いつ自分の家に帰ることが出来るのか、なんて考えていたのが、随分昔のことのように思えた。
正直家に帰り、日常に戻ったところで……研のいない世界に意味はない。それよりだったら、少なからず研のことを調べてくれている有馬さんの元にいるほうが、ずっと楽だった。
有馬さんは、何故か私に優しい。
「は、の力で出来うる手は全て尽くしたんだろう? だったら少し休むんだ。君は、君自身のことを労わった方が良い。今、その為の時間が与えられているんだと思ってみて」
その言葉で、肩の力が抜けていくのを感じた。
気が付いたら涙が零れていた。
死んでしまった両親の分も、弟を愛さなくてはいけないと思っていた。それしかなかった。あの子が私の生き甲斐だった。でも、それだけじゃ、いけないんだ。自分を愛せない人間が、別の人間を愛せはしないのだと――それがたとえ家族であろうとも――有馬さんは、そう言ってくれている気がした。
研を想うのであれば、そのぶん私は、私の想いも強く自覚していかなくてはならない。ただただ弟の為にと、あの子に依存し、あの子を全ての逃げ口にしてはいけないんだ……。
あんなに怖かった有馬さんの眼差しが、彼の持つ白が、暖かくてたまらなかった。
「――、君を此処に置くのは止めることにした」
いつものように私へ面会しに来た有馬さんが、いきなりそんな事を言った。
呆然とする私が口を開くより先に、彼はひとつの鍵を差し出してきた。
「此処に近いマンションに移ってもらう。これは、その部屋の鍵」
「え、いや、私……」
「既に君が借りていたアパートから荷物は運び入れてあるし、部屋の解約も済ませた。あと……」
「ちょ、ちょっと待ってください! どういうことですか!?」
話が飛んでしまっていて訳が分からない。
「ここに君をずっと置いておくのは精神衛生上良くないと思ったから、部屋と仕事を用意したんだ」
「え、えぇっ!?」
有馬さんは私が驚いている理由が判らないみたいで、不思議そうに瞬きしていた。「君の元職場にも話してある」つまりそれは私の知らぬ間に、私が転職したということ? でも、一体、何処に? もう私が重要参考人だった話は無くなったんだろうか? ……どれから尋ねたら良いものか、まるで見当がつかない。
「君には今後〔CCG〕の局員として働いてもらう」
「えっ! で、でも……」
「大丈夫。今まで通り君が“俺の管理下にある重要参考人であること”は変わらないし、局内で事務や雑用をこなしてもらうだけだから“喰種”と戦うこともない」
……呆然とするしかなかった。有馬さんがとても凄い人だというのは流石に私も知っている。どうしても有馬さんが来れない時に、有馬さんの部下の方々が来てくれて、色んなことを教えてくれた。
『有馬さん、ムチャクチャなところあるから驚かれたでしょうけれど、悪い人じゃないんです……』
以前有馬さんを叱ったというコオリさん……もとい宇井さんは特に親切で、私のことをすごく心配していた。勿論その頃には私も、有馬さんが良い人だというのは十分に知っていたから、思わず苦笑してしまった。
――でも、こんなのにムチャクチャだとは思わなかった!
