揺蕩う水面を見上げるだけの私。とても心地が良かったけれど、それ以外には何も無かった。少しずつ体が冷えて、息が詰まって、なのに不思議と水を飲み込むことはない。飲み過ぎて感覚が遠退いたのかもしれない。それでももがく気はなかった。心地良かったんだもの。このまま死んでしまうんだろうなあと思ったその時、私はそこから引きずり出された。
「何、してん、だ!」
途切れる怒声を聞いてはたとした。虚ろな意識と視界に映るのは、濡れて艶を持った黒色の青年。その黒は私の体を抱き、陸に引き上げた。水を飲んでしまったのか、むせながら、水を吐きながら、彼は私を睨み付けてくる。何か言わなくてはいけない気がした。気がするだけで溢すべき言葉の見当はつかない。とにかく口を開くことにしよう。「ユーリ、私、」言い切る前に頬を叩かれた。振り抜かれた彼の左手を目で追いかけてから、私は呆然と彼を見つめた。怒りに鋭さを増した眼光を真正面から受ける。ユーリは険しい顔のまま話し始めた。
「何で、こんなことしたんだよ」
「私は、ただ、懐かしくて」
「溺れることが懐かしいって何だよ。死ぬ気か、おまえ。何回このやりとりすりゃ気が済む?」
私が溺れるのはこれが初めてではなかった。何時も沈んでしまってはユーリに助けられた。でも私は別に死にたい訳じゃなかった。
私には記憶がない。ユーリに出会う以前の記憶がない。初めてユーリに出会ったのもこの水辺で、私は今さっきみたいに水に流されていたところを、彼に救われたのだ。だから私にとって、その時が一番古い記憶になる。記憶を思い出すために私は必死だった。忘れてはいけない何かを忘れている気がした。溺れて水面を見上げていたあの時、私の胸の奥はちりちりと痛んだ。これは“懐かしい”のだ。記憶がない私は何かを懐かしんでいる――。もう一度あの水面を見たら、私の記憶を刺激して呼び覚ましてくれやしないかと思った。
私が水に浸る理由は、それなのだ。
「早く記憶を思い出したくて」
「焦ってバカやって死んだら元も子も無えだろ」
「……だって」
早く、しなくちゃ。
私はこれでも酷く焦っていた。
ユーリといることは嫌ではなかった。むしろ楽しい。ユーリだけではなく、ユーリの住む下町の人たちといることも。優しくてあたたかくて、彼らは、得体の知れない私を快く受け入れてくれた。温い水の中に横たわるような、淡くて緩いぬくもり。空っぽの私のなかをじんわりと満たしていって、この身体をゆるゆる縛っていった。このままでは私はここから動けなくなってしまう。そんな焦りを、川の冷たい水と輝く水面が包み込んでくれる気がした。記憶を思い出すために、今の場所に依存してしまわないために、私は必死に水辺へ通うのだ。お前が浸るべき場所は此方なんだよ、と。
そのたび、どうしたことか、ユーリは私が意識を失う直前にやってくる。そして私を引き上げて叱る。何度も、何度も、彼は持ち前の面倒見のよさを発揮した。私の抵抗は彼の手によって毎度無駄に終わってしまう。冷たい水面がいつも「あと少しだったのに」と私に囁いて、私と一緒に悔しそうにしていた。
「何でユーリは何時も助けてくれるの」
「オレ、嫌なやつだから」
「え?」
私を背負いながら、ユーリは続けた。
「死にたがりを“はいどうぞ”って死なせてやるほど甘くないってこと」
「だから私、死にたい訳じゃないの」
「端から見りゃ一緒だよ」
お互いびしょ濡れで、服や髪が張り付くのは少し不快だった。けれどその分、密着して伝わってくる体温が際立った。その温もりにすがるようにユーリに身を委ねた。ユーリの体が僅かに強張るのが判ったけれど、何も言われないのを良いことに知らんぷりしておく。
「ユーリは何時も丁度良いところで助けてくれるね」
「まるで人がタイミング図ってるみたいに言うな」
「え、違うの? あんまりタイミング良すぎるから誤解してたよ」
「溺れるまで放ってるなんて、趣味悪すぎだろ」
「嫌なやつなんでしょ、ユーリ」
「それとこれは話も意味も全然違う」
呆れたような、けれど決して私を遠ざけようとはしない声音。滲むユーリの優しさについ嬉しさが込み上げてきて、慌てて押し込める。
嬉しがったらいけない。
私はユーリといたいけど、ユーリといてはいけない。
ずっと一緒にはいられない。
記憶のないバカな私にも、それだけは明確に判っていた。記憶が戻れば私は私ではいられなくなり、彼と平穏な生活などしていられなくなる。
だから別れるときに辛い想いをしないためにも、これ以上気持ちを傾けてしまってはいけないのだ。
「帰ったら、飯にしようぜ」
「え?」
肩越しにユーリが私を見た。
さっきまで怒っていたはずの彼はもうさっぱりとした眼差しをしていて。しっかりと視線が通って、逸らせなくなる。
「体が温まるようにシチューでも作るか。おまえ、好きだろ」
曇りのないユーリの笑顔は眩しすぎて、私の目に突き刺さるような思いだった。
私の虚勢の壁はあっさり破られて、温い水は体の芯まで流れ込んでくる。懐かしい水面は徐々に遠ざかり、その輝きもぼんやり霞んでしまった。
これではいけない。そう思いながらも私が口にしたのは、「うん、好き」彼への返事だった。ユーリはまた笑った。満足げなユーリの表情に、それ以上を告げることなんて出来なかった。圧された胸が軋む。水に沈んでも何も感じなかった体が、今更悲鳴を上げている。馬鹿な体だ。
馴染んではいけないのに。一緒にはいられないのに。どんどん彼に浸っていく。彼が私を飲み込んでいく。
それで良いと思ってしまう。
「ユーリは物好きだよね」
「その物好きといる奴も相当だな」
他愛ないやりとりに溢れた感情。
正面を見て歩く彼に私の顔が見えていなくて良かった。きっとひどい顔になっているだろうから。
涙も嗚咽も押し潰して、私は再度ユーリの背に身を任せる。歩むたびに伝わる優しい揺れが、水面を見上げていた時よりも心地良い。
悲しいことに私は幸せだった。
企画「暗い幸福」さまに提出
Top