――あの有馬貴将に恋人が出来た。
その話が局内じゅうに知れ渡るまで、時間は掛からなかった。なにせ“あの”有馬特等だ。まず彼が女性に興味を持つという考えすら無かったし、そんな特等を射止める女性が現れるとは思いもしなかった。ちなみにお相手の捜査官はというと、至って平凡な人間であった。特別腕が立つとか、美貌が秀でているとか、そんなことはない。
ただ有馬曰く、
「といると安らぐ」
……らしい。
あの有馬さんが“安らぐ”なんて言うんだ……!
彼の指導を受けた部下や、活躍を知る人々は皆そう思ったに違いない。滅多に表情を変えない平子ですら、微かに震えているのを宇井は確認した。そんな彼自身もまた、「あの有馬さんに恋人が……」と戦慄いていた。失礼は承知の上だ。
そして渦中のは、はにかみながら彼らを見守っていた。自身、有馬の恋人になったという自覚がまだ希薄だった。
有馬貴将という人は実に淡々としていて、何をするにも言うにも天然なのだ。だから告白も突然で、
「、俺と付き合ってくれないかな」
「私じゃ有馬さんの稽古に追い付けないです」
「そうじゃなくて、男と女としての関係を要求しているんだ」
危うく口に含んだコーヒーを吹き出しかけ、は酷く蒸せた。「大丈夫?」と背中を擦ってくれる有馬に「あなたこそ大丈夫ですか」と返したくなった。なんて生々しい告白だ。これも彼の天然さのなせる技なのだろう。
しかしも、有馬を一人の男性として好いていた。蒸せながらも彼に「どうぞよろしくお願い致します」と深々とお辞儀をして返したのである。
以降、二人は正真正銘、恋仲になった。
折角だしこれからは一緒に出勤しよう、と有馬は提案した。以前から二人は同棲していたが――同棲を提案したのも有馬であり、は上司命令ということで従ったが、有馬曰く“あの時から気になっていた”そうだ――は、わざと彼とは出勤時間をずらすようにしていた。局内で一番の有名人と出勤する勇気が無かったからだ。しかし今や恋人同士になったのだし、遠慮することはないと有馬に諭され、そうすることにした。彼の隣を歩くと、いつもなら気にも止めないような些細なことすら気になってしまう。視線、ヒソヒソ声、自身の容姿……。考え出したらキリがない。
有馬は、が恋人であることを隠さなかった。訊かれると淡々と関係を明かす。その度には、顔から湯気が出るのでは、と思うぐらい恥ずかしくなる。ただ不思議とが同性から質問攻めを食らうことはなかった。有馬との関係を進展させた際にあらゆる覚悟と心構えはしていたのだが、全くの杞憂となった。
あの有馬貴将の恋人に下手なことは出来ない、などと思われているのだろうか。
「さん、ちょっと良いですか!」
「はい?」
呼ばれたが振り返れば、見慣れた青年の笑みが目に入る。佐々木琲世。有馬を“お父さん”、真戸暁を“お母さん”と慕う、クインクス班の指導者だ。も自然と彼との交流が多くなり、今やすっかり仲良しである。
琲世のきらきらと輝く瞳から、なんとなくは用件を察した。
「……もしかして、有馬さんのことが聞きたいの?」
「ば、バレちゃいましたか? いやあ、ハイルとも“有馬さんの恋人への態度ってどんなだろう”って話したんですけれど、想像がつかなくて……」
「だよね……。私も告白されるまで、思いもよらなかったから」
「有馬さんから告白したんですね! やっぱり! そこだけは判ってました」
まるでなぞなぞに正解した子供のような琲世の無邪気さに、自然との顔も綻ぶ。
琲世は次々とに有馬の様子を問うてきた。もまたそれに次々と答える。琲世への信頼感が、を饒舌にさせていた。周りの目を気にすることなく、心和らぐ時間。何だかそれが久しく感じられる。
……そうして10分ほど話した頃だった。
「」
有馬が、たちへ歩み寄ってきた。いつの間に来たのか判らず、たちが彼に気付いたのは、が呼ばれた時だ。
「常時ステルス行動ですか有馬さん……」
驚いた琲世がおどけてみせるも、有馬は表情を変えない。じっとを見つめ、なにか考えているようだった。
流石のもその視線に耐えかね、助けを求めるように琲世を見た。しかし琲世は苦笑と共に肩を竦め、お手上げの意思表示をしてみせる。
仕方なく彼女は諦め、有馬に向き直った。
「えっと、有馬さ――」
言いかけた瞬間、の体はふわりと宙に浮いた。……正しくは抱き上げられていた。有馬の手によって。
の頭の天辺から爪先まで、言い様のない衝撃が駆け抜けていく。
二人の様子を見守っていた琲世は、何故か両手を叩いて歓喜していた。
「有馬さん、プリンセスホールドだなんて大胆ですね!」
「は、ハイセくん、それはそうだけど、何で拍手……!?」
「何だかさんといる有馬さんの雰囲気、ちょっと違いますもんねー。ふむふむ……有馬さんはやっぱり有馬さんだー……」
