海沿いに建つ、かつては有名なホテルだったという廃墟。“喰種”による大量の捕食が行われ、その事件をきっかけに客足が遠退き、ホテル自体が経営困難に陥ったのだそうだ。
 本来は立ち入り禁止のそこに、私はカネキくんと共に踏みいった。思ったより中は散らかってなくて、昼間ということもあり、さして不気味さも感じなかった。

「綺麗な場所なのにね」

 私がそう零すと、私の手を引くカネキくんは頷いた。「そうだね、勿体無いよ」歩みは止めずに、此方を振り返らずに。
 カネキくんは私を何処に連れて行きたいんだろう? 私が“海を見たい”って前にぼやいたのを覚えてくれていたのかな。にしてもここを選んだ理由って?

「誰にも邪魔されたくないんだ」

 私が訊ねる前に、カネキくんは答えてみせた。まるでエスパーみたい。どうして私の考えていたことが判っちゃったのかなあ……。
 本当は、もっとカネキくんに沢山訊ねたいことがあるんだよ。
 どうして大学に来なくなっちゃったの?
 どうして『あんていく』に来なくなっちゃったの?
 どうして眼帯をつけるようになったの?
 どうしてそんな真っ白な髪になっちゃったの?
 どうしてそんな悲しい顔をするようになっちゃったの……?
 カネキくん、答えて。ねえ。
 祈るように彼を見つめた。
 けれどカネキくんは、何も言わずに私の手を引いて歩く。答えられないのかな。それともさっきのはただの偶然? 気づかないうちに私が口にしていたとか、だからカネキくんは答えてくれたとか。
 不意にカネキくんは、歩みを止めた。
 いつの間にか私たちは、廃墟の屋上まで来ていた。潮風をもろに受けるそこは、長年放置されていることも相まって風化が激しい。

「大丈夫だよ。僕のあとについて来て」

 ひび割れた床に視線を落として怯む私に、カネキくんがそう言ってくれた。
 私は、彼を信じて歩み出す。
 思ったより床は丈夫だった。でもひびが行き過ぎて穴の空いた場所もある。まるで小さい頃遊んだアスレチックみたいなスリリングさだ。
 私たちは屋上の端に辿り着いた。眼下には海が見える。濃い潮の香り。フェンスも何もない。以前はあったのかもしれないけれど、危ないなあと思った。

「海、青いね」
「今日は天気も良いしね」

 廃墟に不釣り合いな、暢気過ぎる会話。
 カネキくんとこんな風に過ごすなんて、久しぶりだ。握った手から通う体温が、喜びに拍車をかける。
 こんなに幸せな気持ちのまま、死ねたら良いのになあ。なんて、物騒なことを思ってしまう。綺麗な景色に囲まれて、大好きな人のそばで逝けたなら――。

「そうだ、カネキくん」
「なに?」
「私に用事、あるんだよね?」

 さっき言っていたよね。“誰にも邪魔されたくないんだ”って。
 私が問うと、カネキくんは笑った。何だか気恥ずかしそうな、困ったような、なんとも言えない可愛らしい笑顔。

「実は、ずっと、思ってたことがあって」
「思ってたこと?」
「君のこと、良いなって思ってたんだ」
「良いなって、なにが?」

 私の心臓はバクバクしていた。何を言われるのかな。どういう意味かな。期待と不安に揺れる私の手を、カネキくんはぐいっと引っ張った。勢いのまま、私は彼の胸に飛び込んでしまう。すぐに離れなきゃ、と思ったけれど、体が動かなかった。その間にカネキくんの両腕が私の体を押さえるように回されていて、離れられなくなってしまった。密着したままカネキくんは動かなくなって、私はひとり混乱した。

「か、カネキくん……!?」
「やっぱり…………だね」
「え? なに、よく聞こえな――」

 ずぶり。と、首に何かが食い込む感覚がした。次いで走った激痛に、私の視界は弾けた。痛い。痛い。でも動けない。なにが起きたのか判らない。
 叫ぶことすらままならない私の首から、ぶちぶちと音を立てて肉が引き剥がされる。熱した鉄の棒を押し当てられたらこんな感じなんじゃないだろうか。痛みと熱と、そこから滴る自分の血。味わったことのない感覚だらけだ。
 そして、私を更に混乱させたのは――、

「良いにおいだね、って言ったんだ」

 口を真っ赤にして笑う、カネキくん。
 私の首の肉を裂いたのは、カネキくんの歯だった。いつの間にか眼帯が無くなっていて、ずっと隠されていた目は、血のように赤黒く染まっている。片方だけ、赤い。
 ああ、これって……“喰種”の。
 馬鹿馬鹿しいかもしれないけど、すごく綺麗な色だなあと、見惚れてしまった。

「痛いよね」
「うん、痛い」
「ごめんね。でも我慢できなかったんだ」

 カネキくんの赤い瞳の向こうに、違う誰かがいるような気がした。歪んだ笑みを浮かべて、カネキくんの飢えに拍車を掛ける何かが。
 泣いているのか笑っているのか判らない。カネキくんは何かに抗ったり従ったりを繰り返しながら、苦しそうに呻いていた。

「君を、僕はどうして。こんなの駄目なのに! ごめん、ごめんね。でもああ、あともう少し、美味しいんだもの。もう少しだけ良いでしょ――……いや駄目だ、駄目なんだ! 逃げて、逃げて……もう……もう……!」

 首は相変わらず痛くて血が止まらなかったけれど、もがくカネキくんの姿を見ていたら苦しくて、心が引き裂かれていくような思いがした。肉の削げた首筋よりも、胸の奥の方がずっと痛かった。
 ふらつきながらも私から離れるカネキくん。私を視界に入れないようにと顔を両手で覆って、ひたすら「逃げて」と訴える。
 そんなの無理だった。