「あ、有馬さん。何で私なんかにそこまでしてくださるんですか。私、“喰種”の知識も何も無いし、試験とかも受けてませんよ。そんな人間が此処で働けるなんて……」
「さっきも言ったけれど、君が重要参考人であることに変わりはない」
ようやく私の戸惑いを理解してくれたのか、有馬さんは笑う。
「より俺の目の届く場所……、つまりは下手なことが無いよう監視下に置くということだから」
笑って話すには“監視下”という言葉の響きは酷く重かった。
それでも、優遇されていることに違いは無い。此処で働けるなんてエリートみたいなものだろうし、情けない話だけど、給料も全然違うと思う。いつか研が見つかった時の為にも、稼げるだけ稼いでおきたいのが本音だ。行方不明の間に、また体を壊しているかもしれない。大学に復学してからもお金は入用になるだろうし。私があの子の力にならなくては。
有馬さんの提案を、私は有難く受けさせて頂くことにした。
ただ一つ予想外だったのは、
「――あの、有馬さん。この部屋広すぎませんか?」
「二人で住む分には丁度いいだろう?」
「……ふたり?」
「俺と君」
「!」
弟以外の男性と私生活を共にすることになった、ということだ。
と生活するようになってから、色々と楽になった。
掃除や洗濯、あらゆる家事を彼女は引き受けてくれた。本人は自信なさげに出してきたけれど、料理も美味しかった。俺は仕事に専念することができたし、はいつも律儀に俺の帰りを待って起きていた。どんなに俺の帰宅が遅れようとも必ず「おかえり」と言うために。帰ることのできない日は、早めに連絡を入れるようにした。放っておくと、いつまでも寝ずに待っていそうだったから。
局内での仕事も、生真面目な彼女らしく丁寧に取り組んでいた。ただ入局時に色々と無茶を通したせいで、あること無いことが飛び交ったりしていた。俺はともかくは気にするかと心配だったが、そんな様子もない。
「そういえば、久々に研のバイトしていた喫茶店に行ったんです」
夕食の最中、が笑いながら話し始めた。敬語は彼女の癖なんだろう。俺といる時の雰囲気はだいぶ柔らかくなった。言葉の節々にも、警戒心の抜けた穏やさが滲んでいる。
「20区にある『あんていく』ってところなんですけど、皆さん研のこと心配してくださってて……。久々に行ったら“今までどうしてたの”って私まで心配されちゃいました」
姉弟揃って薄幸そうだから、その店の人たちが不安がるのも無理はない。と言っても、俺が彼女の弟を見たのは、書類上でのみのことだが。
が出してくれた紅茶を飲みながら、微笑んで返す。
「良い人たちなんだね」
「はい。優しい店長さんに、気さくな店員さんたちに、美味しい珈琲……。すごく素敵な場所です」
「それは気になるな」
沸き起こったのは、純粋な好奇心。彼女の好むものが、どんなものなのか知りたかった。
何気ない俺の呟きに、は顔を輝かせる。
「いつか、私と『あんていく』に行きませんか? 有馬さんがお忙しいのは承知しているので、無理にとは言いませんけれど……」
急速にしぼんでいく語尾と、しょぼくれていった顔の微笑ましさといったらない。
俺は「そうだね」と頷いた。
「いつか、一緒に行ってみよう」
いつになるかは判らないけれど、俺は確かに彼女と約束を交わした。
は再び満面の笑みを浮かべて、何度も頷いて応じた。「楽しみに仕事頑張ります」すっかり局での仕事にも慣れたの、前向きな姿が眩しい。初めて会った時は、吹いたら消えてしまいそうな蝋燭の火のように儚く弱々しかったのに。
前向きになるにつれて、が弟の話をすることは減っていった。たまに彼の名を口にしても、以前のような痛みを抱えた眼差しではなく、希望に満ちた輝きになっていた。少しずつ彼女は弟への依存から脱却しつつある。代わりの場所を、見つけたのだ。
――それが、この場所。俺と過ごすこの空間。この時間。
少しずつからの視線に深い情が満ちていくのを、俺は身をもって感じていた。
このまま、彼女の平穏を保つことが出来たら良い。
このまま、彼女の依存を移すことが出来たら良い。
全てはこの手で、この手に。俺が、そうしよう……。
無邪気に笑うがようやく見つけた次の世界を、保つために。
俺が見つけたこの温もりを、絶やさぬために。
