道端を歩く猫を見て、什造は歩を止めた。「猫ちゃあん」屈んだ彼が両手を伸ばすと、彼の人柄か猫の懐っこさかは知らないが、三毛猫はゆっくりと近づいてきた。すりすりと什造の手に頭を擦りつけ、什造は楽しそうに笑い声をあげる。指先で猫の額や首の後ろをくすぐってやるとゴロゴロと喉を鳴らし始め、ますます什造はご機嫌になる。

ちゃんも触りませんか」
「え?」

 ひとりと一匹を見守っていたは、突然話を振られて目を丸める。

「さ、触りたいですけど……逃げちゃったりしません?」
「大丈夫ですよ。ほら」

 什造は猫を抱きかかえてへ歩み寄った。猫は什造に抱かれて安心しているのか大人しい。そっとが伸ばした手から逃げることなく、その毛並みに触れることを許してくれた。勤務時間、捜査の真っただ中だというのにの心はすっかり緩んだ。そっと、ゆっくり、猫の喉を撫でてやる。うっとりとした三毛猫の表情にも顔を綻ばせる。

「あー、良いですねぇ。アニマルセラピーですねぇ」
「このままずっと猫撫でて休んでたくなりますよね~」
「なりますけれど、ガマンしなきゃですよ什造さん!」

 うっかり頷きかけては我に返る。

「お仕事をしないとお金が貰えません。お金がないとご飯が食べられません! 猫を撫でる余裕もなくなります」
「わかってますよ~。まったくちゃんは変わりません」

 猫を下ろし、什造がくすくすと笑う。駆けていく三毛猫にひらひらと手を振りながら、目を細める。振り返るとは、なんだかばつが悪そうな顔でスマートフォンを見つめていた。恐らく什造の気分を害してしまったと思っており、その気まずさから逃れるために地図を確認しているのだろう。

「褒めてるんですよ」

 什造が大きめの声で呼びかけると、気弱な瞳はほっとしたように和らいだ。

「……もうちょっとで対象のアパートです。頑張りますね」
「肩の力は抜く、ですよ」
「はい」

 が携帯をしまったのを見て、什造は再び歩き出した。


*****


 アパートへの訪問を終えたは、盛大に溜息を吐いた。捜査対象の住居を直接訪ねる緊張感は何度経験しても慣れない。赫子とクインケでぶつかり合う戦闘のほうがまだ良い気がした。直接対象の部屋を訪ねるのではなく、悟られないよう近くの部屋の住人へ聞きこむだけなのだが、万が一どこかで捜査に勘づいた喰種が潜んでいたらという心配が尽きない。自分たちは抗う術を持っているからまだしも、他の住人たちは一般人。喰種がそばにいるという不運すら想像したことがない人たちなのだ。逆上した喰種に危害を加えられでもしたら――。
 ――そうならないために、迅速に的確に捜査を進める。はそっとこぶしを握り締めた。
 昔、「臆病なほうが良いさ」と励ましてくれた恩人のことを何度も思い出す。父性を感じさせる優しい笑み。優しい声。今は聞くことが出来なくなってしまった、什造との共通の恩人。それでも、その面影と思い出はまだまだ未熟なを後押ししてくれる。
 ひと段落した二人は公園のベンチに腰掛けた。が手帳を開き、それを什造が覗き込む。

「んー……。だいぶ固まってきた感じですかね」
「そ、そうなんですか」
「……僕の指示のまま質問するので頭いっぱいでしたか? 相変わらずへっぴりさんです」
「す、すみません。今一歩、こう、確定に踏み込む潔さが足らなくて……」
「本当にちゃんと半兵衛はキョウダイか何かなんじゃないですか」
「半兵衛くんが可哀相です、それ……私なんかとは……ホントに……」

 項垂れる彼女から手帳を取った什造は、ふんふんと頷きながら文字を追う。「にしてもプルプルした字です」「震えてるんですか」「震えそうなんです」でも丁寧に書いてるのは伝わります、と言い添えて、ページをめくる。抜き打ち検査を受けているような心境で、はじっと手帳を読む什造を見つめていた。すべて読み終えた什造は、満面の笑みで手帳を返す。

「やっぱりちゃんはまとめるの上手です。もっと胸を張ってください、縮んじゃうですよ」
「あ、はい、ありがとうございます……」

 手帳を受け取ったが頬を緩める。その背が若干自信なさげに丸まっているのを見て、什造は「む」と唇を尖らせた。

「言ったそばからしんなりしてますよ~?」

 眉間に皺を寄せて、什造はぐっとに顔を近づけた。下から覗き込むようにしてそうすると、反射的には背筋を伸ばし、彼と距離を取ろうとした。瞬く間に血色の良くなった頬を確かめ、緊張で瞬きを繰り返す目に視線を合わせ、什造は笑った。

