::夢主幼少時


 離れ小島の屋敷を訪れることはさして特別なことでは無くなっていた。騎士が白湯同然の紅茶を啜った日から時は流れ、少女は成長し、様々な家事をこなすほどになっていた。定期的な訪問を命じられていたシュヴァーンは彼女の育つ様を嫌でも思い知る。そう、シュヴァーンは嫌だった。アレクセイと屋敷の主、ふたりの狂気に晒されることとなったモルモットの少女の姿を見ることが嫌だった。
 ――おまえは目の前の命すら救えない。あの時のように。
 ――好きな女一人救えず、無垢な命が弄ばれることを黙認する。
 ――それがおまえだ。英雄シュヴァーン。
 何かが割れる音がした。

「大丈夫ですか、お兄さん!?」

 少女……の声に、シュヴァーンは我に返る。テーブルには砕けたカップとソーサー、こぼれ広がった紅茶。ああ、先の音はこれだったのか。破片へと彼が手を伸ばしかけたとき、「だめです!」傍らのが叫ぶ。

「私が片付けます、お兄さんは触っちゃだめです」

 はシュヴァーンの手を掴んで押し戻すと、彼の顔を覗き込み、強い口調で言った。

「お怪我はないですか? 紅茶が飛んではいませんか?」
「ああ。……割ったのは俺だ。片付けよう」
「だめです、私が片付けるって言ったじゃないですか」

 小さな盆の上に、ナプキンで掴んだ破片をのせながら、は頑なにシュヴァーンの行動を拒む。てきぱきと破片を回収し紅茶を拭き終えたは、念入りにやり残しがないかを確認すると、部屋を一旦後にし、新たな紅茶を持って戻ってきた。

「はい、どうぞ」
「わざわざすまない」

 詫びながらシュヴァーンが紅茶を受け取ると、いいえ、とは首を振る。

「お仕事でお疲れなのにこんな離島まで来たら、くたびれてしまっても仕方ないですもん。でも気を付けてくださいね、怪我をしたら大変ですから」

 いつもならの弟妹が続きそうなところだ。見かけないところからして、昼寝か勉強かどちらかだろう。大陸から離れたこの孤島では、屋敷内であらゆる用事が完結するように人員を組まれている。たちへの教育や医療、屋敷に住む人間が困らないだけの食糧の確保。外部との接触を断つために選ばれた孤島なのだから当然だ。アレクセイの命がなければシュヴァーンが来ることもないし、アレクセイと関わっていなければここの主人もシュヴァーンを迎え入れるようとしない。アレクセイからの書状を持っていなければ部下であるといくら主張しても門前払いを食らうだろう。この屋敷の主人は他者に対して排他的だ。……暗に彼は『外に知られたくないこと』を抱えている証明でもあった。
 その『知られたくないこと』の最たるものが、この少女・だ。
 にこにこと微笑む少女の顔には大きな傷跡があった。右目と義眼魔導器を入れ替えるため切開したときのものだった。屋敷の主が自ら処置したのだ。はきっと気付いていないが、傷跡はあまりにも不自然で歪だった。

(わざと醜い傷跡を残すことで、逃げ出そうとする心を更に挫いたんだろう)

 大袈裟な切開痕は、少女の心を酷く傷つけたに違いない。前髪を伸ばし、それとなく義眼や傷を覆うように垂らしているの姿を見ると、とうに捨てたつもりの良心らしきものが胸の中で軋んで痛みを生んだ。
 実際、施術後のは庭へ出ることも減り、以前より増して屋敷の家事や雑用に従事するようになったと聞く。自分たち以外誰もいない島であるというのにだ。それだけ彼女の心身は傷つけられた。
 それだけのことを自分は見過ごす形になった。
 不意に紅茶が渋く思えた。シュガーポットから角砂糖をひとつ取って紅茶へ溶かす。
 彼の様子を見守っていたが瞬きした。シュヴァーンが甘味を苦手としているのを覚えていたからだろう。「大丈夫ですか?」不安そうには騎士の顔を覗き込む。

「ああ……多分な」

 眉をひそめながら紅茶を啜るシュヴァーン。とても平気そうには見えなかったが、それ以上言及することはには難しかった。
 コンコン、と扉をノックする音が聞こえて、ははっと顔を上げる。

「旦那さま、来たみたいですね」

 の呟きに、ああ、とシュヴァーンは返事をしてくれた。それだけで何故かは嬉しくなった。だが喜んでばかりではいられない。は“旦那さま”が来るとすぐに追加で紅茶を運んできて、「失礼します」と部屋を後にした。彼らの話を立ち聞きしてはいけないと何度も言われてきている。
 それでもは、心配になって応接間の扉を振り返った。