「い、いや、感心してないで、その……っわ!?」
どうにか有馬さんを止めて、と言いたかったの声は途切れる。有馬がそのまま歩き出したのだ。反射的には落ちまいと彼の首へ両腕を回し、しがみつく。
まるで重さを感じていないかのような軽やかで淀みない足取りの有馬と横抱きにされたを、すれ違う人々が必ず二度見する。恥ずかしさのあまり、は有馬へと顔を押し付けるようにして、周囲の視線から必死に逃れた。
ようやっと彼がを下ろしてくれたのは、小さな会議室。ふらついたが壁に手をついたとき、カチャリと固い音がした。その方向を見れば、何故か有馬が扉を施錠しているのが目に入った。
「有馬さん……? なんで鍵閉めたんですか……?」
「見られたら困るだろう」
「……それは、その……」
自分を見据える彼の瞳に、なにか鋭いものを感じたのは気のせいだろうか。
一歩、また一歩と此方に近づいてくる有馬を見つめながら、は訊ねた。
「……見られたら困るようなことをするんですか……?」
有馬の答えは無かった。代わりにの顔の真横に有馬の手が伸びてきて、壁を強く叩く。それは、を逃さないための行為。
が再び口を開こうとすると、有馬は空いた片手での顎を掴み、強く引いた。
無遠慮に押し付けられた唇が重ねられる。半開きのの唇を有馬の舌が強く、ゆっくりと開いていった。
自分の舌に彼のそれが触れたということは判った。それ以上は判らない。理解しようにも熱に逆上せた頭では叶わず、絶えず甘い痺れが彼によって伝えられ、は立っているので精一杯だった。
――なにが起きてるの? 一体何なの? どういうことなの!?
経験どころか恋愛沙汰自体が疎いにとって、有馬の行為は刺激が強すぎた。
どう呼吸したら良いのかも判らず、苦しさで涙が滲んだ。
酸素を求めて喘ぎ、は必死に力を込めて有馬の胸を押した。これ以上続けられたら、死んでしまう。は真剣にそう思った。
そして、そんなの懇願に有馬は気づいた。ゆっくりと顎を押さえていた手を、重ねていた唇を離し、を見下ろす。
「……苦しかった?」
荒い呼吸を繰り返しながら、は頷いた。彼女の目尻に溜まった涙が、ぽろぽろと落ちていく。
壁についていた手も離し、有馬は両手での頬を包み込んだ。それから優しく額を合わせ、
「悪かった。……加減というのが判らなくて」
低く小さな声で、そう溢した。
――この人は、本当に天然だ。は、その意味を身をもって実感した。だが彼に謝らせてしまったことが申し訳なくて、は途切れ途切れに返す。
「……だい、じょぶ、です……」
「そうか、なら」
有馬の顔の角度が、近づき方が変わる。
「今度はもっとゆっくりにしてみるよ」
妖しく光る彼の眼差しに、は震えた。怖いのではない。では一体、どうして……。考えてから自身の震えの意味を理解した彼女は、一人でまた顔を赤くした。
それを見て、有馬は口許を吊り上げる。
「も、嫌じゃないみたいだからね」
抵抗も、反論も、何も通用しない。これから彼が何をするとしても、ただ身を委ねるしかない。
は覚悟し――その奥底に悦びが在るのを知らぬふりをして――、瞳を閉じた。
宣言通りに有馬は“ゆっくり”と口付けをやり直した。の膝が震え出すと、そっと彼女の腰に手を回し、支えた。じっくりと行為を続けながら。
今までに感じたことのない感覚たちを、は声を押し殺して耐える。
しかし、
「綺麗な首筋だ」
呟く有馬の唇が滑るようにそこへ移っていったとき、は、部屋の鍵が閉められた本当の意味を理解した。
――とんでもない経験をしてしまった。
乱れた衣服を整えながら、は思った。つい溜め息が漏れる。様々な疲労と、職場でしてはならないような行為に流れた罪悪感。心身共に酷く重たい。
キスだけで終わると思った有馬の行動は、の想像の遥か上を行った。最後の最後までは行かなかったが、その寸前ぐらいまでは行った。の基準としては。
それでも有馬にとっては、大したことではないのかもしれない。彼は息ひとつ乱すことなく、を見つめている。
少しばかり恨めしくなって、はじとっと有馬を見つめた。
有馬が不思議そうな顔で口を開く。
「……怒ってる?」
「……ビックリしてます」
「どうして?」
は一気に脱力した。まさか“どうして”だなんて返ってくるとは思いやしなかった。どうしても何も……とが肩を落としていると、有馬は続ける。
「恋人同士なら、普通のことだと思うけれど……。足りないくらいじゃないか?」
「た、足りる足りないじゃなくて、職場でここまで……!」
「キスだけで我慢したのに」
「く、口だけじゃなかったじゃないですか!」
「何処にしてもキスはキスじゃないか? 首でも内腿でも……」
「わー! わー! もう良いですっ!!」
