宇井とは居酒屋に来ていた。
お互い喰種捜査官ではあるものの、宇井は准特等、対するは二等。からすれば、彼と自分の間には天地ほどの差が存在する。それでもこうして飲み仲間をしていられるのは、ひとえに宇井のお陰である。彼の温厚な人柄、そして女性と見間違うほど中性的な容姿が、まるで気心知れた女友達のような印象をに抱かせていた。歳も近く、馬が合う宇井との晩酌は、日頃のストレス発散にうってつけだった。
「ここでは無礼講ですよ」
いつも彼はそう言って微笑む。
――“女子会”というのは、こんな感じなんだろうな。カウンター席でチューハイを煽りながら、は、縁のない集会へと思いを馳せた。
“喰種”との戦いでいつ死ぬかも判らない生活、局にいる間はひたすらレポートや情報整理に追われ、くたびれて机に突っ伏す日々。貯金は確実に貯まっていくけれど使う暇もない。そんなところに「一緒に飲みませんか」と宇井が声を掛けていてくれなければ、自分の人生は本当につまらないものになっていただろう。
賑やかな大勢での飲み会が苦手な彼女にとっては、こうして少人数で――少人数どころか二人きりだが――ぽつりぽつり言葉を交わしながら飲む方が性に合っていた。
「宇井さんはもういつ特等に上がってもおかしくないって皆言ってます。私もそう思います」
「良いことなんでしょうか……。有馬さんレベルを期待されても困りますよ」
「いやいや、宇井さんも十分に有馬特等属性です。虫も殺さないんじゃないかって顔で本当にすごいもの。実力分けて欲しいぐらいで……」
「分けてあげられるもんじゃないですよ。ああでも、訓練なら幾らでもお付き合いします」
笑いながら宇井が提案した。は一瞬悩んだが、すぐに「遠慮しときます」頭を下げる。
見たことは無いが、聞いた限りの宇井の活躍から察するに、名前の実力では宇井の指導についていけるか不安だった。
「多分、今の私じゃ宇井さんの指導についていけるレベルに達してません」
「大丈夫ですよ、いきなり無理難題吹っ掛けやしませんから」
何とかなりますって、と宇井が笑う。しかし……なる気がしない。実力を上げるための努力を捨てるつもりは無いが、今は二等捜査官を全うするので精一杯だった。
「すごく有り難いですけれど……時間があるなら、宇井さん自身の休憩に回してください。私はのんびり堅実に亀のようにやっていくんで……」
「さんって控えめですねー……」
「控えめっていうか今が全力なんです! ほら私のことより宇井さんの愚痴! ガーッと吐けるもんは吐いてってくださーい!!」
がポンと宇井の背中を叩く。
「愚痴……ですか」
瞬く間に宇井の表情が曇った。これはやはり、何かあったらしい。
「遠慮しないで、飲み友よ!」が発破をかけると、宇井はついに口を開いた。
「もうそりゃあ、色々ありますけどぉ……有馬さんがまたトンデモ行動してたりして……あの人って天然だからたまにっていうか時々しばしば常識外れなことするから、本当にビックリして……」
「有馬特等を叱れるの、宇井さんぐらいですよねー」
「叱らないとトンデモ行動が連鎖していくじゃないですか。この間から何かこう、その……とにかくビックリしたんですよ! 私が注意しなきゃどうなってたことか……。今はとりあえず一段落してるんですけれどね、まだ気を付けておかないと……」
「特等、何かしたってことですか?」
「もう有馬さんが何かしてない日の方が珍しいですから……」
「……ごめんなさい。とりあえず、まあ、飲んで食べましょう」
酒の進むペースからして、宇井はその件で相当気を揉んだようだ。どことなく遠い目をしている。
は有馬を知らない。自分程度の立場で特等と接する機会がある方が珍しいと思う。何時だったか姿を遠目に見たぐらいだった。《無敗の捜査官》に相応しい、鋭い雰囲気を持った触れがたい人。が有馬に抱くその印象は、宇井から愚痴を聞くうちに“天然すぎる天才”というものに変わっていった。その天才の指導についていったのだから、やはり宇井も類い稀な才能を有しているのだろう。そしてその天才たちは努力を怠らない。
凡人も凡人なりに頑張らなくては、とは弛んでいた心を引き締めた。
それからも宇井の愚痴は続く。ひたすらは「大変だねぇ……」と彼の背中を叩き続けながら、愚痴に耳を傾けていた。
密かには、宇井の愚痴を聞くのを楽しみにしていた。誰にでもひとまず吐き出せたら少しは落ち着くことがある。その相手にわざわざ自分を選んでくれたことが嬉しかった。二等捜査官でも、准特等捜査官の役に立てるのだと思えた。
