朝、起きて、一番に感じたのは違和感。いつもならうんと背伸びするところを、今日は上手くできなかった。視界がなんだかおかしかった。まるで自分が縮んでしまったように、周囲の物が大きく映る。とある童話の主人公アリスのように不思議な世界に迷い込んだようだ。
 ――どうしたんだろう。おかしいな。
 そう呟いたつもりのの喉は、にゃあ、にゃあ、と聞きなれない音を立てた。びくっとして辺りを見回してみる。何もない、自分のいつものテントだ。よくよく自分の体を見てみると、細っこい両腕は動物の足になっていた。……猫の前足。慌てて顔を触ろうとしていつものように行かず、ふにゃ、と後ろに転んでしまった。転んだついでに後ろ足も伸ばしてみる。やはり猫。長い尻尾がくるりと曲がった。そんな感覚があった。
 起き上がって、は、よく見る猫のように伸びをしてみた。思った以上にしっくりくる。前足からにょっと小さく爪が飛び出した。

、起きてますか?」
「にゃ!」

 テントに入って来たのはアンサーだった。思わずは奇声を上げる。と言っても猫の鳴き声でしかない。
 もとい猫に気づいたアンサーは、ゆっくりとベッドに近づいてきた。

「黒猫……。アイツまさか隠れて飼ってたのか?」

 は自分のことを言われているのだと気づいた。違うよ、私がだよ、と主張するものの、にゃあ、にゃあ、と鳴き声しか出ない。はまずいと感じた。何故か自分は猫になっている。そしてそれを伝える手段を自分は持ち合わせていない。
 にゃあにゃあ鳴くの元に、そろりとアンサーが近づいてきた。

「お前、ここにいた女の子を知らないか? って、俺は何を猫に聞いてるんだ……」
「にゃあ」
「よく鳴くなぁ……」
「にゃあ!」

 敬語ではないアンサーの言葉を聞くのはなかなか新鮮だった。は逐一アンサーに鳴いて返す。
 すると、そっとアンサーは手を伸ばしてきた。その手が頭を撫でてくれている。
 ――気持ち良いなあ。
 思わずその手にすり寄ると、は、自分の喉からゴロゴロと音が鳴っていることに気づいた。ああ、心身共に本当に猫になってしまったらしい。落胆するを他所に、アンサーはくすりと笑う。

「随分と人懐っこいな。本当にが飼っているのかも……」

 飼っているなら一言断りを入れてくれれば、などと言いながら、アンサーはを撫でるのを止めない。
 でアンサーの手にすり寄るのを止められない。
 アンサーは慣れた手つきでの頭をぽんぽんし、するりと喉を一回撫でると離れた。
 少し残念に思いつつはアンサーを見上げる。
 アンサーは改めてテントの中を見渡し、がいないことを確認すると溜息を吐いた。

「ひとりで勝手に出歩くなと言っているのに……全く」
「みゃあ!」

 言いつけはちゃんと守っている、と言いたげに猫の姿のが鳴いても、アンサーには伝わらない。

「お前、もしかして腹が空いてるのか? 猫の餌になりそうなもの、あっただろうか……」
「みゃう」
「そんな寂しげな顔をするな、ちゃんと何か用意してやるから」

 確かにお腹は空いているが訴えているのはそういうことではない。複雑な心境ではベッドから飛び降りた。いつも以上に小柄な体での行動はいささか勇気がいる。無事に着地してほっと胸を撫で下ろしていると、アンサーがこちらを見下ろしていた。
 少し考えたのちにアンサーは、猫のを抱き上げた。も大人しく抱かれる。

「よしよし」

 喉元をくすぐられて、はまたゴロゴロと喉が鳴り始めるのを押さえられなかった。
 を抱っこしたままアンサーは、『ぷれじでんと』テントへと向かっていく。テントではチップが瞑想をしている最中だった。