「お兄さん、大丈夫かなあ?」

 ――騎士さまが来るときは、旦那さまとお話があるとき。騎士さまは遠くから来るからとても疲れている。だから変なことしたり迷惑をかけたりしちゃいけない。
 が弟妹と共に屋敷に来てからすぐに教わったことのひとつだ。今日はとびきり疲れた様子の騎士を思って、彼女は胸を痛める。

「今日の夕飯は、お兄さんの元気がつくようなものにしなくちゃ」

 騎士が来るときは必ず一泊することも当然覚えているから、少女は気合を入れて厨房へと向かった。


 その日の夕食は、庭師――この屋敷では庭の手入れのみならず、周辺の警備もこなす人物だ――が早朝捕ってきた魚をふんだんに使ったものになった。特に魚の味噌煮は「自信作です」とがにっこりしていた。実際に食べてみてシュヴァーンは驚いた。今までの食事とは格別な味がしたし、の上達を大いに実感した。
 彼の箸の進み方が違ったので、気づいたは嬉しそうに笑った。まだやんちゃな弟妹たちは久しぶりにやってきた騎士に恒例の質問攻めを始めたので、ほどほどにするように間に入る。シュヴァーンがあまり語らない性格であることをは当然覚えていた。ぶーぶー文句を言う弟妹をなだめて、申し訳なさそうに姉は笑う。

「ごめんなさい騎士さま。この子たち、騎士さまのこと大好きなんです」
「お姉ちゃんだってすきなくせにー」
「ちょ、ちょっと!」

 きかない妹の呟きには真っ赤になる。慌てて口を開くもろくに言葉にならず、そっと騎士の顔を覗き見る。
 騎士は変わらず涼しい顔をしていた。慣れた様子でたちのやりとりを眺めている。年頃の少女らしい動揺も当然気づいていたが、何も言わない。
 はどこか残念そうに目を伏せ、しかしすぐにほっとしたように胸を撫で下ろした。憧れの騎士へ変なところは見せられないと気持ちを新たに引き締める。お姉さんなのだから、私は。
 ……食事は滞りなく進み、騎士と屋敷の主人、弟妹たちはそれぞれの部屋へと戻った。
 は、いつものように使用人と共に後片付けをしてから自室に向かった。今日の分の勉強がまだ少し残っている。弟妹とは別の部屋を宛がわれて過ごすようになったのは12歳の頃だったと思う。最初は寂しかったが、何年も経つと慣れてきた。部屋は違っても同じ屋根の下にいるのだ、なにも寂しがることは無い。弟妹たちもそれを理解して、頑張っている。
 備え付けの照明魔導器に触れると、すぐにの部屋に明かりが灯った。机の上には放り出した本やノートが散らかったままで、シュヴァーンが来たと聞いてそのままにして行ってしまったことをは思い出した。
 勉強は得意ではない。けれど学ばなければならない。右目が痛んだ気がした。
 ……勉強を終えたのは夜中のことだった。窓の外はすっかり暗くて星が瞬いている。
 はカーディガンを羽織った。どうしても夜空を見に行きたくなって、ランプを片手にそっと部屋を抜けた。屋敷の住人はもう寝静まっている。足音を忍ばせて、音もなく廊下を抜け、屋敷の外へ出た。夜中に抜け出すのは初めてではないから手慣れたものだ。何より夜は人目を気にしなくていいから救われる。右目を右手で覆って、は一息ついた。
 小さな結界魔導器に囲まれた屋敷の庭はこの上なく安全だ。なのに、空に浮かぶ円陣のせいで星が見えにくくて、少し残念な気持ちがした。

「むかし、お母さんが教えてくれた星……なんだっけ……狼の……」

 もう少し星がしっかりと見えればわかるだろうか。ふらりと歩を進める。右手を伸ばし、星々をなぞるように人差し指を動かす。あの星はわかるか、わからない、ならあの星は、そっちの星は。
 そうやって自分の中の記憶を掘り起こしていると、また無意識のうちに一歩踏み出していた。

「危ないぞ」
「えっ!?」

 低い声がして、は体を跳ねさせた。声の主は、驚く少女の体をゆっくりと後方へ引き戻す。自分の両肩を掴む男の手を認めたは、視線を巡らせ、逞しい腕を見、その人の顔を顧みた。
 シュヴァーンだ。軽装の騎士が、碧い瞳でを見下ろしていた。彼も眠れなかったのか、それともに気付いて追いかけてきたのかはわからない。騎士は、あと数歩で結界の外に出かねない少女の体をしっかり引き寄せ、再度告げる。