愚痴をこぼす宇井の姿は、本当に同性にしか見えないほどしょんぼりとしていて、何だか安心感すらある。彼も自分と同じ人間……そんな当然のことを、再確認できるから。
ひとしきり愚痴を吐き、酒を煽り、食事を終えた宇井は、盛大な溜め息を吐いた。
「うー、すいません。さんって話しやすくってついグチグチと……」
「そう気にしないでくださいよっ。聞き役がいるだけでも気分変わることあるじゃないですか? いつでも付き合うんで!」
「本当にありがとうございます~……」
時間も時間だ。明日に備えて、そろそろ切り上げた方が良いだろう。は最後にもう一度宇井の背中を撫でて、席を立った。
ここは私が出しますから、と毎回訴える宇井を今回も諭して割り勘で会計を済ませた。
すっかり暗くなってはいるが、店の看板のネオンや、行き交う人々の話し声、漂う紫煙や食べ物の香りたちが、街がまだ眠ってはいないことを五感に伝えてくる。
二人は並んで歩き出した。
「いやー、今日も飲んだ食べた!」
「たまには私におごらせて下さいよー、さん……」
「無礼講なんだから割り勘で良いじゃないですか、宇井さん」
「一応私にも男のプライドというものがあるんですが……」
「そう言われても、ただおごられるのって落ち着かないんですもん」
しかも二等が准特等のお世話になるなんて畏れ多い――。と、は胸中でのみ続ける。
それでも宇井はまだ不満げで申し訳なさそうな顔のままだった。実は女性でした、と言われてもすんなり信じることが出来る。
(確実に私より美人だ、羨ましい)
そんな他愛もないことを考えて、ぼんやりしていたのがいけなかった。アルコールのせいもあったかもしれない。
――前方からパーカーのフードをしっかり被った怪しい男が近づいてきたことに、は気づかなかった。
「いだっ!」
男を認識するより先に、右腕全体を強く引っ張られ、転んでしまう。その男はそのままの横を駆け抜けていった。の提げていた鞄を抱えながら。……ひったくりだ。
「さん!」叫ぶ宇井にが一番に返したのは、
「私の鞄ー!!」
という、泣いた子供のような悲鳴だった。
我に返った宇井が、男の駆けていった方を見やる。常人ならば諦めてしまうほどの距離が空いている。しかし――。
「取り返してきます!」
宇井は迷わず駆け出した。その顔つきが普段とは全く違う、鋭いものになっていたのをは確かに見た。
――これは、やばい!
取り残されたには、親切な通行人が立ち止まって声を掛けてくれる。
「お姉さん、大丈夫かい?」
「だ、大丈夫です、その、多分……ひったくりの方が危ない!」
「え?」
通行人とは、宇井たちを見た。
あんなに広がっていたはずの宇井とひったくり犯との距離は、とっくに詰まっていた。ひったくりの方がぎょっとして宇井を振り返る。鬼の形相で迫る准特等捜査官の眼光たるや、人の身では恐ろしい以外の何物でもない。男の足がすくんだ瞬間を逃さず、宇井は、
「こんの野郎がッ!」
「ぐえぇっ!」
アルコールのせいかやや荒れた叫びと共に、男を張り倒した。もろに宇井の攻撃が入ったのが、当人たちでなくとも判る。
何かを潰されたような男の悲鳴はたちの元まで届いた。意識を失った体が地面に倒れる、鈍く低い音も響いた。
男の手から飛び出したの鞄が宙を舞ったが、すぐに宇井の手によって回収される。
フンッと鼻を鳴らしながら、宇井は男を見下ろしていた。
「どうせ女二人組だとでも思って油断してたんでしょうが、残念でしたね。私は男ですよ」
もちろん、気絶した犯人には聞こえるはずもない。
は心配してくれた通行人に礼を述べてから、捻った足を引きずるようにして宇井へと歩み寄っていく。それに気づいた宇井がハッとしたように目を丸め、慌ててに駆け寄ってくる。
「さん、怪我したんですね? いけませんよ、無理して歩かないで!」
「い、いや、でも、捜査官のくせにひったくりに遭うとか情けなくて……」
「あいつに気付けなかった私にも非がありますから! じっとしてて下さい」
宇井は全く悪くないのに、とは落ち込み俯いた。
准特等の世話になるなんて気が引けると思っていた矢先に、早速世話になってしまった。その上ひったくりに遭っておきながら、ひったくりを心配するのもどうなんだろうと今更になって思う。普段とは別人のような鋭い眼光には、すら怯んだ。瞬く間にひったくりに追い付き鞄を取り返す手際も、やはり彼が只者ではないことを物語っている。
