真っ白な、汚れと言う汚れを一切排除した病院。この類の建物の床と革靴の底の相性は最悪で、一歩歩くたびにコツコツと大袈裟な音がする。それでも廊下を突き進んで、病室に入った。のいる病室。完全個室の、だけの、ひとりきりの部屋。
私が挨拶も無く部屋に入ると、ベッドの上で体を起こしていたはそのまま首だけを此方に向けて笑った。
「宇井さん、郡さん、こんにちは。来てくれてありがとうございます」
「こんにちは、。調子はどう?」
ベッドの傍に椅子を引っ張ってきて座ると、まず私はそう訊ねた。
「見てのとおり元気ですよー。あー、でもお腹がすいてすいて仕方なくて……ご飯が足らないんです」
「まあ、病み上がりなんだし、ちょっと食べたりないぐらいが丁度良いんだよ」
「そうですか? ご飯食べられない私って、キャラ薄いじゃないですか。ああ、早くご飯食べたいなあ」
「昼食はさっき摂ったんだろう、看護師さんに聞いた」
「スープなんかじゃ足りないんですってば。そう言えば宇井さん、私なんかのとこに来てる余裕あるんですか? 月山家の作戦近いじゃないですか」
にこにこ笑っているを見て、私は苦笑いを溢した。
――もう作戦は終わったろ。
とても口に出来なかった。は現実から逃避している。だからここに居る。終わったはずの作戦のことを口にする。
月山家駆逐作戦は終了した。
親友ハイルと共に行動していたは、目の前で親友の首が飛ぶのを見た――のだと、思う。断定できないのは、私が現場に駆け付けた時にはハイルの胴体に首は無く、もまた瀕死の重傷で意識を失っていたからだ。
気絶したの腹部は抉り取られており、緊急搬送・手術が行われた。からくも一命は取りとめたのだが、胃を全て摘出し、腸やその他の器官、多量の出血による脳へのダメージ等、彼女には多くの障害が残された。命あっての物種とは言うが、こんな状態ならば彼女は死ねた方がマシだったんじゃないだろうか。は作戦以前のような調子で振舞い続け、消化する器官を損なった事実も親友を亡くした現実も受け入れることなく、こうしている。……いや、本当は気付いているはずだ。人の目を盗んで食物という食物をどこからか手に入れて食らっては何度も死にかけている。死にかけが何度もまた死にかけている、ああ、ややこしい。
とにかく私は、作戦以前の自身に固執して現実から逃げ続けるを説得するために、こうやって彼女の元に来ているわけだ。
これ以上病院側の負担を大きくさせるのも、の体に負担を掛け続けるのも、良くない。
「。だからね、君は怪我をしてしまって前のようには食べることが出来ないんだ。勿論、少しずつ治療に専念して治していけば、以前ほどでは無くても食事を行えるようになる。だから今は焦らないで、耐えて、傷を癒すこと」
「確かに痛いですよ、でもね、お腹がすくんですよ。ぎゅうぎゅうするんですよ。胃が食物を欲してるんですよ」
――もう胃は無いんだってば。
「ハイルちゃんはどこ行ったのかなー。メールも電話もうんともすんともしない。ねえ宇井さん、今度はハイルちゃんを連れて来て」
「連れて来れないって言ったでしょ」
――お前だけ忘れて、狡いだろ。
何処からか菓子を取り出したの手を私はぎりっと掴んで止めた。「痛い、いたい」の抗議の声を無視して菓子を取り上げる。だから今のお前はこんなの食べられないんだってば。苛立ちを隠しきれなくて、八つ当たりのようにの手を叩きつけるように離した。若干の体が傾いだ。けれどは、何も言わなかった。手首が真っ赤になっているのに。
「あのな、、作戦は」
「おわってない」
が呟いた。随分と低くて地を這うような声だった。
「あんな終わり方しない。ハイルちゃんは負けない。ハイルちゃんは死なない。一緒にご飯食べるっしょ、ねえ、って、言って、それで、ハイルちゃんと一緒に戦ってた。ハイルちゃんが、ハイルちゃんがあんな終わり方するのはおかしい。だから、おわってない。またやる、そして、ハイルちゃんと一緒に来るの」
はすっかり壊れていた。今まで同僚を失ったことが無かった訳ではないのに。その時も悲しんでいなかったわけじゃあなかったのに。
伊丙入は、をとして保つための唯一の柱だった。
もげた柱じゃ、の心を支えることなんて出来なかった。
「たくさん食べて力をつけなきゃ……。ハイルちゃんの足手まといにならないように……。次こそ作戦成功させなきゃ……お腹すいた、お腹がすく、足りない、ごはんたりないの……こおりさん……」
のやつれた手が伸びてきて、私の腕を掴む。痩せこけた頬を必死にゆるませているのだろうけれど、肉のそげたそれがゆるむはずもなく。唇が奇妙な弧を描いて、かたかた体を震わせながらは笑う。