「カネキくん。大丈夫だよ」

 こんなに苦しむあなたをひとりになんか出来ない。
 ふらつく彼を支えるように、怯えるその心を包めるように、腕を伸ばした。首筋から伝わる激しい痛みが動きを鈍らせたけれど、何とか彼を抱き締めることができた。

「びっくりしたけど、ちょっとぐらい平気。ううん、全部でも良いよ。今更気を遣わないで」

 事故に遭って、手術を受けて以来、カネキくんはろくに食事を摂れていないことには気付いていた。ヒデくんもきっと判ってる。今までは仲良く通っていたハンバーグのお店にも行かなくなったって話していたし。
 カネキくんが私に伝えたかったこと。邪魔されたくない用事。全部が繋がった。

「こういうことだったんだね。何でかは判らないけど……これじゃあ、仕方ないよね」

 私は子供をあやすみたいに彼の背中をさすった。
 カネキくんは可哀想なぐらいに震えていた。かたかたと鳴る、噛み合わない歯の根。半開きの口から垂れた唾液と、私の肉の血。泣いて必死に飢えに抗うカネキくんの「離れて、おねがい」という声。繰り返し私の耳に届くそれ。
 出来ない。出来ないよ。
 私は笑った。

「今まで気付かなくてごめんね」
「離れて、はなれて、早く、はやく」
「もう良いから。隠さなくて良いからね」

 またカネキくんの口が、私の首を目指して降りてくる。
 新たに皮膚を裂く彼の歯。
 痺れたように痛みは遠い。

「良かったよ」

 私はなるべく優しい声で告げる。

「あなたにとって、私が、美味しくて良かった」


 ――幸せな、夢だった。


 そう。これは、夢だった。
 そのことに私が気が付いたのは、間近で聴こえたシャッター音のお陰だった。

「起こしちゃったかー、ごめん」
「チエさん……」

 私が呟きながら顔をあげると、「だからホリチエで良いってば」とチエさんは笑った。

「椅子にガッツリ凭れて気持ち良さそうに寝てたからさ、つい撮っちゃった」
「構いませんけど……」

 かなりぐっすり、それも長い間眠っていたようで、体を動かしたら痛いぐらい軋んだ。ギシッという音が響く。多分椅子からしたのだろうけれど、私の体が鳴ったのかと思った。
 立ち上がった私に、カメラを弄りながらチエさんが言う。

ちゃん、随分と幸せそうに笑ってたよ。よっぽどいい夢見てたんだね。何枚撮っても飽きないなぁ」

 チエさんにとって私は“良い被写体”なんだそうだ。とびきり美人とか可愛い訳でもない、ごく平凡な私の何が良いのか判らない。チエさんの感性は個性的で、写真への情熱は真っ直ぐで。羨ましいぐらい。「ちゃんみたいに歩く不幸な子がいると、面白いものいっぱい見れるからね」……誉め言葉として受け取っておこう。
 私は夢を思い返して、首筋をさすった。
 夢の中で肉が食い千切られた場所。夢だったとは思えないぐらいリアルな感覚が、まだ残っている。次第に薄れ行くそれが名残惜しくて、目を細めた。

「おっ、また良い顔してる」

 カメラのシャッター音と同時に、チエさんは笑いながら呟いた。

「何だろうね、虚無感というか。今時の若者らしからぬ感じがする」
「チエさんだってそんな歳変わらないじゃないですか……」
「まーまー。細かいことは気にしない」

 項垂れる私を他所に、チエさんはリュックから大きな封筒を取り出した。そのなかに書類や写真をどんどん突っ込んでいく。書類はともかく、ちらりと見えた写真が何だか赤黒くておぞましかったのは気のせいだろうか。また“喰種”の写真を撮ったのかもしれない。チエさんは凄すぎる。
 封筒に写真たちを詰め終わったチエさんは、私にそれを差し出してきた。

「お使いしてきて。ちゃん」
「えっ?」
「このメモにある場所に行って、そこに来た人にコレ渡してきてくれる?」

 どこかの住所が書かれたメモを追加で私に押し付け、チエさんは笑う。

ちゃんが私の協力者だっていう、紹介も兼ねてね」

 断れるような雰囲気ではなかった。私はこくりと頷いて、上着を羽織るとマンションを出た。
 指定の場所は思ったより近かった。歩いて20分もしないで着いた喫茶店。メモを改めて確認してから、店の扉をくぐる。
 客は私以外いなかった。とりあえず砂糖入りのホットコーヒーをひとつ注文して、待ち合わせの時間まで寛ぐことにした。

「……ちょっと苦い」

 砂糖を追加しようとテーブルの端に置かれた砂糖入れに手を伸ばしかけたとき、店の扉のベルが鳴った。
 反射的に扉の方を振り返る。
 ――そして、硬直した。
 真っ白な髪。
 左目を覆う眼帯。
 優しくも悲しげな、困ったような表情。

「カネキ、くん?」
……さん?」

 彼も予想だにしていなかったんだろう。目を真ん丸にして私を見つめていた。私も同じように、驚いていた。しかしその感情は、次第に別のものへ変わっていく。
 胸を満たしたのは、喜びだった。夢のなかで見た姿と同じ、カネキくんが私の目の前にいる。その事実、諦めかけていた夢。

「久しぶり、だね」

 ああ、何て幸せだろう。
 夢の続きを果たす機会に恵まれた運命の巡り合わせへ、語り尽くせぬ喜びが込み上げてくる。
 皮膚にカネキくんの歯が食い込む感覚を思い描きながら、私はゆるりと微笑んだ。

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