばした。此方を見たの髪を掻き分けるように輪郭に触れながら、眼鏡のフレームを掴む。
「せっ、仙道くん?」
戸惑うへ答えず、そのまま眼鏡を取り上げた。レンズを見る限り度は入っていないようだ。
眼鏡を片手に、仙道はへ向き直る。
「あんた、目が悪い訳じゃないよな」
に顔を寄せながら、彼は訊ねた。
「見えてるか? 俺の顔」
「も、勿論見えてますわ! じゃなかったら、普段から眼鏡してます」
「それもそうだな」
純真な少女は、頬も耳も赤くして、彼の視線から逃れるように俯いた。
「め、眼鏡を掛けると集中出来ますの。それに、目が疲れにくくなりますし……」
「何で目、逸らしちまうんだい?」
「いや、その、それは……」
咎めるような仙道の声に、は慌てて顔を上げる。
そこには、何時もとは全く違う仙道の姿があった。
むすっとしていて、頬を赤くした、年相応の少年らしい表情――。
「あんただけ目ぇ逸らすのはフェアじゃないね」
「ご、ごめんなさい」
「謝るなよ。怒ってる訳じゃないさ」
顔を寄せたまま、仙道は続ける。
「俺が、どうでもいい奴に“勉強教えてくれ”って頼むと思うか?」
「わ、わたくしの方が年上ですし……他にアテが無かったとか」
「それも有るけどねぇ……。俺が、どうでもいい奴を自分の部屋に入れるようなヤツに見えるか?」
「い、いいえ」
仙道は、自分でも自分の行動の意味が判らなくなっていた。理性が働くよりも先に感情で動く自分に戸惑っていた。出来うる限り平静を装いながらも、頭の中は忙しなく回転を続けている。
(俺は何やってんだ……。こんなことして自ら動揺しに行ってるようなもんじゃねぇか……! 明らかににこう、“何かあります”って自分から言ってるようなもんだ! 何かって何だよ。……にしても間近で見るとコイツの睫毛長いな……。何だ、この良いにおいはシャンプーか何かなのか? って、何か変態くせぇ発想だな! 自分が気色悪い……、くそっ!)
しかし間近で見るの顔から、仙道は視線を逸らせなかった。
もまた同じである。動揺や混乱や嬉しさや恥じらい、様々な感情の波で胸中は大氾濫を起こしていた。
(目と鼻の先に仙道くんのお顔が……! 何時もと違ってちょっと余裕が無くて、これはこれで素敵……。ああ、何だか仙道くんの香りがしますわ、ちょっと落ち着くような……いやいや私なんか変態みたいじゃないですかソレ!? というか仙道くんに触られた髪とか耳とか色々熱い! 仙道くんが手にしている私の眼鏡が羨ましい! って、また私ったら愚かなことを考えて、馬鹿ですわ!)
互いに見つめあったまま、沈黙が続く。恥ずかしさや混乱によって倍増した沈黙の重圧に先に根を上げたのは、仙道だった。
「……眼鏡も似合ってたが、こっちの方が見慣れてるから安心するな」
その言葉に、の顔はボッと火がついたように真っ赤になった。
この世においてこれ以上の赤面は無いであろうという程の彼女の姿に、仙道は心配そうに口を開く。
「お、お前……顔赤くなりすぎだろ」
「あ、赤くなりますわよ! そんなこと言われたら!」
の感情は決壊した。真っ赤な顔を隠そうともせず、彼女は訴える。
「仙道くんのお部屋にいたときからずっとドキドキしっぱなしで、仙道くんが普段過ごしてる場所にいるって考えただけで、トキメキしっぱなしで! だって仙道くんはそういうテリトリー大事にする方だと思ってて、そのテリトリーに入れてもらえたってことや、なんで入れてもらえたのかって考えたら……! 私、もう……!」
恥ずかしさのあまり、は小さく震えていた。
その姿に、仙道は息を呑んだ。彼女に負けず劣らずの動揺と、忙しない鼓動。彼は自分でも、体がかあっと熱くなっていくのが判った。
「お前の言う通り、俺は自分のテリトリーを侵されるのが好きじゃない。でもあんたなら良いと思った。自分でも意識しないうちに、部屋に入れちまってたよ」
「そ、それは……」
「それだけお前に気を許してるってことなんだろうな……。こんなの初めてだ」