「お頭、おはようございます」
「おう、おはようさん」
「早速ですががいなくなりました」
「はぁ?」
「代わりに猫がいました」

 ほら、とアンサーは猫のをチップに差し出した。瞑想から立ち上がったチップが寄ってきてを受け取る。じっとの瞳を覗き込みながら、チップは、はあ、と溜息を吐いた。

「あいつ隠れて猫飼ってやがったのかよ。一言言えってんだ」
「全くです。それと出掛ける時も一言欲しいものです」
「だな」

 はしょんぼりした。さすがのチップでも、まさかが猫になっているとは気づけなかったようだ。当然である。自身もまだ、自分が猫になってしまったことと感覚に迷っているのだから。

「飼い主に似て細っこい奴だな。毛艶は悪くねぇ」
「腹を空かせているようなので何か食べさせようと思いまして」
「それならのテントに何かあったんじゃねえのか? アイツの飼い猫だろ?」
「あ!」

 こういう時のアンサーのうっかりは微笑ましい。がチップに抱っこされたまま笑うと、にゃ、とまた鳴き声が漏れた。
 チップはを床に下ろすと、戸棚を漁り始めた。何か用意してくれるつもりらしい。
 大人しくが座って待っていると、かつお節のかかったご飯が皿に乗って出てきた。がじっと皿を見つめていると、チップが目の前にしゃがむ。

「ほら。食え」

 そう言って皿を押してくる。はチップを見つめ、それから皿の食事に口をつけた。もぐもぐとが食事を始めたのを見て、大の男ふたりは揃って顔を和ませていた。チップの用意した食事をぺろりと平らげたは、ごちそうさまでした、と言ったつもりで、にゃおと鳴いた。

「よしよし、全部食ったか!」

 チップにぐりぐりと頭を撫でられては目を閉じた。いよいよ猫化が本格的になっている。
 すっかり和んでいたアンサーが、はっとしたようにチップを見る。

「お頭、そろそろを探しましょう」
「あ? 大丈夫だろ、ほっときゃ帰って来る」
「いつもなら探しに行っているところなのに……」
「今日は大丈夫だ。俺の勘がそう言ってる」
「みゃおう!」

 は元気よく鳴いた。チップの言う通り、今日は大丈夫。アンサーが心配しなくてもはここにいる。探しに行くことは無いのだ。

「ほら、コイツも心配ねえって言ってるぜ」
「猫ですよ……」
「猫だから何だってんだよ」

 チップにあの手この手で撫でられて、はすっかりご機嫌だ。ごろんと横たわり、チップの手に身を委ねる。ただ、お腹の辺りを撫でられるのはモゾモゾしたので、そこに手が伸びてきたときはやんわり後ろ足で退けた。人間でいえば今の自分は真っ裸なのだと思うと、は、猫に毛があって本当に良かったと実感した。
 うりゃうりゃ、とチップに撫で回されて、はゴロゴロ喉を鳴らして脱力する。喉を撫でられるのがこんなに気持ちいいとは知らなかった。ついついすり寄ってしまう。
 ――いけない、このままじゃ骨から猫になっちゃう……。
 とは思いつつ、この心地よさに抗えないであった。

「とりあえず、がいない間、コイツの世話してやらねえとな。まあ今日中には帰って来るだろ」
「帰ってこないと困りますね」

 ぴくりと耳を立てる。はっとして顔を起こした。
 ――これ、いつになったらどうやって戻るんだろう……?
 変なものを食べた記憶も、変なことをした記憶もない。何も心当たりがない。
 急に不安になって喉を鳴らすのも止めると、チップが顔を覗き込んできた。

「なんだァ? オマエも心配してんのか?」
「やはり探しに行きましょうか?」
「だーかーら、大丈夫だっての。オマエ、を何だと思ってんだ」
「手間のかかる子どものようなものだと……」

 アンサーの言葉に思わず「うにゃあ!」は憤慨する。
 ――誰が手間のかかる子どもよ!? こっちからしたらアンサーのが子どもなんだからね!
 突然唸り声に近いものを上げられて、アンサーは多少驚いたようだった。

「コイツ、人の言葉が分かってるんですかね」
「かもな。動物ってのは言葉より達者なコミュニケーション能力を持ってる」
「それ説明になってますか……?」
「つまり、言葉なんざ簡単に理解しちまうんじゃねえかってことだ」
「はあ……」

