あなたと別れた時、僕には一体なにが残されるのでしょうか。
母様の時みたいな、鋭い痛み?
世界への激しい憎悪?
無力な自分への怒り?
和らぐことを知らない悲しみ?
深い、深い、絶望?
(――きっと、ぜんぶ)
ノウェが、マナが、ユーリックに駆け寄る中、は呆然と立ち尽くしていた。あっという間に思えた。現れたカイムと彼らが剣を交えるなか、指先すら動かせずにいたにとっては。
そしてカイムが激闘の末に奈落へ落ちていったことすら、幻に思えた。
(カイム様が、死んだ?)
しかしカイムが死んだのであれば、封印されているとはいえ、契約自体は続くアンヘルの身にも変化があるのではないだろうか。そのような気配は全くしない。アンヘルへ捧げる情の深さのために、の魂には赤い竜との繋がりが生まれていた。その糸が揺らぎもしない。ならばこれは――。
は、この場所とは違うことを考え、この場所とは違うことを思い、この場所から意識を逸らし続けた。
眼前に在る、ユーリックの姿から。
「」
そんな努力も、ユーリックの一声の前に崩れ去った。刃をその身に受け、死の際に在るとは思えぬほどに強い声だった。
赤い花畑に横たわり、を見ている。眼差しだけで彼はを呼んでいた。穏やかで柔らかい、暖かな眼差しだった。の喉を、その温もりが縛って塞ぐ。
はふらふらと花畑に歩み寄った。操り人形のように覚束ない足取りで、必死に。ようやく辿り着いたユーリックの前に、頽れるように彼は座り込んだ。
「ユーリック……」
「悪いな、」
「……全て、判ってたんですね」
揺らぐ己の視界と声音を胸中で叱咤しながら、はユーリックに呼び掛ける。
貴方は知っていた。
覚悟していた。
自分の死を。
あなたはずっと、こうして死ぬ為に生きていた。
はユーリックの頬を撫でた。服の裾で、顔を汚す血を拭ってやる。ユーリックは緩く微笑んだ。何時だったか自分に花を持ってきた日の彼をは思い出した。
「ありがとう……。はは、くすぐったいな」
「……馬鹿」
「ああ、……馬鹿だな。すまない」
誰よりも、“死”を恐れていたくせに。
貴方は最初から、この結末を悟っていた。
何時しかその恐れは、僕まで共有してしまうようになっていた。
幸せに誤魔化されて、この恐れを見ないふりして。
最初から判ってたのに。
傷付くだけだって。
痛む場所が増えるだけだって。
それでも、不器用な心は彼を想うようになってしまった。
は目を細めた。
「……僕も、判ってました。貴方が、こうなること」
「そうか」
「だから、拒絶したつもりだったのに。逆に深みに落ちてしまった」
封印を壊す度に、何処かで警鐘が鳴っていた。
彼を遠ざけなさい。
自分が傷付く前に。
その心から、消しなさい。
欠片も残さずに。
早く――。
何度、何度も。警鐘に従おうとしたけれど。
くしゃくしゃの笑顔が、触れてきた大きな手のひらが、降ってくる優しい声が――全てが、僕の求めていたもので。
僕は“傷付いてもいいから想いたい”だなんて、考えてしまった――!