何時ものように涼しげに笑いながら―――まだ僅かに顔は赤い――、仙道はに眼鏡を差し出した。がそれを受け取り、カバンにしまう。
二人はまた見つめあった。
互いの瞳に互いの姿だけが映る。
心臓の鼓動さえ届いてしまいそうな至近距離。
「……なあ、」
おもむろに、仙道がの右手を掴んだ。
「あんたの言う“ファン”ってのは、どういうことなんだ? 本当にそれだけなのか?」
「え、えっと……」
「何となく察してんだろ。俺自身でも判ってない……いや、判ってないフリをして、こういうことをしちまってる理由をさ」
仙道は、自分の感情の答えをに求めていた。判りきった答えをあえて彼女に言わせようとしていた。
何となく、今を逃したらしばらく想いを伝えられない気がして。
の気持ちを確かめることも兼ねて。
問われたは、視線を逸らさずに答えようと決めた。も、今のチャンスを逃してはいけないと思った。
ゆるりと桃色の唇が開かれる。
「それは……」
――刹那、何処からともなくベルの音が響いた。ジリリンジリリンと古い目覚まし時計に似たそれは、の言葉を遮り、二人を包んでいた雰囲気もぶち壊してしまうような大音量であった。
驚いた仙道が手を離したと同時に、は慌てて身を引いた。鳴り止まぬベルの音の主を探して、カバンを引っ掻き回す。
「ご、ごめんなさい! わたくしのCCMの着信ですわ! あっ違う、メールでしたわ!」
そうして何度か取り落としそうになりながらもCCMを手にしたは、早速メールの内容を確かめた。
「……ヤマブキさんが、迎えに来てくださったみたいです……」
脱力したようなの声。
仙道もまた、盛大に溜め息を吐き、額を押さえた。
「あの執事……エスパーか何かか? タイミング良すぎだろ……」
「ま、全くですわね……あはは」
乾いた笑みを浮かべるへ、仙道は眼鏡を返した。
「茶化したみたいで悪かったな」
「いえ、そんな……大丈夫ですわ」
「大丈夫って顔じゃないだろ」
「そ、それは仙道くんも同じでしょう?」
再び二人は見つめ合った。
僅かにが彼に歩み寄り、仙道も合わせるように距離を詰める。
今までにない急接近と、強まる鼓動。
あとほんの少し動いたら――。そんなギリギリの距離まで迫った。
しかし。
「……迎えが来てるんだろ。早く行った方が良いんじゃないか?」
仙道があっさりと身を引いた。
はホッとする反面、何処か残念がっている自分に気付いた。あのまま身を任せていたどうなっていただろう……? だが、今更考えても仕方のないことだ。
「そうですわね」落ち着きを取り戻した少女に、仙道は改めて礼を述べる。
「今日はありがとよ。またな」
「はい。お邪魔しました」
そうしてが家を出ていったのを見届けた仙道は、部屋に戻った。
テーブルの上には、余ったクッキーと、空になった二つのコップ、ノートやペンケースがそのまま置かれている。
片付ける気力もなく、仙道はベッドに寝転がった。天井を見上げながら、先のことを思い出す。
(あのまま近付いてたら間違いなく触れてたな……。触れちまえば良かったのか?)
考えれば考えるほど、仙道は顔が熱くなるのを感じた。
今日の自分は何か可笑しい。
を部屋に入れたり、にあんなことをしたり言ったり……。どうしちまったんだ、俺は。
火照りが収まるまで暫く掛かると踏んだ彼は、そのまま一眠りすることにした。
――その頃、無事に執事と合流したもまた、今日一日を振り返り赤くなっていた。
そんなを見て、勿論執事は心配して声をかける。
「大丈夫ですか、お嬢様?」
「だ、大丈夫ですわ……」
慌てて答えながらも、はずっと考えていた。
今日あったことも勿論悩んだ。しかし一番困っていたのは、次に彼に会うとき、どんな顔をしたら良いのだろう? ……ということだ。
「しばらくは赤くなってしまいそうですわ……」
悩みながら車の揺れに身を任せているうちに、の意識は緩やかな眠りへと誘われていった。
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