東京にしては控えめでこじんまりとしている、古びた文具店。瓜江は時折、この店へ画材を買いに寄っていた。だが目的は、それだけではない。
 彼の最大の目的は、自分と同じように此処へ通う常連客に会うことだった。画材を購入するだけならば、数も種類も上を行く店が他に沢山ある。しかし“その人”に会うには、此処しかないのだ。

(やや時間がずれたな。一目でも会えると良いが……)

 少し押すだけで軋む店の戸を開くなり、瓜江は瞬きした。

「……こんにちは(やはり遅かったか)」
「あっ……」

 目当ての常連客、が目の前にいたからであった。はふわりと微笑み、瓜江に小さく会釈する。袋を抱えているところを見ると、丁度彼女は買い物を終えて帰るところのようだった。

「もう帰るのか?(の髪型がいつもと違う……)」
「うん、ちょうど。……あ、道ふさいでてごめんね!」

 はハッとしたように壁に身を寄せて、瓜江を店の奥へ通そうとする。このまま瓜江がそこを通れば、彼女はすぐ帰ってしまうだろう。
 ――折角に会いに来たのに。
 既に帰ろうとが動き出すのを見て、瓜江はとっさに右腕を伸ばした。の進行を遮るように壁へ手をつく。
 目前にある瓜江の腕から顔へと、ゆっくり辿るようには視線を移していった。

「ドンッてしたけど、痛くない?」
「全く」
「なら、良かった」

 戸惑うどころか此方を心配してくれたに、瓜江は小さく笑う。

「この後、少し付き合ってくれないか(もっと一緒にいたい)」
「……うん、大丈夫だよ」

 しばし視線を通わせたのち、は笑い返しながら頷いて答えた。
 瓜江はを好いている。
 初めてこの店に入り、棚の一番上にあった商品を必死に背伸びして取ろうとしている彼女を見かけたのが全ての始まりだった。瓜江がその商品を代わりにとってやると、は深々と頭を下げ、勢いでトートバッグから荷物が飛び出した。とんだうっかり者である。

(何て鈍臭い女だ)

 内心舌打ちしつつ荷物を拾うのを手伝っていた時、落下の衝撃でページが捲れたスケッチブックがたまたま目に入った。
 そこには、柔らかな水彩で東京の街並みが描かれていた。繊細で、優しく、何か暖かな思いを抱かせる絵――。
 慌てて彼女がスケッチブックを回収するまで、瓜江の目は絵に釘付けになっていた。
 真っ赤な顔でスケッチブックを抱き締めるの顔は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。

「……絵、描くんですね」
「は、はい。お兄さんもですか?」
「まあ、そうです」

 そこから瓜江は彼女に関心を持ち、交流を試み、次第に好意を募らせていった。
 とは、あのスケッチブックに描かれた水彩画の印象通りの人間であった。基本的に無愛想な瓜江に気を悪くすることもなく、沈黙を苦にせず、寧ろその間を楽しむような、のんびりとした性格。此方の反応を急かす真似もしない。
 だがそれだけ受動的な彼女と交流をするには、瓜江から積極的に話し掛ける必要があった。名前を訊いたのも瓜江の方からだったし、店で会うたび声を掛けるのも、やはり瓜江から。此方が呼び止めなければ、彼女は微笑みながら会釈して去ってしまう。表情にこそ出さないものの、毎回瓜江は“逃がしてなるか”という思いで彼女に話しかけ続けた。その甲斐あって互いを名前で呼び合うようになるまでは、そう掛からなかった。同い年ということも大きかっただろう。
 それらに一番驚いていたのは、他ならぬ瓜江自身。同時に彼は、への強い好意を自覚した。
 恋は落ちるもの、と誰かが言っていた。馬鹿げた話だとばかり思っていたが、どうやら本当らしい。
 貴重なオフの日や暇を見つけては、この店で彼女に会う。勿論毎回会えるわけではないが、のいる時間帯は粗方把握していた。気味悪がられるのではないかと思ったが、のおっとりした性格ではそんな事があるはずもなかった。それどころか、少し問えば自分から進んで話すのである。全て瓜江の杞憂であった。

「すごいね、喰種捜査官にかかれば私の狭い行動範囲なんてすぐ把握できちゃうよね!」
が話してくれたからな(把握されていながら何でこんなに嬉しそうなんだ)」
「捜査官だから、っていうより、久生くん自身が、人を良く観察する人なんだろうねえ」
「そういう考え方もあるか(俺のことよりの話を聞きたいんだが)」
「じゃあつまり、久生くんが優秀だから私の単純な行動パターンが見抜かれてるってことかな」

