「今日は綺麗な月夜だねー」
「だねー、じゃねえだろ。どうしてオレを呼び出したりなんかしたんだ?」

 夜更けのダングレストの街。まるで示し合わせたように人通りのなくなったユニオン本部前にてと合流したハリーは、呑気に空を見上げる彼女へ訊ねる。月を見て本題をはぐらかしていたのは明らかだった。
「で?」ハリーが重ねて問うと、観念した彼女は頭を掻きながら答えた。

「いや、その……お礼がてら、力のことを見せておきたくて」

 ――人ならざる力。
 昼間読み漁った資料の中にあった言葉を彼は思い出した。

「文書にもあった通り、私はね、人じゃない姿に変われるんだ」

 そして、そのおかげで、話すと同時にが真っ白な狼へと変身したことも、思ったほど驚かずに受け止めることが出来た。
 月明りを返して仄かに輝いているような毛並み。大きな体躯。まっすぐにハリーを見つめる瞳は、のものと変わらない。義眼を中心に走る十字の傷も、のもの。その気になればハリーを頭から飲み込めるのではないかと思ったが、狼といえど中身がなので当然そんなハプニングは起こらない。

「触っても大丈夫か?」
「大丈夫だよ」

 ハリーは断ってから、の毛へ手を伸ばした。固いのかと思った毛は予想以上にふわふわとしており、猫の胸毛に似た感覚だった。昔飼っていたネズミのことを思い出す。あれも大層柔くて心地よかった。
 ハリーが手を下ろすと、は説明を始めた。

「不思議とこの体での動き方ってのが馴染んでるし、エアルに関連する術技や攻防の手段がとてもやりやすくなる。この姿は、そういう、人間の枠から少し飛び出した力の使い方ができる印なの」

 ハリーは無言であった。はハリーの反応を待った。この姿を見せてから、もしかするとこの選択は良くなかったのではないかと思い当たるものがあったのだ。
 ――ベリウス。
 言葉を話す魔物に等しい今の自分の姿は、かつてハリーが関わったベリウスの姿を思い起こさせるのではないか。それはベリウスの死と同時にドン・ホワイトホースの死を彷彿とさせてしまうのではないか。
 ひとしきり話してしまい行動してしまったため、は硬直してしまった。これ以上ハリーの気分を害してはならないと、沈黙する。
 ……しかし。
 ぽん、との頭にハリーの手が置かれた。

「ちょっと間の抜けた顔だけど、カッコイイじゃねえか。その姿」

 ハリーは微塵も気にした様子無く、笑ってみせた。
 は安堵すると同時に己を恥じた。ハリーを過小評価していたことを申し訳なく思った。とっくにハリーは痛みも苦しみも乗り越えて、こなしていたのだ。間違いなくハリーにもドンの血が流れているのだと思った。気さくなハリーの反応に、胸がほんのり温かくなる。

(お母さんとドンも、こんな風に力のことを話していたのかな)

 頭を撫でられながら、はわずかに瞳を潤ませる。楽しそうなハリーの笑みにドンの面影が滲んで、ますますたまらなくなった。
 仲間以外の人に、この姿を見せようと思えたこと。
 そして、この姿を受け入れてもらえたこと。
 は嬉しくなって、犬のように尻尾を振るのを止められなかった。ハリーの手が見ていたよりもずっと大きく感じられて、ハリー自身はそう思っていなくてもドンと彼がとても似ている気がして、気分が良かった。ドンの想いは確実に受け継がれている。自分が母の力と想いをきっと受け継いでいるように。
 ――ただ、最近まで記憶の飛んでいたこちらと違って、ハリーはとてもそのことが身にしみているだろうから、私なんかと比べるのは失礼かもしれないけれど。
 他愛のない言葉を交わしながら、ギルド首領を肉親に持つ二人は、ゆっくりと飾らない時間を過ごした。どちらも口にはしようとしなかったが、すっかり気の置けない友人という関係が僅かな間で構築されていた。
 の拙い話でもハリーは気分を害することなく、寧ろ楽しそうに聞いていた。彼自身も話下手なところがあり、それがますます互いに親近感を沸かせる。まるで遠い昔から知り合っていた幼馴染のように、はすっかりハリーに心を許していた。犬のように朗らかな顔の狼を、ハリーはおかしそうに、嬉しそうに見つめていた。