(にしても……宇井さん、すごかったなあ)
ひったくりを倒したときの勇ましさと、その後を労ってくれる穏やかさ。宇井の新たな一面に、不謹慎ながらの胸は高鳴ってしまった。怯んだと同時にそれ以上の甘い感情が溢れていた。
警察が駆けつけ、ひったくり犯が連れていかれる。こういう時は何か色々と質問されるのかと思っていたが、その辺りも宇井が警察と話をつけてくれていた。あまりにぼんやりし過ぎな自分が情けなくなったが、足も痛いし、申し訳ないと思いつつ宇井に甘えて様子を見守る。
程なくして、宇井はの元に戻ってきた。
「お待たせしました、さん。鞄、お返ししますね」
「あ、ありがとう。宇井さん。色々と……本当に」
無事に戻ってきた鞄を抱えながら、は深く頭を下げて礼を述べる。
宇井は、恥ずかしそうに頬を掻いていた。
「ど、どういたしまして。ちょっと荒くれたところを見せてしまってお恥ずかしい限りです……」
「この野郎、ってやつですか?」
「はい……あまり良い言葉遣いじゃないですよね、でも……」
取り返した鞄と、の顔を見ながら、宇井は溢す。
「さんの鞄を盗んで、さんに怪我をさせていったあいつが許せなくて」
またもやの胸は高鳴った。いけない、と押さえ込もうとすればするほど、意識せざるを得なくなってくる。酒が回っているせいで理性が上手く働かないようだ。
は真っ赤になりながら、宇井から視線を逸らした。
「あの……照れるんですけれど……。その……」
「だって、腹が立つものは立つんですよ! 一発じゃ足りなかったですかね」
「いや、宇井さんがあれ以上やったら人間はもたないと思います……けど、その」
顔を覆い隠すように鞄を掲げながら、は、蚊の鳴くような声で呟いた。
「……ものすごく宇井さん、格好良い人なんだなって実感してしまって……」
宇井は、瞬きした。「え?」恐らくの声が小さくて聞こえなかったのだろう。彼は不思議そうに首を傾げている。
別に言い直す必要はないはずだが、その判断力すらアルコールに奪われていた。は繰り返した。
「宇井さんのこと、格好良いと思いました」
「え?」
「……格好良かったんです、すごく……」
「はい?」
「だから……」
「何ですか?」
「……今更だけど宇井さんが格好良いと実感しました!!」
鞄を胸に抱き、は叫んだ。
――の叫びに、宇井はきょとんとしていた。その顔のまま、彼は言ってのける。
「あの…………ちゃんと最初から聞こえてますけど」
今度はがきょとんとする番だった。
じっと宇井を見つめ返し、は問う。
「……どういう、ことで?」
「鞄で顔隠しながら“格好良い”って言ってくれたところから、全部ちゃんと聞こえてました」
「……え!?」
驚愕に震える。
途端に宇井の顔に浮かぶのは、少し意地悪そうな、けれど――優しい笑み。
「ずっとさん、私のことをそんな風に見てくれることがなかったから、嬉しくて。聞き間違いじゃないか確かめさせてもらったんです」
確かめるなんて嘘だ。宇井の顔を見れば判る。とてそこまで馬鹿ではない。
彼の言う通り、今までは宇井を“男性”として意識したことがなかった。とても仲の良い飲み友達であり職場の上司。それだけだった。なのに今日のこの数十分で、全てが変えられてしまった。
彼は間違いなく異性で、男性だ。
――自分のドジが無ければ。しかし、ドジがあったからこそ、今、自分は。
すっかり混乱したを、微笑んだまま宇井は見つめている。
「その足じゃ帰るの大変ですよね。タクシー拾いましょう」
「つ、ついてくる気まんまんですか……」
「はい、部屋までお送りしますよ。前に貴女が酔い潰れたときみたいに」
前は前だ。今日で、の宇井に対する印象はまるっきり変わってしまった。
今までのように飲み友達に甘えるようには出来ない。一人で帰らせてほしいが、を支えるように肩を抱いてくる彼の腕の力強さに、声は喉奥へ引っ込んだ。また一際強く彼を意識してしまう。
――ちゃんと逞しい。当然だけれど。
離れる様子のない宇井に支えられながら、はゆっくり歩き始めた。
「やっぱり宇井さんは凄いですね……。ひったくり一撃とか……」
「さんにも出来ますよ、きっと」
「……あそこまではやれなくて良いです、私」
心底本気で答えたであろうの声音の真剣さに、宇井の笑みは深くなったのだった。
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