※若干11巻までの内容ネタバレ
※二人ともどこかおかしい





 その姿を見たのはたまたまだった。偶然だった。
 俺がふらふらと林に入っていったら、そこに、さんがいた。「あれ?」と彼女がこちらを振り返った時、男が薄汚い顔から諸々垂れ流して逃げるのがちらりと見えた。良いのかな、行かせても。酷く跳ねる心臓を精神力のみで押さえ付けるのはかなり苦しかったけれど、さんの笑みを見ていると次第に落ち着いていった。

さん、今のは……」
「六月くん、こんにちは。驚かせてしまったよね。……説明するから内緒にしてくれる?」

 そういって左手の人差し指を、つ、と唇の前で立てて。さんは微笑んでいた。

「什造さんが良ければ、私、後のことはどうでも良いの」

 手は、汚れていた。
 土と血が混じって彼女の手を汚していたのだ。まだ乾いていないそれがてらりと光っていて、また心臓が跳ねた。怖いとかそういうことではなく、単純に、俺は、驚いていた。
 とても温和なさんには似つかわしくない色彩。全く意味の分からない一文から、彼女は、ゆっくり詳細を噛み砕いて俺に説き始めた。

「つまり、什造さんが幸せであれば、他はどうでも良いの。什造さんが好きなものは私も好きだし、什造さんを不快にさせるものは私にとっても不快。だから当然、什造さんを悪く言うモノは、この世に要らないと私は思ってる」
「は、はあ……」
「でも本当に消しちゃうと什造さんや篠原さんに叱られてしまうから、私、什造さんに嫌われたら生きていけないから、金輪際そんな過ちを犯さないでくれるようにとこっそりお願いするんです。今までその成功率は100パーセント! でもでもあまりお上品なやり方でもなし、私の我儘奔放超個人的行為だからナイショ。すべては私のこの大好きな気持ちを台無しにされたくないからという本当にしょうもないことなんです」

 おそるおそるさんが今さっきまで男と向かい合っていたであろう場所を、その地面を見つめる。
 血痕、抉れたところ、濡れたところ、そして、それらの上に落ちた汚れ切った手袋。元の生地が白いそれは、とても汚れが目立った。

「まぁ、什造さんと什造さんの好いている存在に関しては尊ぶべきものなので、それすら理解してくれない連中は私以下にしょうもないので、この関係性がややこしいのだけれど……って、あれ?」

 俺が地面を凝視していると、さんもそれに気付いたらしかった。

「ああ、あの子オモラシしちゃってたんだ。どうしよう。こういう時、水で流したらいいって聞くけれど……」

 どこからか黒いビニール袋を取り出して、その中に手袋をしまいながらさんは柳眉を下げる。
 俺は生つばを飲み込んで、カバンからペットボトルを取り出した。

「あの、よかったら、コレ」
「でも六月くんのお飲み物じゃないですか。いいんですか?」
「大丈夫ですよ……ハイ」

 地面のいびつな湿りを執拗に気にする彼女を解放するためにも、俺はその上から水をぶちまけた。これで何が解決するのかわからないけれど、少なくともさんの表情は晴れた。

「ありがとう、六月くん!」
「そ、そんなの良いですよ。このぐらい」
「これで完全に解決だもの、有難うございます。ハイセくんにも六月くんを素敵なひとに育ててくれてありがとうってお伝えしておかなきゃ」
「い、いつから先生が俺の親みたいに!?」
「ママンなんでしょう?」
「そ、それは才子ちゃんが……。まず、第一ナイショの行動を自分からバラそうとする必要は……!」
「私がハイセくんにバラすのは六月くんが良い子だってことだけだから大丈夫ですよ。あ、お水、少しだけ残してもらえますか?」

 ビニール袋を上着の下にしまって、代わりに彼女は白いハンカチを持っていた。俺は言われた通りに、中身を僅かに残したペットボトルを渡す。それを使ってハンカチを濡らし、手の汚れをふき取り始めるのをじっと見つめていた。そして驚いた。
 さんの拳はずっと赤かったから。血が滲んでいたから。

「……その手」
「人を殴るのに慣れていない手なんてこんなものだよ。それに私、今日は加減間違えたから仕方ない」

 丹念に傷を拭った後、さんはそこにラップを巻いてから黒い手袋をはめた。しっかりしたものだから、完全に傷跡は隠される。あの歪な傷跡への処置はラップを巻くぐらいしかないって、そんなのもアリなんだ。というか、その用意周到ぶりには肌が粟立つ。こうなるのを予期して用意していたってことなんだから。
 ちょっと料理が失敗した程度の困り顔で、さんは俺を見つめる。

「私は私の幸せの為に、私の愛しい人たちを大切にしたいだけ。――そういうわけだから、このことは内密にお願いします。六月くん」

 うっすらと眼鏡の奥で目を細めるさん。白い髪、年上の人の顔立ち、優しい表情。それらの符号だけで俺の胸の中で途端に暴れだすものがあって、声を出すことがままならなくなる。
 ――なんなんだろう、この感覚。
 こくこくと何度も頷いて、俺は『約束します』という意思表示をした。
 さんは「重ね重ねありがとうね」と笑う。

「それと、もう一つ」
「……え?」

 突っ立っている俺の横を通り過ぎざま、さんは言った。

「もうここは使わないから、そんな顔しないでね」

 ――どういう、こと。
 振り返って、俺はさんの姿を追った。
 どこかご機嫌そうに、彼女は木々の間を抜けていく。何もなかったみたいに。何もしていないみたいに。真っ黒な服、真っ白な髪、空のペットボトル。おかしいものなんて、なんて。
 ――どういうこと?
 俺はそんなに怯えていただろうか。慕う人の為に危うい道を渡ってまで想いを貫く姿を、俺は怖がってしまったのだとしたら。それは悪いことをしてしまった。だって、そういう想いからどう行動するのが正しいのか判りもしないのにただ怖がったら、さんにとても失礼なことをしてしまった。
 さんは鈴屋さんを慕うから、鈴屋さんを守りたいと思うから、ちょっと無茶でも承知の上であんな行動をしたんじゃないか……。
 ――それって、実はとっても、真っ直ぐな愛情なんじゃ?
 俺にはまだわからない割合の方が多いけれど、鈴屋さんのことを語るさんの表情はいつも穏やかで美しかった。

「……今日は、ちょっと機嫌や虫の居所が悪かっただけ、なんだよね」

 ――それは、誰の?
 誰のって、そんなの、さんの……。
 ――そう、さんの。
 だっていつもあんなに穏やかで優しくて鈴屋さんをずっと見つめているあの女の人は鈴屋さんを見つめるときだけ女性の瞳をしていて他の人には俺や先生や才子ちゃんや先生たちには違うあたたかいけれど優しいけれど別物だから、大丈夫、彼女の言葉を借りるとしたら『什造さんが好きなもの』というやつなんだ、だから大丈夫あのひとは女の人だけれど女なのは鈴屋さんに対してだけでその他のどの男にも仲間意識以上のものを持ちはしないから。安心、大安心。
 ああ、でも、ちょっとうらやましい。
 そういう形での発散もあるんだ。

「良い子か、そっか……俺、良い子なんだ」

 ……私には、それじゃ足らないや。

「今度、さんに確かめなきゃ……」

 満たされた人の目に映った、足らない私は、どんな顔をしていたの?

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