白く、鋭く、美しい人だった。
 私の目の前にだけ、一足先に冬が来たのかと思った。それぐらい、とにかくその人は“白”という印象が強かった。

「金木さん」

 薄い唇が開かれて、その見た目に相応しい涼しく心地よい低さの声が、私に降り注ぐ。
 男性は何故か私を知っていた。

「私に、何か御用でしょうか……」

 おそるおそる私は尋ねた。
 眼鏡の向こうで彼の瞳が細められて、それすらまるで崇高な儀式か何かの1つのように感じられた。間違いなく端正な顔立ちで、佇まいで。その何処かに氷のように冷ややかで鋭いものを秘めている。
 私の体は強張った。

「一緒に来てもらえるかな」

 問うのではなく、当然そうすべきだというような響きに、頷くしかなかった。
 男性は、コートを翻して歩き始める。私を視界から外して。
 このまま逃げてしまえば判らないかも知れない。上手くいけるかも。でも、そんなことをしたら逆に後ろめたくなってしまう。そもそも、ただ者では無さそうなこの人は、何をどうして私を知り、声をかけたのか。顔も名も知られているならば、住んでいる場所も、もしかしたら――。
 思考を巡らせるうちに凍り付いた喉は掠れた呼吸を繰り返すのみ。
 まるで彼の従者のように、少し俯きながら、その背を追った。
 きっと何か誤解か、勘違いをされているのだ。話せば判ってもらえるはず。そう自身を奮い立たせたものの、

「行方不明になった君の弟について、聞きたい」

 ……呆気なく、出鼻を挫かれた。
 何故、私の弟のことを? なん十回も警察の人とは話したけれど、こんな人はいなかった。研の知り合いにしては歳が離れていそうだし、他人行儀だ。
 迷わず歩き続ける男性の背を追ううち、私は、いなくなった研へ思いを馳せていった。
 あの子が事故に遭ったと聞いたときは、胸が張り裂けるかと思った。研と共に事故に巻き込まれた少女からの臓器移植で一命を取り止めてからも、心の休まる時は無かった。少女のご家族へも、批判を受ける病院にも、私はどうしたら良いのか判らなかった。ただただ研が生きていることに涙して、それだけ。どうしようもなく愚かで無力な姉だ。
 事故以来、研は変わってしまった。手術の影響でろくに食事を摂ることも出来なくなって、私を遠ざけるようになった。頼って欲しかったのに、研は私を拒絶した。悲しくて哀しくて死にたくなった。でも出来なかった。私以上に、研がそうだったから。あの子は生きることを迷っていた。悩んでいた。それでも研が投げ出さずに在るうちは、私もそうすべきだと、漠然と感じていた。
 区内の喫茶店でバイトを始めるようになってから、少しずつ研は前向きになっていった。嬉しかった。私もあの子の働く姿を見に、よく喫茶店に通ったものだ。しかし……。
 研は、突然いなくなってしまった。
 大学の友人、バイト先の喫茶店、警察――……、思い付く限りの全ての場所に駆け込んだ。尋ね回った。あの苦手な親戚の家にも。あの子が好きだった本屋や、作家のサイン会。何でもとにかく行ってみた。研を探して。
 でも、研は何処にもいなかった――!

「危ない」

 右腕を引っ張られて、私はよろめいた。強い力で掴まれたあまりに軋んだ腕の痛みより、真横を何かが過ぎていった風のほうに驚いてしまう。

「ぼんやりするだけならともかく、そのまま車道に行ったら“轢いてください”と言ってるようなものだよ」

 私の腕を引いたのは、さっきまで先導してくれていたはずの男性だった。何時の間に隣に移ったんだろう?

「す、すみません。ええと……」
「有馬。有馬貴将」

 問うより先に答えが返ってきた。

「あ、ありがとうございます。有馬さん」

 狼狽える私に、有馬さんは何も言わない。また黙々と歩き出した。私の腕を掴んだまま。どうしてだろう、そんなに危なっかしく見えたのかな。多分私より有馬さんの方が年上だろうけれど、色んなことが唐突で呆然としてしまう。
 短い髪は全て色が抜けたみたいに真っ白だ。それが綺麗で、雪のようで、この人を“冬”だなんて思ったんだ。
 私ったら、なんて短絡的な思考だろう。