「……あ、ごめんね。随分と話し込んじゃって」

 我に返った狼は、空の星の動きを見て、申し訳なさそうに目を伏せる。
 瞬きのうちに人の姿へと戻ったへ、ハリーは苦笑しながら首を振った。

「いいって。オレも楽しかったから。おまえこそ明日はレイヴンたちと街を出るんだろ。戻って休んだほうが良い」
「うん、ありがとう。ハリーもゆっくり休んでね」

 笑顔で手を振りながら、は宿屋へと向かっていく。その姿が見えなくなると、ハリーはひとつ息を吐いて、

「……レイヴン」

 物陰に潜んでいた、男の名前を呼んだ。
 しばらく影は動かなかったが、鋭い視線と無言の圧に観念して一歩進み出た。
 月の光にぼんやり照らされたぼさぼさ頭を掻きながら、レイヴンは苦笑する。

「気づいてたか、そりゃそっか」
「ちょうど良かった。聞きたいことがあったんだよ、おまえに」

 わざとらしく瞬きするレイヴンに、「わかってるだろ」とハリーは眉をひそめる。

「〈銀雪の狼〉の資料のことだ。あんなところに都合よく資料があるわけない。オレも一応一回確認してたしな。お前が仕込んだんだろ?」
「いやぁ~何のことかさっぱり」

 酒の匂いを漂わせながら肩を竦めたレイヴン。彼の真意を掴みあぐねてハリーは悩み、その眼差しは鋭くなっていく。
 レイヴンが自分たちに害ある行動をとるはずはない。しかし、こんな回りくどい方法で探し物を見つけてくれた理由がわからない。妙に居心地が悪いというか、納得がいかず、もやもやとする。
 と落ち合う前からハリーはそのことを考えていたが遂に結論が出ず、ちょうどレイヴンが現れたために問いただしたのである。

「とぼけなくていい。動き方から、何となくには事情を知られたくないのはわかってる」

 理由を聞いてもには伝えない。ハリーがその意思を示すと、ようやっとレイヴンは重い口を開いた。

「……俺の心臓を見てくれてる医者の先生にも、勿論ドンにも、ちゃんの記憶に関しての資料は守っておいて欲しいって言われてたからさ。時期が来たんで見てもらっただけよ」

 酒場から出てきたばかりとは思えないほどレイヴンはしゃんとした様子だった。実にレイヴンらしい。
 ハリーは瞬きした。の為に資料を守っていたなら、尚更直接渡すべきなのではないだろうか。レイヴンの心臓が特殊であることはドンを通じてハリーも理解している。そのために医者を見つけるのに苦労したともドンから聞いた。その“変わった医師”もの記憶に関わっているとは予想もしなかった。かといって深入りしても良いものかどうか。
 ハリーが気を遣っているのはレイヴンにも伝わっていた。

ちゃんがダングレストに来た当初は、ちゃんに過去の記憶がほとんど無かったからねぇ。忘れちゃうほど辛い記憶を無理に思い出させたらどんな影響が出るかわからん、とドンたちは判断したのさ。俺も賛成した」
「それで、の記憶が戻った今、資料を見せたのか」
「そうそう。ただやっぱり、おっさんと先生は……なんてーか、ちゃんにとって当事者のひとりなもんで。そんな人間がほいって渡したら記憶の方がびっくりするんじゃないかとね。それで回りくどいのは承知の上でおまえさんに託したわけ」