 はとにかく瓜江を褒める。そのつもりは無いのかもしれないが、結果としてそうなってしまう。自分と同い年の喰種捜査官に、大きな敬意を抱いていることが伝わってくる。
 共に文具店を後にし、喫茶店を目指す道中で、は笑みを絶やさず瓜江に語り掛けてくれた。嬉しさと恥ずかしさで体が火照りそうだったが、ぐっと瓜江は堪えた。

「久生くんって職場で女子に人気ありそうだねぇ」
「(……何処がだ?)職場の奴には(そういう意味で)興味を持ったことがない」
「そうなの? 勿体ないなぁ……。でも、私も職場の人は仕事仲間って気持ちが強くなるなあ。久生くんもそういうこと?」
「俺は……既に好きな人がいるだけだ」
「えっ!?」

 は目を剥いた。
 瓜江の方が目を剥くところだった。出会った当初からに対しての好意を秘めたアプローチを幾度となく繰り返してきたつもりだというのに、はちっとも気付いていやしなかった。
 肩を落としかける瓜江に、が迫る。

「年上? 年下?」
「一応同い年だ(お前のことだからな)」
「な、なるほど……。こうなるとますます私も好きな人早く見つけなきゃ……」
「焦ることでもないだろう、そういうことは(つまり俺は眼中に無いということか)」

 深刻そうな顔で腕を組むに、瓜江は努めて冷静に返した。「それもそうだよね、うん」あっさりは腕を解き、にっこり微笑んだ。

「とりあえず今は、久生くんの恋を応援しようかな! 何なら手伝うよ!」
「……(当人に“手伝う”と言われても)」
「ああ……そっか……。私じゃ頼りない、かも」
「……気に病むな(頼りないということに関しては否定できない)」

 ころころと万華鏡のように表情が変わるの様子に、瓜江は違和感を覚えた。
 表情が変わることは特別なことではない。ただ、普段より喜怒哀楽の入れ替わりと表現が激しい。いつも以上に発言する回数も多く、珍しく質問する側に回っている。無理に元気を絞り出しているその様は、まるで何かを覆い隠し、無理をしているふうで――。
 まさか。瓜江はひとつの可能性に辿り着いた。

「……失恋したのか」

 の顔が強張った。次第に笑みが薄らいでいき、寂しげな光を瞳に灯す。
 彼の読みは当たっていたようだ。
 ――よくもにこんな顔をさせたな。
 だからと言っての恋が成就してしまっていたら、それはそれで男を恨むのだが。

「俺で良ければ、話を聞くが(というか話せ)」

 顔も知らぬ男に鋭い敵意を抱きつつ、瓜江は彼女に促した。
 うん、と頷いて、は話し始めた。心なしか涙目である。

「よくお店に来てくれるお客さんでね、連絡先聞かれて、何回か仕事の無い日にも会ったりしてて……良いなあって思ってたんだけれど」
「告白したのか」
「ううん……」

 力なくは首を振った。ショルダーバッグの肩紐を握る手が震えていた。

「文具店に来る前にね、その人が別の女の人といて、キスしてるの見ちゃったんだ。あっちも私に気付いて、ヤバイ、みたいな顔したんだけれど……その人と歩いてっちゃった」
「最悪な奴だな」
「いや、私が勝手にその気になっちゃって舞い上がってただけだよ、コレ……」

 どうしてはこんな時まで下手なのだろうか。
 に男を見る目が無いと言えばそれまでだ。しかし、のように大層人に気を遣って慎重に過ごす人間をそういう気にさせることをした男も男である。わざわざ店の外でも会っていたならば、少なからず男の方にもに気が合ったと考えるのが自然だ。挙句にに別の女といる現場を目撃され、焦ったというではないか。
 瓜江は舌打ちした。
 ――そのクズ野郎の顔を拝んでみたいものだ。
 を好いている瓜江にとっては不愉快極まりなかった。

「ソイツを殴りたい」

 建前も何もなく、本音が口を突いて出る。

「久生くんが言うと冗談に聞こえないよ……」
「本気だ」

 苛立ったまま、瓜江はを見た。彼の足が止まり、自然ともそうした。
 瓜江は悶々と思考を巡らせた。靄のようにはっきりしない感情と沢山の苛立ちがないまぜになって、増していく。
 どうしてが好いたのが俺ではないのだろう。俺だったらお前を悲しませる真似は死んでもしないのに。お前の中の“店の外で会う特別な男”という枠に、どうして俺をカウントしない?