「ひとつ、言っておくことがある」
「はい……」

 有馬さんは立ち止まり、此方を振り返った。その背後に聳え立つ〔CCG〕の建物を見て、私は嫌な予感がした。

「君には、しばらく此処にいてもらう」


◆◆◆



 捜査の重要参考人である金木の身柄の確保から一週間が過ぎた。最初こそ動揺していたが、7日も経つと彼女はすっかり大人しくなった。ただ、あまり口を利いてくれない。まるで寒さに凍え、震えているかのように、色の悪い顔でじっと椅子に座っていた。

「いくら聞かれても、私には何もわかりません」
「君の弟のことなのに?」
「わかっていたら、とっくに弟を連れ戻しています」

 答えも同じだった。この部屋の時間だけエラーが起き、同じ1日が繰り返されているようだった。
 俺と向かい合うの中に怒りはない。恐怖も抜けている。諦め切っている。……ただ、悲しんでいるだけ。
 連れてきた自分が言うのもなんだが、は可哀想だった。
 食事もあまり摂ってくれない。元からあまり食べる方には見えないが、このままでは良くない。困った。
 そう思った10日目に、俺は質問を止めた。という女性を観察してみることにした。

「君が話したいことを話して」
「え……」
「昔話でも何でもいい。俺の今までの質問も忘れて。君のことを教えてくれないか」

 戸惑いなからも、は頷き、ぽつりぽつりと語り始める。

「父を早くに亡くして、母も過労で倒れて亡くなり、研と私は――……」

 弟に似て薄幸そうな顔だ。いや、弟が彼女に似ているのか。
 ただは、弟に対し、執着にも似た偏った愛情を抱いていた。俺が聞いたのはという人間についてのつもりだったが、彼女の話の中心はいつも弟だった。弟が演劇で大役を務めたことや、父に似て弟は読書家だとか、気が弱いけど優しい弟だとか……とにかく彼女の話には“弟”が欠かせない。
 大切な弟が行方知れずであることは、彼女にとって非常に大きなストレスになっているようだ。遂には俺を見ながら、

「何だか有馬さん、研に少し似てらっしゃる気がします」

 などと笑ってみせた。その心の擦りきれようが知れる。笑顔を見せてくれたことは良いが、が俺に心を開いたわけではない。虚ろな目だ。
 捜査のための重要参考人だけであったはずの
 固く閉ざされ、凍りついた彼女の心の扉。
 ――抉じ開けてみたくなってくる。
 情というには無遠慮で容赦が無い。だが俺が、何らかの感情をに抱きつつあることは違いなかった。
 席を立ち、の方へと歩み寄る。郡に頼み、コンビニで適当に買ってきてもらった食べ物の入ったビニール袋を片手に提げながら、距離を詰めていく。
 テーブルを中心に、俺たちの間には境界があった。手を伸ばせば届くようなその空間を、彼女は自分のテリトリーのように思い込んでいる節がある。テーブルより向こうに俺が来ることはないと、勘違いしているのだ。
 元からここは、君の縄張りなんかじゃない。明らかに怯えるの顔を見ていたら、何故か顔が綻んだ。不思議なことだ。そしてますます彼女は青褪めていく。

「な、何ですか」
「食べて」

 ビニール袋をの前に置いた。どしゃっと思ったより派手な音がした。パン、潰れたかもしれない。
 は微動だにしなかった。ビニール袋に印刷されたコンビニのロゴをじっと見つめて、膝の上で両手を握り締めている。

「食べないと、体がもたない」
「……食欲、ありません」
「無理にでも食べて」

 仕方ない。俺は適当にサンドイッチを引っ張り出して袋を裂いた。一口分ぐらいにサンドイッチを千切って、それをの口に押し付ける。

「口開けて」

 肩を強張らせて、は固く口を閉ざしたまま首を振る。どうしてこんなに執拗に食事を拒むのだろう。どうしようもないから、左手で彼女の顎を掴んで引き戻す。思ったよりも抵抗が強いから、自然と力が入ってしまった。痛そうには顔を歪めた。

「食べないと終わらないよ。俺も帰らない。口を開けて」

 それでもは嫌がったので、左手の力を強くした。耐えかねたが口を開いたところに、右手でサンドイッチを押し込んだ。そして口を閉じさせる。

「噛んで、ちゃんと飲み込むんだ。此処に来てからロクに食べていないだろう? 死んだら大切な弟にも会えなくなる。それで良いのか?」

 出来る限り優しい物言いになるように気を付けて諭してみた。は完全に怯えきっていて、泣きながら頷いて、パンを飲み込んだ。ようやく俺の前で食事をしてくれた。ささやかな進歩に、また笑みが零れる。