 饒舌なレイヴンに、ハリーは嘆息する。

「あの先生もレイヴンも、に気を遣ったっていうより、に何か言われるのが怖いから第三者のオレに任せたって感じがするな」
「まあ、正直なところ、そうなっちゃうわね」

 レイヴンとの過去について、ハリーは言及するつもりはない。だから憶測で語るしかなかった。もしがレイヴンに直接過去の手がかりを示されたとき、どうするのか。少女としての顔も、白狼としての顔も、どちらも知った上でハリーは、――彼女が仲間を咎める姿が思いつかなかった。

とおまえは一緒に旅もしてるんだ。そんなに怖がることないんじゃないか」
「いやいや怖いわよ。今だって本当はちゃん、おっさんに色々言いたいことがあるかもしれないでしょ」
「あったら言ってると思うぞ。オレにもあっさりあの姿見せるぐらい、行き当たりばったりなんだからな」
「そうかねぇ……」
「そうだよ。おまえらしくないな」

 自信のないレイヴンに、ハリーは笑った。こんなに弱気なレイヴンを見ることは無かったから、とても珍しかった。あのあどけなくておっとりとした少女が、女癖の悪さに定評のあるこの男をこんなに弱らせるだなんて。少なくともレイヴンが、には他の女性とは違う感情を持って接しているのだと伝わってくる。まるで年の離れた妹か、世話してきた娘か、もしくは別の――。

「でもさ、ハリーとちゃんを会わせたかったのも事実ではあるのよ」

 ハリーが憶測を巡らせている途中、ぽつりとレイヴンが零した。

「オレと……?」
「そ。ドンが『同い年ぐらいだしきっと仲良くなれる』って話しててね。似たような立場の友達がいればちょっとは気楽なんじゃないかってドンなりに考えてたんだと思うわよ」

 似たような立場とは、肉親がギルドの首領であることだろう。見つけ出したメモにあった、ふたりの首領のやりとりを思い返す。ドンは幼いと出会ったと記されていた。そこで自分の孫を思い出して会わせてみたいと考えてくれたのは、祖父らしい。そして、そんな祖父の思いやりと見込み通り、ハリーはとの対話を新鮮かつ楽しく感じた。かつてドンとの母が語らったように。まるでもっと以前から自分たちが知り合っていたかのように。
 ハリーが自然と微笑むのを見て、レイヴンも安心したように目元を和ませる。

「実際、いい友達になれそうでないの」
「……だと良いな」
「多分ちゃんの方は、とっくに友達になったつもりよ」

 無邪気な狼の姿を思い返し、ハリーは、レイヴンの言葉に頷いた。
 ――きっとそうだろうな、だったらこっちもちゃんとしないとな。

「オレもじゃあ、とは友達になったって思って良いんだな」
「きっとあの子喜ぶよ。仲良くしてやって」
「ああ」

 まるで父親か何かのようにを思うレイヴンの優しい笑みに、ハリーは再び頷いて答えた。
 少し月が動いているのを見て、思った以上に話し込んでいたことを知った青年は踵を返す。

「オレもそろそろ寝る。レイヴンも、仲間に迷惑かけないうちに宿屋に戻れよ」
「もう一軒行きたいとこだったけど、そうしますかね」

 レイヴンは肩をすくめて、言葉通り宿屋へ向かって歩いて行った。
 ハリーは今一度、月を見上げる。
 ……旅が終わり、世界に平穏が戻ったら、またがこの街を訪れてくれるかもしれない。その時は、もっと気さくに声をかけてみよう。ギルド首領の血縁者同士、似た年ごろ同士、ゆっくりと話してみよう。
 ハリーはそう決めた。
 昼間、咄嗟に隠した紙の存在を思い出し、今一度手に取ってみる。

“私が死んでも、ドンと共に今日思い返し、書き記したこの思い出たちが、少しでもあの子たちの心を温めてくれますように”

 このメモを、今度彼女が来たときはちゃんと見せてやろう。
 畳んだメモを胸元にしまいなおしたハリーの姿は、程なくしてユニオンの中へと消えていった。

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