「ピンッとできるじゃあないですかぁ」

 それで終わるだろうと安堵しかけただったが、小柄な上司は両手を伸ばしてきた。抵抗する間もなくの肩に什造の両腕が乗り、心なしかじわじわと距離を詰めてくる。
 咄嗟には視線を周囲に巡らせた。人影、なし。接近する音、なし。気配も恐らく、なし。

「じゅ、什造さん……。とても、とても、勤務時間にしては距離が近いのですけど……」
「今日のお仕事は終わったようなものですから~」
「う!」

 うなじをくすぐられて、思わずは跳ねた。什造の気紛れな悪戯は今に始まったことではない。幾度となく体験してきたがやはり、慣れない。彼女の反応を見て、什造はにいっと笑った。「いい子です、いい子」うなじから首筋、首筋から鎖骨へとくすぐる位置をずらしていく。そうして白い手は遂に彼女の両頬を包み込んだ。

「什造、さん」
「いい子ですから、じっとしてるですよ」

 鼻先が触れて、は唇を引き結ぶ。小さく頷いて返すと、什造が微笑み、そっと近づき、たまらずが目も閉じ、そして。
 ――リンリンリン。
 強張るのコートのポケットから、携帯電話が元気よく鳴り始めた。リンリンリン。音は続く。
 そろりと瞼を開いたは、真ん丸な目で此方を見つめる什造に、おそるおそる切り出した。

「……あのぅ、電話、出てもいいですか」
「どうぞです」

 什造が離れると、すぐには電話に出た。「はい、です。……あ、水郎くん? うん、大丈夫だよ、うん、ちょっと待ってね……」何故か電話越しに彼女は何度もお辞儀をする。何年経っても何度見ても、什造はそれが不思議だった。電話口を手で押さえながら、は什造を顧みる。

「で、電話。水郎くんからです。鈴屋班でたまには夕ご飯食べませんか、って」
「割り勘なら良いです」
「わかりました」

 は嬉しそうにまた電話へと戻る。什造のOKが出たことを伝え、待ち合わせ場所と時間を決めて確認し、うんうんと頷きながら世間話をひとつふたつして……電話を切った。
 什造は微笑むの横顔をじっと見つめる。とても嬉しそうだ。引っ込み思案だが誰かと一緒に過ごすことを好いている彼女らしく、夕食の集いに期待を募らせているふうである。

「夕飯楽しみですか」
「はい。みんなでご飯って楽しいですし、久々じゃないですか?」
「僕と二人きりのと、どっちがいいです?」

 間髪入れぬ什造の問いに、は面食らった。ええと、と無意識のうちに言葉が詰まる。誰よりも大切な什造との時間も、ようやっとできた仕事仲間との時間も、どちらも彼女にとってはかけがえのないものだ。生涯自分には縁のないものだと思い込んでばかりいたから、大切すぎて、嬉しすぎて、優劣を考えるなんて勿論無かった。
 困り果て、唸るを見て、ふっと什造は目を伏せて微笑んだ。

「……冗談ですよ。ちょっと意地悪してみたくなっただけです。ちゃんと同じで僕も全部大事ですよ」

 全て彼にはお見通しだった。そして、そう笑う彼に、は少し寂しくなるほどの大人っぽさを感じた。
 什造の成長をその隣で見続ける栄誉をいつの間にか授けられていた自分の幸せより、成長を続ける彼と立ち止まったままの自分の差をひんやりと覚えてしまった。
 だがその感傷が彼女の表情を曇らせるより先に、什造が立ち上がる。

「さて、のんびり待ち合わせ場所に向かいましょ~。きっとちょうどよくなります」
「……はい」

 笑みを作って、は、歩き出す什造の背を負った。
 ふと、公園の茂みのそばに視線を巡らせると、見覚えある模様の猫が座っていた。じっとたちを見つめる金色の瞳は美しい。数時間前に撫でたあの猫とは違う子かもしれないが、きっと同じ猫だろうと思っては微笑みを送った。気を張って作ったものではなく、心を和らげた折に頬が綻び生まれるそれを。
 そんなをちらりと振り返った什造の顔にもまた笑みが浮かんでいた。が視線を戻すより先に前へ向き直ったため、向けられていた笑みの存在に彼女が気づくことはなかった。

「さあ、いっぱい食べますよ~」
「割り勘だって忘れてませんか?」
「足りなかったらちゃんにねだります」

 いつもの調子で、他愛ない言葉を交わしながら、二人は公園を後にした。

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