白い壁の、飾りっ気の無い四角い空間。僅かな彩りを添えるのは、赤い花が生けられた花瓶。壁を切り抜いた窓からは、広くて高い空が見えた。
気が付いたら私は、この部屋にいた。
身体中が痛くて、怪我をしたのだろうということは判った。取り返しのつかないような、大きな大きな怪我を。思い出そうとすると頭の中が強く痛んで、怪我よりも辛かったからすぐに止めてしまった。
――時が過ぎて、怪我は癒された。血が滲んだり、痛むことは無くなった。けれども傷跡は残った。相変わらず、思い出そうという行為は成功しなかった。思い出そうとすること自体を咎められているようだった。
同時に体の自由も利かなくなっていた。四肢の感覚が遠退き、己の力で歩くことすらままなくなっていた。何時からか私は、ベッドの上から動くことすら出来なくなっていた。
日がな一日、すぐそばの窓から差し込む光を浴びて、眠って、空を見て、眠って。それだけの毎日。
何もない。覚えていない。思い出せない。深い水底に沈められているような、酷く孤独で空虚な感覚。息が少しずつ苦しくなって、泣き出したくなる。けれど、誰にも届きはしない。だからじっと、この波をやり過ごそうとする。
そうやって、ひとり淋しく想いを馳せていると、あの人は必ずやって来た。
「起きて……いたか」
シュヴァーン・オルトレイン。
泉の色をした瞳の騎士様。
彼は、私を助けてくれた人だった。
「寝てばっかりで、眠くなくて」
「そうか」
「あの、少し体を起こしたいんです。手を貸して貰えませんか?」
私がお願いすると、シュヴァーンさんは小さく頷いた。
力が上手く入らない私の体を丁寧に支えてくれる両腕に、ひっそりと胸は高鳴る。シュヴァーンさんに伝わってしまわないように焦りながら、私はようやく起き上がった。ずっと同じ体勢のままだったせいで体が痛い。もう慣れてしまったけれど。
シュヴァーンさん以外にも、私を訪ねてくる人はいる。お医者様や、私の身の回りのお世話をしてくれる女の人。シュヴァーンさんが、そう頼んでくれている。
何もない私の為に――。ちくりと痛む胸の中をどうすることもできないまま。これでも私は生きてきた。
「……ごめんなさい」
何を言ったらいいのか判らなくて、私は謝った。手間を掛けさせてしまって申し訳ないなと思ったから。自然と目を伏せ、私は俯いていた。そうしたら、シュヴァーンさんが息を呑むのが聞こえた。
「君が謝ることは、何もない」
力が上手く入らずに震えるだけの私の手を、シュヴァーンさんが優しく掴む。おそるおそる私は顔をあげた。シュヴァーンさんの、水面のように静かな眼差しが私を捉えていて。無愛想なこの人は、ぎこちない微笑みを私に見せた。
私は泣きそうだった。
「私、あなたに嫌われたくないな……」
「嫌ったりなんかしない」
「何もできない、役立たずで」
「役立たずなんかじゃない」
「だって私、自分で起き上がることさえ……。本当に何もできないから」
「良いんだ」
シュヴァーンさんが首を振る。私の手をとる力が強くなり、何かを堪えるような、微かな震えが伝わってきた。
「君をこんな姿にしてしまったのは、俺だ」
表情が歪んで、声音がふらついて。
涙は無かったけれど、この人は泣いているんだと気が付いた。
心が、泣いている。
「君は何も悪くない。これは全部、俺が勝手にしていることだ。だから……謝るのは俺の方だ、」
消え入りそうな「すまない」という声が鼓膜に触れた。
私の大好きな水面が、揺れている。
それまで泣き出しそうだった私は、慌てて涙を堪えて閉じ込めた。シュヴァーンさんが辛くて泣いているのに、私まで泣いてしまうのはいけないと思った。
「大丈夫だよ、シュヴァーンさん。私、もう痛くないんだよ」
「……」
「何回も何回も……謝らなくて良いんだよ」
シュヴァーンさんは、今までに何度も話してくれていた。記憶の無い私に、記憶を教えてくれていた。
私がこうなったのは、とある実験のせいだって。実験をした人はシュヴァーンさんの知っている人で、でもシュヴァーンさんは実験を止められなくて。だから、私がこうなったのは自分のせいなんだって。
何も覚えていない私に、全てを知るシュヴァーンさんは何度も謝った。
だから、シュヴァーンさんが私を生かそうとする理由は、きっと罪滅ぼしなのだと思う。とても妥当な理由。私が沢山無くしてしまったことを気に病んで、可哀想に思って。見捨てられずに、でも私を見るたびに心臓を痛めてしまっている。シュヴァーンさんは私をこんなにした本人でもないのに。こんなの、あんまりだ。シュヴァーンさんは、私が生きている限り、痛くて辛いなんて。ごめんなさい、ごめんなさい。