 アンサーはいまいち合点がいかないようだが、は大いに納得した。実際に今、人語を解しているからだ。もともと人間だったせいもあるかもしれない。それを抜きにしても、普段、動物はこちらの言動を理解しているかのような行動をとることがある。寂しい時に寄り添ってくれたり、しつけの際の言葉にしっかり反応したり。全ての言葉を理解することは難しいかもしれないと思っていたが、実は全部分かってくれているのかもしれない。
 ただ、言葉を話せないだけで。
 そしては今になって、その『言葉が話せないこと』のもどかしさに気づいた。
 一言「私はです」と言えれば、どんなに簡単なことか。

「にゃ……ふにゃ、にゃ……」

 喋ろうとしても、当然人間の言葉は出てこない。不鮮明な鳴き声が続くだけだ。
「吐きそうなのか?」と的外れな心配をしてくるチップに、はますますもどかしくなる。確かに猫はよく吐く生き物だ。しかしはそんな気分ではない。毛づくろいもしていない。
 結局は人語を話すことを諦めた。諦めてその場で丸くなった。
 ――もうどうしようもない、仕方ない。

「何かご機嫌ナナメみてえだな」
「そうですか? 腹が膨れて眠くなったのでは? 猫はよく寝る生き物ですし」
「そうかあ? ……そうかもな」

 チップはを抱きかかえると、自分のベッドに下ろした。
 拗ねたはベッドに染みついたチップの匂いに包まれながら、うとうとと、瞼を閉じたのだった。


*****


「……い」

 声がする。聞きなれた声が。しかしは起きない。起きたくなかった。異様に寝心地が良いのだ。人のベッドはどうしてこんなにも違うものなのだろう。どうしてこんなに落ち着くものなのだろう。「ううん……」唸りながら寝返りを打つ。やけに涼しい。胎児のように背中を丸めて縮こまった。

「おい、起きろって」
「にゃ~……」
「何寝ぼけてんだ。起きろ、

 呼びかけと共に肩を揺さぶられ、渋々は重たい瞼を開ける。
 目を開けると、困り顔のチップがを見下ろしていた。
 ――あれ? 今私、「」って呼ばれた?
 はがばりと起き上がった。自分の顔を触り、腕や足を伸ばし、確認する。……毛むくじゃらでもなければ、肉球もない。

「良かった! いつものだ~!!」
「良かったも何も、一日どこほっつき歩いてたんだよ。挙句に俺の寝床にいるたァ……」
「あのね、昨日一日は猫でした! にゃあ~!!」

 が両手で猫の手を真似て言うと、そうかよ、チップは短く返した。まるで相手にされていないと思ったは、懸命に説明した。

「何でか分からないけれど昨日起きたら猫になってて、昨日チップとアンサーが私の飼い猫だと思ってた子が私なの!」
「分かった、分かった。話ならいくらでも聞いてやるから、まず……」
「失礼します、お頭」

 チップが言いかけたとき、テントにアンサーが入ってきた。
 げっとチップが肩を跳ねさせる。どうしたの、とが聞くより先に、アンサーと目が合った。
 アンサーはを一目見るなり、くるりと踵を返した。

「……失礼しました、お取り込み中だったようですね」
「ちげっ、アンサー! コイツが勝手に寝てただけだ!」

 チップに指をさされてようやくは気付く。自分が裸であることに。タオルケットを被ってはいるけれど、それは辛うじて隠すべき場所を隠しているだけでかなり際どい。
 ――そっか、猫って素っ裸だもんなあ……。
 しみじみ実感している間に、チップとアンサーが口論を繰り広げているのを、は気付かないままでいた。
 そして、アンサーの謎の誤解が解けた頃、はようやく着替えに向かったのだった。
 どうして猫になり、無事に戻れたのかはよく分からない。は二人に「猫になっていた」と何度も説明したが、結局信じてもらうことは叶わなかった。無理もないとも諦める。しかし、猫でいる間に見た、チップとアンサーの意外な一面たちは、いい思い出だ。

「戻れるならもう一回ぐらい猫になってもいいかも」

 動物を飼っているのに言わなかったことで少々、一日無断で外出したことでこっぴどく叱られたものの、はご機嫌であった。

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