ぷつり、ぷつり、と、一針ずつ優しく私の腕の皮膚を掬っていく赤い糸と、その針と糸を操る什造さんの手際をぼんやりと眺める。
最初は、容赦なく鋭い針で肉ごと貫かれて引っ張られて泣いてしまった。何度も、なんども。でもその度に什造さんは私の涙を拭って、「ごめんなさい。次はもっと気を付けますから」そう、穏やかに微笑んでみせた。次第に皮膚とかその下だとか判らなくなってきて、ぴんと僅かに皮膚が突っ張る感覚だけがして、赤い刺繍が増える度に喜びが込み上げる。
彼にとっては既に慣れ親しんだ行為だけれど、この糸が如何に繊細で解れやすいものかを心身で知ることができた。これは如何に尊い行為なのかを学ぶことが出来た。
赤い糸は運命の糸。
恋人と恋人を繋ぐ糸。
幸せの証。
それが少しずつ私の腕を這っていく。
他の誰でもない愛しい人の手で、私の体に証が刻まれていく。
――願わくば、この証が長く保たれますように。
――途絶えたら再び、彼の手で刻んでもらえますように。
ひっそり祈る私に、什造さんが微笑む。
「キレイですねえ」
「うん、とても綺麗」
遠退いた痛みは戻る気配が無い。それで良い。この甘く痺れるような感覚に震えて、それを噛み締めてじっくり味わうためには、余計なものだから。私は幸せなのだ。赤い血のように煌々と煌めく糸筋に目を細め、優しく私を捕らえて針を動かす什造さんの存在が肌や肉を越えて骨の髄にまで迫るのを覚えて、また至福に浸って。
そうやって、糸のものか滲む血液なのか判らなくなってきた赤色を見ていた。
「ちゃんの腕は縫いがいがあります」
「そう……?」
「はい。まず誰かの体をチクチクする機会が無いですからねぇ」
あってなるものか、と私は思った。こんな風に優しく針を刺してくれる什造さんに触れられる他者の存在を想像しただけで虫唾が走る。私の大好きな彼は私のものだ。そして私は大好きな彼のもの。ふたりきりでいい。ふたりきりがいい。ふたりっきり。そんな私の想いに什造さんも応えてくれて、いつもこうして二人で薄暗い部屋にこもって触れ合う。
様々な行為で彼は私を刺激する。そして私は全てに幸福を覚えて、笑っている。
今のように、ずっとずっと、それだけ。
「……ん、出来ました~。我ながらよく出来たと思います」
満足げに什造さんが笑ったのを見て、いつの間にか宙を彷徨っていた視線を自身の腕へと戻す。
私の腕をぐるりと取り巻く赤い糸。細い鎖のようで美しい。じっくりとその細かな刺繍を眺めて、私は思い切り笑った。
「すごく、綺麗」
「そうでしょう? ちゃんの肌にぴったしですー。ちょっとだけお揃いな感じにしときました」
「ああ、本当だ……。嬉しい」
私が腕を翳すと、什造さんが隣にぴったりくっついて座ってくれて、鏡合わせみたいに腕を掲げた。
こうして見れば見るほど、お揃いだ。私の方の刺繍を可愛らしくしてくれているのが何だか嬉しい。お花みたいになっていたりして、本当に針と糸だけで作ったものとは思えないくらい細やかだった。
「とれちゃったら、またしましょうねぇ。ずうっと同じだと飽きちゃいますし」
「お任せします、什造さんとお揃いだったらなんでも嬉しいから」
腕を下ろしてそう返すと、什造さんはちょっとむくれながら私に抱き着いてきた。当然、私はそれを受け止めて、彼の背中へ腕を回す。什造さんは私を見上げながら唇を尖らせている。
「むー。こういうときは希望言っても良いんですよ? なんでもいいが一番困るんです」
「ただのでもじゃなくて、什造さんとお揃いだったらなんでも、だけど」
「どっちも似た感じじゃないですか? ……でもお揃い、僕も好きなので全然構いません」
笑顔になった彼が猫のようにすり寄って来て、理性がぐらつき掛けた。このまま理性を投げ出したらどうなるのだろう。そもそも今の私に、理性なんて存在するのだろうか。鈴屋什造という人のことでいっぱいで、他には何もない。理性とか本能とか、関係あるのだろうか。私はこの人から与えられる幸福をただただ飲み下す、雛のようなもの。ひとつ飲んではまだ足りぬ、またひとつ飲んではもっと欲しい、そう口をぱくぱくさせて、彼からの何かを待ち続けるだけの生き物。
死ぬのは、いやだった。
情けないことに“喰種”と戦い、片足を喰われ、私はそうなった。共に戦った同僚たちは皆、ぐちゃぐちゃにされてしまって、動かなくなった沢山の目がどうしてか全て揃って私を捉えていたように錯覚した。
同じような境遇の人は多い。珍しい事ではない。大抵の人は義足をその場所へ埋め込んだり、或いは失った足を補うための行動を身につける。
しかし私は、何もしなかった。
欠けたままで良かった。
目を閉じるたび転がった死体の視線が私を責め立てるから、それを引き剥がすことに夢中でいた。
『ちゃん、欲しがるどころじゃないですね。もう片方も、代わりのものも』
混乱する私の心は、什造さんに見抜かれていた。