思わず叫んで遮るへ、「思ったより元気だね」とまた見当外れなことを呟く有馬。
改めては思った。
――とんでもない経験をし、とんでもない人と恋仲になった、と。
ようやく服を整え終わり、足腰にも力が戻ったところで、は改めて恋人を見た。
「だいたい、どうしていきなりこんな……。有馬さんっぽくないっていうか、何だか……変な感じが……」
の言葉に、有馬は目を丸めた。
「……どうしてだろう」
「聞いたのは私っ!」
「そうだったね。……すまない」
敬語すらままならなくなってきたに、本当に申し訳なさそうに有馬は目を伏せた。顎に手を添え、彼は真剣に自身の行動の理由を考え始める。その姿すら一流の芸術家の作り上げた彫像のような美しさと神秘性を伴っていて、はつい怒りも忘れ、見惚れてしまう。
有馬は、少しずつ、思い付くまま言葉を溢していった。
「君の顔を見ようと思って探していて……見つけたら、君はハイセといて……すごく穏やかで、楽しげに話していて……」
眼鏡の向こうで、長い睫毛に縁取られた瞳が細められて、緩く影を落とす。
「何というか……すごく、二人の並びがしっくりきて、それで……胸が嫌にざわついた」
本当にどうしてかな、と有馬は再び考え込んだ。
そしてそんな有馬には……予想だにしなかった現状に、呆気に取られていた。
もし有馬の言葉から理由を推測するとなると、それは恐らく――やきもち、というものではないだろうか。
と琲世の親密さは、男女というよりは兄弟姉妹のようなものだ。今日も、琲世とはいつもの調子、いつも通りに話していた。何一つ変わりない。それを今まで、有馬も幾度となく目撃しているはずだ。
(……そういえば)
ははたとした。
思い返してみると、有馬と恋仲になってから琲世との会話を目撃されたのは、今回が初めてかもしれない。
(でも、有馬さんがやきもちとか……あるのかな)
悶々と思考するに、有馬が「そうだ」と顔を上げた。
「多分俺は、と親密そうなハイセに妬いていたんだろう」
……本人が言うのであれば、間違いない。
この瞬間、は新たな発見をした。有馬貴将という人は、天然で無敗の喰種捜査官だけれど、人並みに妬いたりすることがある。
物凄く失礼なことかもしれないが、はその発見が嬉しかった。
の中で有馬は“天然の完璧超人”というイメージがあった。故に、彼からの告白が、自分の身では不相応すぎやしないかと戸惑いもした。だが、有馬もと同じ人間なのだと、この“やきもち”で知ることが出来た。
急に彼との距離がぐっと縮まった気がする。彼が凄い人物であることは変わりないが、こうしての前では、ただの有馬貴将という一人の男性で在ってくれるのだ。
また自分も、彼の前ではただのという女性として在れる。
……互いを想い合う、深い情に満ちた仲として。
妬いた相手が琲世というのも何だか可愛らしくて、は笑いを堪えきれなかった。急に笑い出したを見て、有馬は首を傾げている。
「何か可笑しかったかな……」
「ううん……。とっても素敵で、有り難かったですよ。まさか妬いてくれるなんて」
「は妬かないのか?」
「妬きます、けど……どちらかというと、不安になって……多分、」
の笑みが苦笑いに変わった。
「やっぱり私じゃダメなのかなって……そう、諦めてしまうと思います」
情けないですけど、とは頬を掻いた。
そしてそんなを見て、有馬は反射的に腕を伸ばしていた。目の前にいる筈なのに、がとても遠くにいるように見えたのだ。しかしそんなことはなく、の体はすっぽりと彼の腕の中に収まってくれる。
有馬は安堵したが、対するは酷く動揺していた。
「あ、有馬さん!?」
「安心していいよ」
彼女の背を撫でながら、有馬は囁く。
「俺は君以外考えられないから」
は彼に身を任せながら、涙が滲むほどの喜びを噛み締めた。はい、と小さな声で恋人が答えるのを確認してから、有馬はを解放する。朱の差した彼女の頬は緩みきっていた。
から伝染した微笑みを湛えながら、有馬は踵を返す。
「そろそろ戻ろうか。郡に怒られそうだ」
「私も、色々怒られそうです……」
お叱り覚悟で二人は職場へと戻ったが、何故かそんなことは無かった。不思議なほどの静けさだ。
確実に宇井からは一言あるだろうとは気を引き締めていたのだが、彼はを見るなり慌てて目を逸らしてしまった。
他の面々もと有馬に声を掛けようとしない。無視というわけではなく、話しかければ答えてくれるのだが、何か気まずそうに視線をずらしてしまう。
――皆、どうしちゃったんだろう?
その理由が、自身の首筋に残された生々しい痕であることに彼女が気付くまでは、もう少し掛かる。
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