涙が溢れないように、弱音が零れないように。私は必死に声を振り絞った。
「私が生きてたから、シュヴァーンさん、余計な痛さを感じなくちゃいけない……」
「、違う、それは……」
「ごめんなさい、私、でも……本当にあなたを恨んだりしてないの……。大好きなの……」
何度彼の告白を受けても私の心は同じだった。私の心はシュヴァーンさんを想い続けていて、ちょっとでも彼を責めようという気にはなれなかった。私が責めたいのは、常に私自身だった。彼を苦しめるだけの私だった。
この足が使えないならば、代わりに宙を泳ぐ鰭が欲しかったなあ。この安らかで空虚な箱から出ていくために。此処に私がずっと揺蕩うことが、あなたを苦しめるだけだとしたら。私は、早く水槽から身を投げて、あなたが苦しむことのないよう、ひっそりと息を無くしてしまいたい。先に無くした記憶みたいに、するりと。生きるための当然を忘れてしまいたい。この愚かな感情を、溶かして無くしてしまいたい。消えてしまいたいの。
「ごめんなさい……私……」
似たような物語があった気がする。あれ? あのお話は、人間になりたくて鰭を捨ててしまうんだったっけ? 最期に泡になって消えてしまうことだけは、確かに覚えているんだけれど。
生憎現実は物語のようにはいかない。叶うならばとっくに私は消えているはずだ。
謝ることしか出来なくなっていた私に、シュヴァーンさんは更に顔を歪ませた。私は素直に言葉を紡ぐ。
「きっと私、記憶がなくなる前から、シュヴァーンさんが好きなの……。だから、たとえ本当にこれがあなたのせいだとしても、私はあなたが好きなんです」
言い切るか切らないかの時、シュヴァーンさんは私を抱き締めた。ぎゅうと、すがるみたいに身をぴったり寄せて。私はシュヴァーンさんの腕の中にすっかり埋もれてしまった。びっくりして、私は喋れなくなった。好きな人に抱き締められて、饒舌でいられる方がきっとおかしいけれど。
「どう、したん…ですか……?」
必死に訊ねてみると、ややあって、シュヴァーンさんは口を開いた。
「俺は何一つ、君に償うことが出来ていない。君がそれを良しとしても、俺は、それでは……」
「シュヴァーンさん――」
「けれど、俺は」
優しく髪を撫でられて、私の声はまた詰まる。静かで優しいシュヴァーンさんの言葉が、更に更に私を縛っていく。
「ずっと、君を愛しいと思っているんだ」
私の視界は強く揺らいだ。ずっとずっと夢見ていた言葉が、私の鼓膜に触れたのだ。
息すらままならない私に、シュヴァーンさんは続ける。
「償いもせずに君を愛する権利なんて無いのにな。俺はことごとく馬鹿な男だ」
「そんな、こと……!」
「今まで必死に耐えてきたのに、、君が全て砕いてしまった」
シュヴァーンさんは私を僅かに離した。互いの顔がしっかり判る距離だった。
瞳を滲ませながら、シュヴァーンさんが私の頬に手を添えた。指先が、私の頬を伝う涙をすくっていく。今にも泣いてしまいそうな微笑みと共に、彼は私にそっと告げる。
「そんな顔で“好き”だなんて言われたら、堪えられる訳がないだろ……」
涙が止まらなかった。震える腕を精一杯伸ばして、私はシュヴァーンさんにすがりついた。ふらつく私を、やっぱりシュヴァーンさんは力強く受け止めてくれる。
「ずっと、私、シュヴァーンさんに、すきって言ってもらいたかった」
「すまない。変な意地を張って」
「いいんです、私、あなたが大好きだから……!」
夢みたいに、心がふわふわする。優しく水辺を揺蕩うような心地よさ。好き。大好き。何回も何回も、私はシュヴァーンさんに告げた。償いとか、そんなこと、もう言わなくなってしまいますようにと。そんなことを考えたり感じたりする隙間を、この気持ちで全て埋め尽くしてしまいますようにと。
シュヴァーンさんに抱き締められながら私はずっと泣いた。でも笑っていた。
今までとは少し違う、困ったような、くすぐったいようなシュヴァーンさんの表情が嬉しくて仕方なかった。シュヴァーンさんもぽろぽろ涙を溢して泣いていた。けれど、その瞳はきらきらと透き通っていて、泣いている理由は私と一緒だとすぐに判った。
もう鰭も何も要らなかった。こうしていられるなら、それだけで良かった。
「だいすき、です」
「俺もだよ」
私には計り知れぬ苦しみを追う彼の心に、少しでも安らぎが訪れますように。
願いを込めて想いを告げる私に、シュヴァーンさんは泣きながら笑って返してくれた。
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