私は決めあぐねていた。義足を得てでも進むべきか。退くか。でも代わりの足を欲しいかと問われれば「そうじゃなかった」から。あの沢山の視線のひとつになってしまうよりは、どんなに惨めな形でも命を抱えていたかった。
什造さんはその決断を喜んでくれた。
『ちゃんが戦わなくて済むなら安心です。僕以外のひとにまた傷つけられたりしちゃイヤですから』
そうして私は什造さんの帰りを待つ役目を持つ人間になった。この役目をこなすには、どれが幾ら欠けたままでも問題なかった。ただただ、留まるだけなのだから。
什造さんが私の反応を見るたびに嬉しそうに笑うから、他はどうでもよくなった。視線だって、前ほど存在感はない。
幸せ。幸せ。私は幸せ。
毎日この人とだけ過ごす。毎日この人とだけ触れ合う。毎日、まいにち、まいにち、この人とだけ。何もかも。
臆病な私を、いびつな私を、純粋で無垢なこの人はそのまま受け入れてくれた。
私がほんとうの私でいられる幸せをくれた。
もしかしたらこれはほんの気まぐれの一つで、この腕を這う糸のように頼りないもので、いつかぶちぶちと千切り捨てられるかもしれない。捨てられたことを気付かないようそっと解いて引っこぬかれるよりはマシだけれども、私はその瞬間を思うだけで恐ろしくて何度も泣いた。
その上、今もあの戦いの記憶が燻り、無いはずの左足が疼く。逃げ出した私を、消化されたはずの左足が責めに来ているようなおぞましい気持ちがした。縫われていない方の手で、かつて足があった場所を擦った。そこを塞いで、お前の戻る場所はもうないんだよと、左足の幻覚に訴えた。
ろくに動くことをしなくなった私の体は衰え、細く、ほそくなっていった。その代わり私の心には、什造さんが齎す幸せが詰め込まれていって、不思議なことに以前よりいっぱいな気分がした。削げた分、私はこの人の想いを受け入れる隙間を持つことができる。このままそれだけで満たされて逝けたら、どんなにか。
「ちゃん、ちゃん。シアワセですか?」
無垢な声に反応して、愚かしい情が腹の底から溢れてくる。
それを抑えるのに必死で答え損ねていると、彼の唇が耳元にくっ付いてきて、
「しあわせ、ですよね」
もう一度問うてきた。
何て切なくてもどかしい感覚。くすぐったくて、体の芯が熱くなって、恥ずかしいほど吐息に熱が籠る。
私の腰にしがみついていた筈の真っ白な腕は、私の腕の刺繍を撫ぜながら這い上がってきていた。鎖骨を、首筋を撫ぜ、じっくりと感触を確かめるように。
「ね、ちゃん。聞こえてるならちゃんと返事をしなきゃですよ。ちゃんは良い子だから、お返事できますよねぇ?」
什造さんの両手が私の首をとりまくようにくっ付いている。ゆるりと力を込められて、ほんの少し息苦しい。頭が少しぼうっとしてきて、真正面にある什造さんの輪郭がまばゆくて、僅かにぼやけて見える。まぶしい。あまりにまぶしくて白くて、苦しくて美しい光景。
「生きてるって感じがして、幸せですよね」
「……はい」
「僕のこと、大好きですよね。だから嬉しいんですよね」
「はい、とて、も」
「全部が、きもちよくて、幸せなんですよね」
最後は声が出なくて口を動かすことしかままならなかったけれど、什造さんは満足したように両手を離して笑った。
「いい子です、ちゃんはとってもいい子です」
私の首に腕を回して彼が言う。
またひとつ、幸せが私の中へ転がり込んでくる。
挫けて沢山のものをなくした私の中を、この人が満たしてくれる。
何もできない私を、この人はいっぱい愛してくれる。子供のころから大切にしてきた玩具のように。日毎に脆くなっていく私を、気ままだけれど確かな情をもって触れてくれる。歪な私を、必要としてくれているんだ、と思った。
「これからもいっぱいいっぱい幸せにしてあげますからね。ずっとですよ」
最後には、いつも通りの約束。
私の視界は嬉し涙で歪んでしまう。ぽろぽろと零れるそれを、什造さんは真っ赤な舌で何度も掬ってくれた。
毎日こうしてもらううちに、焼き付いていた筈の死んだ視線も少しずつ剥がれ落ちて来た。涙と一緒に什造さんが食べてくれているみたいだった。
まるで全部なかったことのようで。
この足も、もとからなかったかのようで。
様々な疼きを抱きながら、私は彼に包まれ、侵食されていくのを実感していた。たくさん、この人を感じた。私に残された幸せたちの全て、私の全ての彼。何もかもが混ざり合って溶けていって、体の隅々まで巡っていく。私の胸の奥に開いた大きな穴ぼこに、什造さんがたくさんのカタチの幸せを詰め込んでくれる。
無い方の太腿をきつく抓って私は笑い続けた。什造さんが与えてくれる温もりだけを想い続けた。
それだけで、とても幸せで、幸福で、至福で、幸せなことなのです。
(title by へそ)
::企画「造花」さまに提出
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