だからとの約束は、どんな些細なことでも守ろうとした。
俺は俺なりに、の為に生きる、ということをしてみたくなった。
もちろん仕事を疎かにすることは無いし、俺自身は平気なのにの方が「私なんかのことは気にしないでください!」と怒ったりする。心配してくれているのだと判っているから、困った。
「……女心を理解するのは難しいな」
職場でついそう溢してしまった時、郡たちがとんでもないものを見たような顔で叫んだり物を落としたりしたから、よほどその時の俺は可笑しかったんだろう。
「あ、有馬さん……。もしかしてさんとのことでお悩みですか」
「他にあるわけ無いだろう」
「で、ですよね……」
郡の苦笑いが何となくこそばゆい。あまり経験しない感覚だ。
「何というか、こういうことに適切なアドバイスというのはありません。それに有馬さんなら何とかなりますよ……多分」
実際今まで何とかしてきてますしね。そう言って郡は歩いて行ってしまった。
……そうだ。今まで通り何とかしたらいいんだ、無理な話じゃない。今度の休みに、が話していた喫茶店に行ってみるのはどうだろうか。確か『あんていく』だったな。はいたくその店を気に入ってるようだったし、もう少し自分たちの関係に進展が欲しい頃だし。きっかけとしてはベストだろう……。
あれもと交わした約束の一つだ。
しかし現実は、そう上手く回るものではなかった。
――「梟」討伐戦。
俺たち〔CCG〕とは深い因縁のある相手の潜伏先が判明し、討伐が行われることになった。
強力な赫者である「梟」の居場所は、20区のとある喫茶店。
その店の名は『あんていく』。にとって思い出の、あの店だった。
「俺が戻るまで、なるべく外出は控えるように。いいね、」
俺の言いつけに、は小さく頷いてから微笑む。
「……はい。お気を付けて。有馬さん」
の笑顔は、出会って間も無い頃と同じ、傷だらけの心から必死に絞り出したものになっていた。
彼女の大切なものが、また崩れてしまう音がした。
マンションを出てから、俺はのことを考えるのを止めた。仕事を終えてから、ゆっくり考えればいい。仕事には必ず終わりがある。終わらせる。
そうしてから、崩れた彼女の心を再び直すための方法を見つけよう。
今はただ、仕事をするだけ。
――時間の感覚も朧げになるような地下の空間、何処かで響く水の音が激しくなっていくのに気付いて、外では雨が降っていることを知る。
『……白秋です……』
――ああ、そうか。君が……。
後から全て考えよう。要るものとは増えていく。こんな風に。
仕事も、あともう少しだ。
『あんていく』に潜伏していた“喰種”は店ごと一掃され、間違いなく20区の平和は増した。
それなのに私には、彼らが“喰種”だったなんて思えなかった。あんなに親身になってくれたのも、皆、私を食べるためだったの? いいや、そんなはずない。だって、だって。あそこは研を受け入れてくれて、励ましてくれて、立ち直らせてくれた唯一の場所。私には出来なかったことをしてくれた場所。人間だとか“喰種”だとか関係なく、あそこにいる人たちはみんな、ただのヒト同士でいられた……!
研のことを抜きにしても、私はあの場所を愛していた。大好きだった。
あの討伐戦から暫くは、有馬さんにどう言葉を掛けたら良いのかも判らなかった。一言なんとか「お疲れさまでした」とだけ言えたけれど、もっと他に言葉があったんじゃないかと自分のことを何度も責めた。
毎日、機械のように同じことを繰り返した。家事と仕事をずっと、ずっと。
そうしているうちに、有馬さんから私に話しかけて来てくれた。
「すまない。」
「え……?」
有馬さんは、何故か私に謝った。
混乱する私に、彼はこう続ける。
「一緒にあの店に行く約束だったのに、約束を破ってしまったから」
ごめん。そう言って、有馬さんは私の頭を撫でた。親が子にするように。
何度目か判らないけれど、私は有馬さんの前でまた泣く羽目になった。悲しいのと苦しいのと、それと申し訳なさと、嬉しさ。有馬さんが私の傷を見つめ、寄り添ってくれていることに気付いて、どうしようもなく胸が熱くなった。悲しみで塞がれていた何もかもが開けて、ようやっと素直に涙を溢すことができた。
有馬さんは、泣きじゃくる私をずっと抱きしめていてくれた。
