緩みきった頬は、旅の当初の彼女とはまるで別人だった。過剰に周囲を警戒し怯えて強張った表情は何処へやら、今のは無防備かつ、感情豊かで愛らしい。曰くこの笑みを作るきっかけになったのが自分であることを、ユーリは密かに誇らしく思っていた。
 柔らかくすべらかな頬を優しく摘まむ。尚もはふやけた笑みを浮かべたまま、ユーリを見上げていた。ゆっくり瞬きする大きな瞳いっぱいに、自分が映っている。

「何か良いな……」

 気がついたらユーリはそう溢していた。ぼんやりしていたにも程がある。うっかり、此方まで無防備になっていたようだ。
 ああ、と先の発言を濁すように声を漏らすユーリに、は首を傾げた。

「ユーリ、楽しい?」
「まあ、な。気持ちいいし」
「そっかぁ、良かったぁ」

 またが屈託ない笑みを浮かべるのを見て、ユーリの思考からは、自身のうっかり発言のことなど吹き飛んでしまった。
 今すぐ抱き締めたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて手を離す。
 ここは下町の住み慣れた宿屋の一室、ユーリとラピードの住処。つまり側には丸まったラピードがいる。ちらりと横目で相棒の様子を確かめるユーリを他所に、はほのぼのと続けた。

「ユーリとラピードさんと、ゆったり一緒にいられるなんて嬉しいなぁ」
「これが下町育ちの精一杯のおもてなしなんでね」
「私はここが好きだよ。……大変なことが沢山あるの判るけど、皆すごく生き生きしてる。そういう人たちってとっても綺麗だと思うの。あんなに笑みが絶えないって、すごいことだよ。ユーリやフレンのお陰なんだろうね」

 お人好しなには、ユーリの皮肉も通用しない。窓の外に広がる下町の風景をいとおしそうに見つめるの、嘘偽りない言葉。住み慣れた地と慣れ親しんだ人たち、そして自分のことまで褒めて笑ってくれるに、ユーリは再度彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。
 ラピードが片耳をピクリと動かし、隻眼を開く。律儀で賢いラピードは、先程から自分自身と戦っている相棒を案じていた。
 ――お邪魔虫は退散しよう。
 そんな台詞が聞こえたような気がした。立ち上がったラピードは器用に前足で部屋の扉を開くと、颯爽と出ていった。きっちり尻尾で扉を押し、閉めるのも忘れない。
 ユーリはラピードの計らいに感謝した。これで少しは羽目を外しても大丈夫だ。彼の性格上、羽目を外すと言うのは慣れないものであるし経験も少ない。色々と重ねてきたやんちゃをカウントしないのであれば、だが。
 恋愛とは、時に人を思わぬ大胆行動へと導くものだ。ユーリとて例外ではない。

「ラピードさん、見回りかな」
「かもな」

 ふたりのやり取りの真意を知らないは、不思議そうに扉のほうを見つめていた。しかし、ユーリの相槌を受け、すぐに彼の方へと向き直る。
 じっとユーリを見上げながら、は笑った。

「二人きりになっちゃったね」
「イヤか?」

 ううん、とは首を振る。薄く朱の差した少女の頬が緩んだ。

「ちょっと照れくさくて恥ずかしいだけ」

 もうそろそろ、堪えるのを止めても構わないだろうか。
 そう考えたときには既に、ユーリはの肩を抱き寄せていた。は一瞬驚いて目を見開いたものの、愛しい彼に体を預けた安心感からか、先より深い笑みを滲ませる。

「幸せでふにゃふにゃになっちゃいそう、私」
「既にふにゃふにゃじゃねえか。頬も緩みっぱなしで、こんなふわふわな体でよ」
「ふわふわな体……?」
「何て言うか、要するにだな……。柔らかくて気持ちいいってこった。癒し系だな」
「ユーリ癒されてるの?」
「まあな」
「……私もおんなじ」

 のうっとりとしたような声に、ユーリの心臓は急いた。
 きっと青年の動揺はにも筒抜けだろう。彼女は続ける。

「ユーリの温度と、香りと、感覚と……全部が好き。とっても気持ちいいの」

 突然、ユーリは無言でを抱き上げた。ひょいっと軽々持ち上げられたは、そのまま彼の膝に跨がって座る形になった。思わぬ至近距離と体勢の恥ずかしさに、の顔は瞬く間に赤くなっていく。

「い、いきなり、なに?」
「あんまり可愛いんで真正面からを見たくなった」
「ユーリって恥ずかしいこと平然とやるよね……。もう……」

 ユーリの肩に手を置いて、はぼやいた。俯くなりなんなり、彼の視線から逃れる方法は幾らでもある。なのにそうしない理由は、幾ら抵抗してもユーリの方が上手であることを十分に思い知っているから。
 殊勝なへ、ユーリは少し意地の悪そうな笑みで答える。

「いちいち丁寧に反応してくれっから、色々な意味でやりがいがあんだよ」
「本当に敵わないや」

 苦笑するの頬に軽くキスをして、「そうでもねえさ」ユーリは返す。

「オレもこれで結構、おまえには敵わないって思ってる。こんな柄にもねえことするぐらいにはな」

 今度は反対側の頬にユーリの唇が触れる。は幸せそうに目を細めた。彼の肩から頬へと手を滑らせ、優しく包み込むようにする。仄かに上昇していくユーリの温度を手の平から感じて、

「本当に、しあわせ」

 は、静かに彼の額へ口づけた。
 下町の石畳を走る子供たちの笑い声が、ぼんやりと二人の鼓膜に響く。
 ユーリとはこつりと額同士を押し付け、至福の時を噛み締めるように笑いあった。

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