「どうしよう……もうなにもわからなくなった……。ごめんなさい、ハイルちゃん守れなかった……ハイルちゃん……ごめん……守れなくて……」
あは、あは、あははと、何でかは笑っていた。次第にそれは嗚咽に変わっていく。涙やら鼻水やら垂らして、無いはずの胃でもひっくり返ったのか、昼食であったらしきものまで戻して、泣きじゃくった。私は何も言えなかった。ナースコールを押した。看護師が来る。大丈夫ですか、とに声を掛ける。大丈夫なわけが無いのに、そう訊ねるしかない。私はひとまず病室を出た。
――衣服もベッドのものも綺麗に交換されてから、病室に戻る。
は、死んだように眠っている。これ以上日に当たったらミイラにでもなりそうだ。腕もすっかり肉が落ちて、これではもうクインケを振ることなんて出来ないだろうな、まあ、その方が良いだろうな、と私は思った。また椅子に座って、私はを見つめた。
「、あなたは悪くない。だからゆっくり休んでいてください」
届いていないだろうけれど、何か声を掛けずにはいられなかった。ぱさぱさになった彼女の髪の毛を撫でてから、頬に触れて温度を確かめる。ああ良かった。まだ生きている。だとしたらきっと、これから何とかなる。私が何とかなるように尽力しよう。手を貸そう。あなたが起きずにいる間に、あなたのご家族がどれだけ悲しんでいたか。同時にあなたの生存にどれだけ安堵したか。今もどれだけあなたを案じているか。ハイルの死を完全に受け入れてから、あなたに、全部、ぜんぶ、伝えよう。
涙のあとが残る頬を何度も撫でていた。泣いたことを消してあげたかった。でも強く力を入れると、皮膚を裂いてしまいそうだった。だからといってこれ以上触っていたら、きっと起こしてしまう。
私は、あなたが起きた時、少しでもマシになれるように仕事に励もう――。
これ以上いても何もできない。また明日来ることに決めて、重い腰を上げる。本当ならずっと傍にいてやりたいけれど、無理な望みだった。正直医者は、との面会自体を快く思っていない。当然だ。今の私は、のトラウマを引きずり出すだけの存在。せめてもう少し容体が落ち着いてから来るべきだろう。しかし当のが私との面会を、私に会うことを強く願った。だからこうして私は来る。堂々巡りの厳しいやり取りが繰り返されて、が発作を起こしてしまって、それでも。
――来てくれてありがとう。
そう彼女が言ったから。いつも、いつも、言うから。
唇を噛み締めながら病室を出ると、真っ黒い影が見えた。正しくは真っ黒い服装の男。危うくぶつかるところだった。
「あわ、わ、わ、すいませぇん……」
男の顔と情けない声には覚えがある。作戦で死んだキジマのパートナーの、旧多二福一等捜査官。彼は花束を抱えていた。
「旧多一等……どうして此処に」
訊ねると、彼は異様なくらい腰の低いまま、苦笑いで答える。
「いやあ……ほら、さんが入院してるじゃあないですか。同じ生き残り者同士といいますか~……何て言うか、女性が自分の目の前で深く傷ついてしまったことに多少は責任を感じているもので……」
「見舞いということですか」
「はい、はい。そうです。お花なんてつまらないものではありますが、何もないよりはマシかと思いまして、こうして来た次第です」
ね、ね? と花束をちらつかせながら、旧多は言う。
私にそう懇願されても、困る。別に私が許さなくては彼女の見舞いが出来ない訳でもあるまいに。既に扉の前から移動して通れるようにしてあるのに、彼は動こうとしない。私の顔色を窺っているようだ。
仕方なく、私は嘆息しながら言った。
「……さっき眠ったばかりなので、彼女を起こさないようにしてあげてください」
「あ、はい。それはもう! 勿論です」
ようやっと安心したらしい旧多が病室へいそいそと入っていく。
「ゆっくり休んでもらわなきゃですからね」
扉が閉まる。の病室の花瓶に生けてあった花は、もしかしたらずっと彼が持ってきているのかもしれない。間違っても食べ物を差し入れたりはしていないだろうな。下手をすれば花すら食べかねないの現状を思うとあの花束すら不安なのだけれど、いくら何でも杞憂か。
私は仕事に戻ることにした。今日も今日で、やることは沢山ある。
――明日もまた当然のようにを見舞いに来てやれると思っていたこの時の私は、滑稽だなあと今でも思う。
はさいごまで、私とハイルのことを、気にかけていたそうだ。本当に調子はずれな奴だ。
――ああ、本当におかしいな。
私は、笑っていた。のようにいびつで不完全な笑みが止まらなかった。笑うしかなかった。
本当に、滑稽だ。
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