「一人で食べられるね?」

 俺がゆっくり左手を離すと、は何度も頷いて応じた。その度に彼女の瞳からは、綺麗な雫がぽたぽたと落ちていった。
 一言も発することなくはサンドイッチを平らげ、ペットボトルの水を飲み干した。

「……ごちそうさまでした」

 ようやく俺を見たの顔は、食事を摂ったというのに相変わらず暗い。寧ろ死人のような生気の無さに拍車が掛かっていた。
 今度は、もっとしっかりしたものを食べさせよう。


◆◆◆



 骨が砕けるんじゃないかと思うぐらい顎を鷲掴んできて、食べたくもないものを口に押し込んで、更に「食べないと帰らない」なんて。最悪の脅し文句だ。
 泣きながら味も判らないまま、出されたものを必死に水で流し込んだ。あれはもう、食事なんかじゃなかった。拷問に近かった。お腹の中でぐるぐる蠢く食べ物が気持ち悪くて、結局あの後にほとんど吐いてしまったぐらいにはショッキングだった。
“喰種”は人の食事が摂取できないと聞く。味覚自体が人のそれとは違うのだと。あの“食事”の時の私の気分は、“喰種”が人以外を食べたときみたいなものなのだろうか……。
 有馬さんは怖い。けれど、それだけではない、のだと思う。
 一応あの人なりに私を心配してくれているんだとは、感じている。

「郡に叱られたから、今日はもっと気を遣ったものにしたつもりだよ」

 そう呟きながら有馬さんがテーブルに置いたのは、小さな土鍋。中身はまだ温かい玉子粥だった。
 コオリと言うのは有馬さんと共に仕事をしている方らしい。有馬さんが私にしたこと・起きたことをありのままそのコオリさんに伝え、それを聞いてコオリさんが怒ったのだとしたら、その方はきっと常識的な人なんだろう……。顔も知らないコオリさんに、私は感謝した。

「重要参考人とはいえ女性、乱暴な真似はしない。ろくに食事を摂っていない人間がいきなりご飯を食べると胃によくないから、まずは緩い粥などからにすべき。……郡がそう言っていたから、そうしてみた」

 でも、元はと言えば食事をろくにしなかった私が原因だ。そんな私を有馬さんは、捜査のためとはいえ気遣ってくれた。だから、多少無理をしてでも私に食事を勧めた。
“死んだら大切な弟にも会えなくなる。それで良いのか?”
 先日の有馬さんの言葉が私の中で木霊する。その通りだった。なのに私が変な意地を張ったから。余計な手間を掛けさせてしまったから。これは捜査妨害になってしまうのだろうか。元から、捜査の助けになるような情報も私には無いのだけれど……。

。冷めないうちに食べて」
「す、すみません」

 よほどコオリさんの言葉が効いているのか、有馬さんは優しかった。それがなんだか、申し訳なくなってしまう。
 粥を少しずつ食べながら……行儀が悪いけれど、私は話し始めた。

「その。お手数をおかけして、ごめんなさい。ご飯食べなかったり、色々と……すみませんでした」
「結果的に食べてくれるようになったから構わない。それよりしっかり食べて、やつれた顔を戻すんだ。……君の弟が見つかった時、心配をかけないように」
「あ、はい……。ありがとうございます」

 有馬さんは、私の向かいに座って、静かに笑っていた。
 ――そういえば私は、一体いつまで此処にいることになるのだろう?
 聞こうと思って有馬さんを見つめたけれど、あまりに優しい笑みと整った彼の顔立ちに、急に気恥ずかしくなってしまった。ばっと俯いて、黙々と粥を口に運ぶ。

「顔が赤いようだけれど、具合悪い?」
「お、お粥があったかいので、体があたたまってきたみたいです……」
「だったら安心だ――」

 笑ったまま頷く有馬さんが何か続けて言ったような気がしたけれど、よく聞こえなかった。きっとそんなに大したことではないと思う。だって、すごく優しい笑みがずっと此方に向けられていることを、僅かに顔を上げたときに気づいたから。
 きっと大丈夫、だよね――。



 俺は、笑っていた。
 彼女の警戒心が崩れて行くのが、よく判った。
 大人しく俺の運んできた食事を摂るの姿は、鳥の雛のように不安定で脆く、愛らしい。

(だったら安心だ――)

 その方が弟との再会を望むにとってもいい。
 彼女の処遇をどうしようと、俺が「捜査に必要だ」と言っておけば誰も反論しようとはしない。

(君にはずっと、俺といてもらうことになるから)

 俺は、笑い続けていた。

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