「夜更かしも褒められたものではないが、結界の外に出るのはもっといただけないな」
「ご、ごめんなさい。そんなつもりはなかったんです。ただお星さまを見ていて」
「星?」
「はい、ちょっと眠れなくて。それで星を……」

 理由がわかるとシュヴァーンはから手を離した。もほっと胸を撫で下ろして彼に振り返る。

「昔、お母さんに星の読み方とかを習ったんだけど、忘れてしまってて。小さかったから仕方ないかもしれないけど、なんだかさみしい感じがしたんです」
「……ここで勉強していれば星の見方も学べるだろう」
「ああ……そうですね! 旦那さま物知りだもん」

 彼女の溢した笑みに、シュヴァーンの胸は小さく痛む。あまりに都合のいい返しをしてしまい、それを少女が真に受けてしまったことに罪悪感を覚えた。それを掻き消そうとを連れて屋敷の中に戻ろうとしたが、彼女はひときわ大きく強く瞬く星を見つめて動かなかった。「あの星、知ってますか?」そうシュヴァーンに尋ねながら、口を開く。

「むかしむかし、世界を滅亡に追い込む、おそろしい災厄が起きました。人々は協力し、災厄に立ち向かいましたが、多くの命が失われ、ついに力尽きてしまいました。そんなとき、ある兄妹が現れました。兄妹は力を合わせ、災厄と戦い、世界を救いました」

 自慢げなに、シュヴァーンは溜息を吐きながら続く。

「……その後、。兄は『凛々の明星』として空に上り、妹は『満月の子』として大地に残り、それぞれこの世界を見守ることにした」
「お兄さんも知ってたんですね!」
「テルカ・リュミレースに伝わる数少ない昔話のひとつだ。誰でも知っているだろう」
「そんなことないですよ。旦那さまはうろ覚えでしたから」

 恐らく子供に気を遣ってわざと知らないふりをしたのではないだろうか。シュヴァーンは屋敷の主の性格を思い返しながら推測したが、それを口にすることは無かった。
 体の器官を肩代わりする魔導器を身に宿すもの同士として――はそれをきっと知らないが――、シュヴァーンは複雑な感情をに抱いていた。彼女の『目』は、正常に機能しているにも関わらず無理やり入れ替えられたものだ。些細な違いはあれど、故郷をなくし現状に身を委ねるしかないのは同じだった。

「体の具合は、どうだ?」

 同情なのか哀れみなのかわからない。幼いながらも懸命に生きる彼女にそういった感情を向ける自体失礼かもしれない。それでも少女は自分が気に掛けると嬉しそうにするのを知っていたから、シュヴァーンはそう言った。
 瞬きしたは、やはり喜び、微笑んで答える。

「とっても良いですよ! ……ああ、でも、そろそろ必要かもしれないです!」
「必要?」

 シュヴァーンが繰り返すと同時に、はすうっと息を吸い込んだ。……一拍置いて、は、いつの日かシュヴァーンや弟妹のそばでそうしたように歌を紡ぎ始めた。歌は術式のひとつ。周囲のエアルが呼応するように瞬いて、綿雪のように漂い出す。光の雪は木々の葉へ、花々の葉へと触れて溶けていく。
 シュヴァーンの胸にもふわりと小さな光が吸い寄せられていった。光は彼の体へ同化し、仄かな温もりと癒しをもたらす。
 ……何処の言葉でもない懐かしい詩を紡ぎ終えたは、改まってシュヴァーンに向き直る。

「お兄さん、少しは眠くなりましたか?」
「……ああ。君は?」
「はい。お兄さんとお話して歌ったら、ちょうどいい感じに眠気がきてます」

 の細めた目元に涙がにじむ。確かに眠そうだった。シュヴァーンもシュヴァーンで、少女の歌を聴いているうちに穏やかな眠気の波がやってきているのを感じていた。

「なら、戻ろう。俺もぐっすり眠れそうだ」
「お兄さんの疲れがなくなるように心を込めた甲斐がありました」

 ありがとう、とシュヴァーンが小さく微笑む。自分でも驚くほど無意識のうちに、少女の厚意にそう返していた。
 もまた嬉しそうに満面の笑みを咲かせる。
 シュヴァーンは、そうだ、との手を引きながら口を開いた。

「お兄さんでも、騎士さまでもなくていい。俺はシュヴァーンだ」
「そうですか? ……シュヴァーンさん」

 彼を見上げながら、はとっくの昔に覚えた騎士の名を呟く。こくりと彼が頷いたのを見て、瞬き、首を傾げ――苦笑する。

「……やっぱり私、お兄さんって呼んでた方が良いみたいです」

 少女の真意を、騎士が知ることはまだ無かった。  

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