目を開けてすぐは、自分がいる場所がフィエルティア号の船内であると気付いた。すっかり見慣れた木造の優しい色合いの船室に、使い込まれて少し潰れたベッドのマットレスの感覚。
 反射的に体を起こした途端、身体中に鋭い痛みが走って、思わず呻きが漏れた。

「いきなり動いたら駄目ですよ、!」

 そんなに悲鳴に似た非難の声が飛んできた。すぐそばの椅子にエステルが座っている。
 エステルはすぐさま苦しむの手を握り、治癒術を施す。暖かな光が体を癒し、幾分痛みが和らいだところで、は彼女に訊ねた。

「ありがとう。……それでその、エステル、私はどうして……?」
「覚えてないんです? 巨大獣と遭遇して、はもろに攻撃を受けてしまって……。死んじゃうかと思いました」
「ああ……。そういえば」

 ぼんやり他人事のように呟くを「起きてくれて良かったです」と涙ぐみながらエステルは見つめていた。泣きたくなるほど、その時の自分は酷い状態だったのだろう。エステルの手から小さな震えが伝わってきて、は申し訳なくなった。

「ごめんね。怖い思いをさせて、本当にごめん」
「無事に目を覚ましてくれたから良いんです。……ユーリを呼んできますね。が起きたら、一番に呼ぶ約束でしたから」

 そっとエステルの手が離れ、彼女は甲板への階段を上っていく。
 ……程なくして扉が開き、階段を下りてくるユーリの姿が見えた。ラピードや呼びに行ったエステル、他の仲間たちはいない。彼ひとりだ。
 ユーリの表情に苦々しいものが滲んでいて、不機嫌であることが一目見て知れる。

「ユーリ……ごめん」

 の第一声に、ユーリは更に顔を顰めた。

「自分が何してどうして謝んなきゃなんねえのか、本当に判って謝ってんのか?」
「……うん、思い出したよ」

 ベッドの縁に腰を下ろしたユーリから視線を外し、俯きながらは記憶を辿った。一体自分が何をしでかし、彼にこんな顔をさせるまでに至ったのか。すっかり怯んだ声ではあったが、は話し始めた。

「巨大獣が突っ込んできた時……私、そこに飛び出した。突っ込み返した。幾らか突進の衝撃は消せたけど押し負けて、角が思い切り入って……ガンッと、吹き飛んだ」
「ああ。それでおまえ、死ぬとこだったんだぞ」
「うん。……エステルがいなきゃ、やばかったよね」
「……

 反射的には顔を上げてしまった。怒りと悲しみがない交ぜになった、酷く苦しげなユーリの表情が目に映る。
 ――よりにもよって、一番そんな顔をさせたくない人を、私は。
 の心は罪悪感で軋んだ。

「おまえ、オレらを庇いに行ったんだろ。確かにオレらは麻痺ってて、反応が遅れた。だからおまえは自分のことを盾にして、囮にした」
「ううん、あれは――」
「おまえがそういう奴だってのは、こっちは嫌ってほど判ってんだ」

 ユーリは責めていた。自ら命の危険に飛び込んだと、にそうさせてしまった己を。が割って入ろうとしても、その声に耳を傾けようとしない。
 彼は笑った。しかし眼差しだけは、辛そうに揺らいでいた。
 は毛布の上で両手を握り締めた。
 ――ユーリだって、おんなじ状況になったら私と同じことをするだろうに。お互い様なんだからって、気に病まないで欲しいのに。
 その言葉たちはの喉につっかえてるだけで、出てこない。

「一生守りたい、って思った相手の血が自分の顔に飛んできた。もう頭ん中が真っ白んなったぜ。オレも結構な無茶して巨大獣倒して、エステルに思い切り叱られた」

 絶えず緩やかに揺れ動く船室で、ユーリが動いた。の顔を覗き込むように顔を寄せて、まだ傷の残る彼女の頬を撫でる。僅かにが肩を震わせたが、痛いわけではないようだ。くすぐったそうなの眼差しに、ユーリはひっそりと安堵する。

「傷、残らなそうで良かった」
「残っても気にしないけど」
「気にしろよ、カワイイ女の子だろ」

 優しく頬に触れていた手が、今度は少し粗っぽい手つきで頭を撫でてくる。は大人しく、ユーリのしたいように任せていた。彼の手のひらの感触が心地よくて、何とも言えない幸福感が生まれる。

「……とにかく無事で良かった。庇ってくれて、ありがとよ」

 ようやくユーリの笑顔に、いつもの調子が戻ってきた。わしわしとの頭を――が“ユーリは私を犬か猫あたりと勘違いしてるんじゃないか”と不安になるほど――撫でながら、彼は続ける。

「けど、もう二度とゴメンだぜ。あんなの何べんもやられちゃ、こっちの心臓が幾つあっても足りねえ」
「ユーリこそ無理しないでよね。大体、いつも無理し出すのはユーリじゃない」

 も、つられて笑い返す。

「だから、そのセリフ、そのまま返させてもらうね」
「わかってる」

 頷いたユーリの手が離れていくのが名残惜しくて、は咄嗟にその手を掴んだ。少し驚いたように目を丸める彼を見て、は、誤魔化すように治癒術を使った。エステルに比べたらずっと劣る力だが、それでも少しは身体の傷を癒せる。先の巨大獣との戦闘で、ユーリも、ほどでは無いにしろ怪我を負ったはず。