「君の痛みが和らぐように、俺も色々考えてみる。だから溜め込まないで」
「ありがとう、有馬さん……」
「どういたしまして」
――私と彼の距離は、時を重ねるごとに狭まっていった。
私の心が再び折れ、有馬さんに救ってもらったあの日から、いくつかの季節が過ぎた。
有馬さんが笑ってくれることが増えて、私も自然と笑う回数が増えて、二人きりのこの空間が愛おしかった。仕事もすっかり板についてきた。といっても、只の事務仕事なのだけれど。捜査官を目指して勉強することも考えたものの、今から目指すには難しい。何より普段は温和な有馬さんが、頑として「危ないから許さない」と譲らなかった。
そんな有馬さんが、今日は職場の人たちを連れてくると話していた。『食事の用意をしておいて』との連絡を受けて、いそいそと準備を進める。よくよく考えたら、私と有馬さん以外の人が此処に来るのは初めてなんじゃないかな。
片付けもばっちり。食事の支度も出来た。今日が休みで、本当に良かった。
一段落した頃にチャイムの音が響いて、私は慌てて玄関に向かう。
「はーい」
言いながら扉を開くと、目の前に有馬さんがいた。穏やかに微笑みながら彼に見つめられると、心がほんのりと温かくなる。幸せを実感した。
「ただいま、。突然で大変だったろう?」
「え? ああ、全然平気ですよ! 今日休みでしたし」
「なら良かった。……皆、上がって」
有馬さんに促されて、次々と人が入ってくる。何だかドキドキした。
宇井さんに、平子さん、それから初めてお会いする伊丙さん……いや、ちゃん? それから有馬さんとは学生時代から交流のある富良さん……。私より偉い人ばかりで、すごく自分が場違いな気がして緊張してしまう。
そして最後に、わたわたと青年が入ってきた。短く白い髪のところどころに黒が混じっていて、まるで真っ白に染めた髪がどんどん黒に戻ってきているような、そんな感じだ。
青年はまっすぐ私を見た。私も反射的に彼を見つめ返し――、
「え……」
言葉を無くした。
そんな私を他所に、青年はにこやかに有馬さんを振り返る。
「うわあぁ、こちらが有馬さんの奥さんですか?」
「まだ結婚してないよ、ハイセ」
「まだってことは……これからですか!?」
明るく陽気に、青年が再び私に向き直る。
「初めまして、さん」
ハジメマシテ。
その言葉に、私は酷く困惑した。
だって、彼は――あまりにも。
「僕は佐々木琲世と申します! どうぞよろしくお願いいたしますね」
私の弟に、似ていた。
その姿も。声も。微笑み方も。
ヨロシクオネガイイタシマスネ。
また、彼の声が私の中で反響する。
「さん?」
「あ。ああ、ごめんなさい! 私より偉い方々ばっかりで緊張しちゃって……」
「その気持ち、すっごい判りますよ! 僕も捜査官とはいえまだペーペーの三等でして……。一緒にこのプレッシャー、乗り越えましょう!」
「ありがとう……、佐々木くん」
ぼんやりする私を気遣ってくれる彼へ、必死に声を絞り出して応じる。ハイセくんの笑顔を見つめているのが苦しくて、でも視線を逸らせなかった。
「ハイセで構いませんよ」
「……うん、ハイセくん」
――研なはずがない。だって私のことを知らないんだもの。
いくら声や姿が似ていようと、きっと、この人は、すごく似ているだけの違うヒト。
ハイセくんたちは有馬さんに促されて食卓につき、立ち尽くす私のもとに、有馬さんがやって来た。
「、大丈夫? 調子が悪そうだけれど」
「はい、大丈夫です」
「なら良かった。手伝えることはない? 手伝いたい気分なんだ」
「ありがとうございます、じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな――……」
優しく私の肩に触れる有馬さんの手から伝う温もりだけが、私の心に平穏を齎してくれる。
その手にこっそりと自分の手を重ねて、今一度その感覚を確かめてから、私は微笑む。
有馬さんも、私を元気づけるように微笑んで返してくれた。
この人を信じていれば、私は私で在れる。
もう、何も心配はないのだ。もう、なにも――。
私は、果報者だ。
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