「俺は元々誰かとつるむタイプじゃない。出来れば仕事だって、単独の方が良い(その方が得だ)」
「く、久生くん……」

 狼狽えるに、瓜江はきっぱりと言った。

「だが、お前といるのは嫌いじゃない。俺が望んで、そうしてる」

 ――伝わっただろうか。瓜江はじっとの反応を待った。
 ……は、呆然と瓜江を見上げていた。
 ――これは伝わってないな。瓜江は舌打ちした。

「おい、?(これだけ言っても判らんのか……!)」
「え、えっと、あの……」
「何だ、言いたいことがあるならハッキリ言え。今更遠慮するな」

 瓜江はの背中をポンと叩いた。口調に反して、酷く優しい接触。
 の緩みに緩んだ涙腺が、遂に決壊した。

「ううっ……!」

 往来の真ん中で、は人目も憚らずに泣き出してしまった。
 流石の瓜江も焦った。励まそうにも宥めようにも、どうすればいいのか全く判らなかった。こんな時に好いた女に掛けるべき言葉など、尚更出てくるはずもない。
 瓜江の額に脂汗が滲む。
 ――謝った方が良いか? だが泣くようなことを言ったつもりもしたつもりも無いのに謝るのは可笑しい……。
 困り果てる瓜江の右手が、不意に引かれた。何事かと視線を落とすと、の両手が、瓜江の手をきゅっと掴んでいた。手袋をしていなければ直に伝わったであろう細い手の感触に瓜江が戸惑っていると、は震える声で呟いた。

「ありがとう、久生くん……」

 またほろりと涙を溢してはいたが、確かには笑っていた。

「……う、(その表情は……狡い)」
「久生くんに拒絶されてるのかと思って怖くなったけど、そうじゃなくて安心した……」
「誤解させるような言い方をしたなら……謝る(全くそんなつもりは無かったんだが)」

 完全に立ち直った訳ではない。それでもには、いつもの穏やかな調子が戻りつつあった。「本当にありがとうね」瓜江の右手を両手で優しく温めるように包みながら、もう一度は礼を述べた。
 それが、彼女の中で一区切りをつけるための行為だったのだろう。瓜江の手をそっと離したが、まだ涙の跡が残る顔を綻ばせた。

「私がしくじった分、久生くんが好きな人と上手くいくように祈ってるからね!」

 ここで瓜江は、やはり肝心なことが全く伝わっていないことを再認識する羽目になった。
 今までの見知らぬ男への憤りやに対する胸の高鳴りなど、何もかもが無駄になってしまいかねない。このまま喫茶店に行っても、にとっては“とても仲の良い絵描き友達との談話”程度の認識で終わることだろう……。
 ――何処かで頭を打ったんじゃないかというぐらい鈍い。鈍すぎる。
 瓜江は嘆息した。

「誤解が無いように改めておくが……
「なに?」

 のんびり首を傾げるの左手を、今度は瓜江が掴み返した。
 驚き、肩を跳ねさせるに、彼は告げる。

「俺はお前を友達だと思ったことは無い」
「え……」
「友達でもない人間と、どうして俺は自ら望んで一緒に過ごしているのか……考えてみろ」

 はしばらく呆然としていた。……突如、その顔が火が付いたように赤く染まる。
 どうやらようやく瓜江の想いを理解したようだった。
 口元を釣り上げながら、わざとらしく瓜江は続けた。

「鈍くて鈍くて仕方ないお前のためにもっと詳しく話してやろう。俺が“好きだ”と言った同い年のその人物は、古びて品揃えがそこそこの文具店の常連客で、俺と初めて会った時に鞄の中身をぶちまけるという古典的な鈍臭さを――」
「もういい! 良いから! もう残りは人のいないとこにしてくださいっ!!」

 珍しくが声を張り上げた。これ以上続けたら熱でも出そうな彼女の様子に、瓜江は口を閉ざした。意地悪い、どこか子供臭い笑みを浮かべたまま。
 ――ようやく判ったみたいだな。
 彼の手を緩く握り返してくる温もりが、そう、裏付けてくれていた。

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