「ユーリ、あの……本当に無理しないでね」
「……わざわざありがとよ」

 ぎこちないの言動に、普段はクールな彼が破顔した。屈託ないその笑みに、はますます胸が高鳴るのを抑えることができなかった。
 ユーリはに手を掴まれたまま、距離を詰めてくる。鼻先が触れそうな距離まで顔を近付け、

「でも、今は自分の体優先しろな」

 自分の額をの額に押し当てた。
 指先を緩く絡めるように、ユーリの手がしっかりの手を繋ぎ止める。
 互いの呼吸どころか鼓動まで伝わりそうな至近距離。
 の頬に朱が差したのを見て、ユーリは小さな笑い声を上げた。

「熱でも出てきたか? 大丈夫かよ」
「……判ってて言ってるでしょ」
「そりゃ勿論。怪我のせいで出た熱はすっかり引いたみてえだな」
「そんなに酷かったんだ、私」
「ああ。カロルとジュディが、おまえの破けた服を直し終わるぐらい長いこと寝込んでた」

 覚えてないだろうけど町医者にも診てもらってきたんだぜ、とユーリは話した。それからエステルを中心に仲間たちが交代しながらを看病していたのだという。
 はホッと胸を撫で下ろした。

「カロルも無事なんだ、良かった」
「本当に自分のことは後回しだな、おい……。ま、後であいつらにも顔見してやれよ」
「うん、皆に迷惑かけたし謝らなきゃ。でも、とりあえずは……」

 が少しだけ、強くユーリの手を握る。

「ユーリと、一緒に。ね」
「ああ。オレもそうしたいとこだった」

 何時もより甘い互いの囁きを合図に、二人は唇を重ねた。
 触れてすぐに離れた、子供のようなキス。
 こうやって二人きりの時間を過ごしたのは、随分と久しく感じる。寝込んでいたがそう思うのだ、ユーリは尚更だろう。
 普段は皆を先導するリーダーとして飄々と役目をこなすユーリが、は時に心配になった。たまには彼にも息抜きしてほしい。そのついでと言ってはなんだが、恋人同士ならではの時間も重ねていきたい。
 この旅を理由にせずとも、彼とずっと一緒にいられるような絆を育む、そんな時間を。

「……みんなの旅って、いつ終わっちゃうのかな」

 ユーリの胸に体を預けながら、が呟いた。
 彼女の背へと腕を回し、ユーリは笑う。

「そりゃ、全部片付いたらだろ」
「そうしたら、皆それぞれ街に戻るよね。散り散りになっちゃうんだよね」
「旅の後のことなんてそんとき考えりゃいいだろ……って言っても、おまえの性格じゃ無理か」

 ユーリはぽんぽんとの背を叩いていた。

のしたいことをすればいい」

 は更に悩む羽目になった。ユーリの鼓動を聴くようにぴったり寄り添っている。俯くの表情は、見るまでもなく沈んでいるであろうことを、ユーリは察した。

「やりたいことも、今のところ無いよ……。それに私には……帰る場所も、何も、ない」

 そんな寂しいことを言われては、たまらなかった。思わずユーリは、彼女の発言から間を置かずに口を開いた。

「なら今度は、やりたいことを見つける旅ってのはどうだ? いろんなもん見て触れて、いろんな奴らと会ってくうちに、何か見つかるだろ」
「そんな楽観的な……」
「おまえが暗いだけだっての」

 ユーリとて、無責任にそんな提案をした訳ではない。彼なりの考えと決意が秘めてある。
 彼はを抱き締め直した。

「帰る場所が無いってんなら、オレが作ってやる」
「えっ?」

 流石に、全く緊張せずに告げることは出来そうになかった。そう悟ったユーリは、もう、勢い任せに言葉を発した。

「全部のケリがついたら、オレと結婚してくれ。そうしたら、オレのいるところが、の帰る場所になる。やりたいこと探しの旅にも付き合うからよ」

 だったら安心だろ? そう笑うユーリを、は潤んだ瞳で見上げた。「ほんとう?」震える声に、青年は深く頷く。

「元から全部片したら世界を見て回ろうと思ってたからな。長い時間が掛かるだろうし、ラピードもラピードでやることがある。……枯れない花にご一緒してもらえるとオレとしても有難い」
「なに、それ。レイヴンさんにでも吹き込まれたの?」
「オレなりの精一杯の口説き文句だよ。しかも生涯に一度のだぞ」
「ふふっ、ごめん」

 少し拗ねたようなユーリのぼやき。は笑い声を押さえきれなかった。
 すっかり晴れた表情のに、ユーリは再び問い掛ける。

「で。返事は?」

 そんなの、勿論決まっている。
 は満面の笑みを咲かせた。

「……あなたを私の、私をあなたの“帰る場所”にしてください」
「決まりだな」
「うん、お願いします!」

 病み上がりの体を無理矢理動かして飛び付いてきたを、ユーリはしっかりと抱き留めた。
 ――これからもずっと、こうして支えてやろう。
 一人の男として、唯一無二の愛しい女のために、彼はそう誓った。
 彼女もまた、同じように誓っていた。彼の支えとなりたい。彼がそうしてくれるように、自分も彼のためになりたかった。

「……となると、旅が終わって最初にするべきことは決まったな」
「え……? 何をするの?」

 首を傾げるに、ユーリは告げる。

「あいつら巻き込んで、オレたちの結婚式だよ」

 きょとんとして丸まったの瞳は、瞬く間に感動の涙で揺らいでいったのだった。

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