「だから、人間と関わっちゃ駄目だと、決めて来たのに」
こんな苦しみを、また味わう事になるなんて。
息が固まったかのように胸で詰まる。の視界はますます霞んでいった。慌てては目を擦り、ユーリックに向き直る。
「貴方が僕を見てくれる間は、泣かないと決めたんです。だから絶対、泣いてあげませんからね」
「そうか……」
力無く呟くユーリックの頬に触れながら、は呟いた。
「貴方のせいで、僕はまたひとりになります」
「ノウェたちが、いるだろ?」
「ユーリック、貴方の存在の替えはありません。いちいち言わなくたって判ってるくせに」
は笑った。ユーリックの頬を撫でながら、話し続ける。
「僕、貴方に好かれていることが嬉しくて。ずっと一緒にって思いました」
「やけに、素直じゃないか」
「素直に言わなきゃ、永遠に伝えられなくなっちゃうでしょう?」
ユーリックは微かに笑った。
「今なら死んでも良いな」
「ばか、死ぬんですよ。今に」
の拗ねたような声に、また彼は笑う。その呼吸は、既に浅いを通り越している。の言葉に答えていられるのは奇跡だった。奇跡を素直には喜んだ。
ふとユーリックはゆるゆると手を伸ばし始めた。が自分にやっているように、そっと、の頬へと触れる。
は慌ててその手に自分の手を重ねた。取り落とさぬようにひっしと押さえる。
「ユーリック?」
「……」
は涙を堪えながら、ユーリックを見つめる。彼が何かを伝えようとしているのをは感じた。だから、待った。ユーリックの言葉を。
――最期の声を振り絞り、ユーリックは紡いだ。
「ありがとう」
ユーリックが笑って目を閉じた。滑り落ちそうな手をは必死に掴んだ。意味がないとは判りながらも。彼の体は光に包まれていく。光はユーリックの輪郭を奪い、形を奪い、ユーリックごと静かに崩れていく。
「いや……、いや……」
光に溶けた体は、赤い花びらへと姿を変え、宙を舞いながら消えていく。
確かに掴んだはずのユーリックの手は、なくなっていた。最初からは何も手にしていなかったかのように。
全てが消えた。
何も、残らない。
縋るものを無くしたは、花畑を見つめた。
何もない。
先まで在ったはずの彼を語るものは何もない。
ただただ広がる花畑。
赤い、花。
「いやだよ……!」
涙が落ちる。花はその花弁で雫を受け止め、静かに揺れた。何度もそうした。絶えず溢れるの涙を、何度も受け止める。
は泣き叫び続けた。
赤い、赤い。
僕はずっと赤が好きだった。
愛しいかあさまの赤。
優しいかあさまの赤。
ずっと、ずっと。
の涙は止まらない。
ねえ。かあさま。
聞いて。かあさま。
僕の好きな赤は、新しい赤になりました。
僕の愛した人間の命。
あかいあかい花畑。
大切な赤。
僕の胸の中に、目蓋の裏に、焼き付いて消えることのない赤。
新しく重なった赤。
ぼくを支える、ふたつの赤。
ぼくがぼくで在る証。
――はようやく顔を上げた。
幾つもの涙の筋。泣き腫らし、赤くなった瞳。枯れた眼差しは、ぼんやりと宙を彷徨っている。
は呟いた。
「……僕、決めたよ」
大切なものを奪っていくだけのこの世界が、やっぱり僕は好きになれない。
それでも大切なひとたちは、この世界を繋ぎ止めてくれていた。理由はなんであれ、それは事実。
だったら、僕が恨むべきなのは、もっともっと他にあるものだよね?
は頷いた。
――神を、殺そう。
僕はこれからも、彼らについて行こう。
もう、辛いも悲しいも乗り越えていける。この胸にある痛みを超えるものなんてあるはずがないのだから。
大丈夫。
この身体中に染み付いた、大切な赤が、何時までも消えない証となって僕を導いてくれる。
――殺そう。
大好きな赤を想うだけで、あの人を感じるだけで、僕は笑っていられるから。
はゆっくり立ち上がった。
「……」
「行きましょう、ノウェ」
労るようなノウェの声に、は淡々と答える。
「ユーリックの想いを、無駄にしてはいけませんから」
柔らかく笑うに、ノウェは静かに頷いて返した――。
僕に在ったはずの血の記憶は、貴方を想ったばかりに歪み、形を変えてしまった。
竜と呼ぶにはあまりに愚かしい生き物に成り果ててしまった。
けれど、それが悪いものとは思わない。
どうせ僕のやることは大して変わらないんだ。
――復讐。
それだけなのだから。
この悲願を果たせた頃には、僕という存在も失われているだろう。形を失い、この世界に留まることはなくなっているだろう。
そうしたらきっと、また貴方に会える。
今からその瞬間を思うだけで笑みが溢れてしまった。
「もう少し、だから」
もう少ししたら、また会いましょう。
今度は僕が贈り物を用意していきますから。
それまで待っていて。
待っていてね。
大切なひと――。