濃厚なスープの香りが立ち込める、はがくれの店内。ちょうど今は夕食時だ。客で込んでおり、店員は忙しなく立ち回っている。
 は荒垣と共に、店の隅のほうのテーブル席についた。
 の腹の音を哀れと思ったのか、荒垣のほうから「何か食うか」と持ち掛けてきたのである。
 荒垣からの誘いに、は内心驚いていた。

「珍しいこともあるもんだ……」
「何か言ったか?」
「いえっ! 何でもないです」

 荒垣はそれ以上言及することもなく、「そうか」と呟くと、店員に特製ラーメンを二つ注文していた。
 とりあえずお冷やを手に、一口。はそうして気を取り直すと、荒垣を見た。

「あの、殴られたとこ大丈夫ですか? ボクシング選手の拳は凶器って聞いてるんですけど」
「平気だ」
「いや口ん中切ったでしょ絶対」

 喧嘩慣れしているにはお見通しであった。何よりあの真田の勢いは尋常ではなかった。誰が見ても、殴られた方が怪我をしたのが判る。
 衝動的だった真田の拳も相当痛んだに違いない。
 の指摘に、荒垣はばつが悪そうな顔をして、溜息と一緒に呟いた。

「……アキの奴、加減知らねえからな。昔っから変わんねえ奴だぜ」
「へぇ、昔っから……。やっぱ幼なじみみたいなもんなんですね二人は」
「そんなとこだな」
「ちょっとやそっとで築ける絆じゃない感じしますもんね」

 は嬉々として話した。
 ぶっきらぼうながら荒垣もしっかり答えてくれる。
 何となく、心地良い。
 女装を明かした一件から、の中には、荒垣への信頼が生まれていたようだった。
 荒垣には、奏夜たちとはまた違った柔軟な思考があるのだと思う。あるものをありのまま淡々とこなす姿に、たまに不安を抱きながらも、何処かで“頼りたい”と感じていた。
 しかしは他人へ依存しないように努めていた。誰に対しても友好的でありながら、傾き過ぎないようにバランスを量っていた。深く情を抱きすぎてはならないのだと思っていた。
 長年の癖であり、これが“逃げ”であることも重々承知の上で。

「さすがの荒垣さんも子ども時代はやんちゃだったりして。うわぁ想像できね……!」
「――
「はい?」

 しかし、最近自覚し始めていた。
 その“逃げ”が上手く出来ていないことを。
 原因も何となく判っていた。

「わざとらしい笑い方してるな、お前」

 今のは、人の目が見れなかった。

「……あー、いや、そうですかね」

 の答えは必然的に曖昧なものとなってしまう。
 昔から「話すときは人の目を見ろ」と教わり、育ってきた。
 しかし最近、人と目を合わせることが出来なくなっていた。ギリギリのところで、そっと視線を外してしまう。

「……何か、友達だとばかり思ってた子に、思い切り突き放されたというか。8月のあたまに。それからどうも調子が狂うんです」

 の脳裏には、ジンたちストレガの現れた8月の満月の夜が蘇った。
 ジンの冷たい眼差しが今でもフラッシュバックする。そのたび、の視線は泳いだ。
 あんな僅かな時間を共にしただけでこんなに辛いのならば、それ以上に情が重なった相手が離れていってしまったら、自分はまともでいられるだろうか?

「まあ、こっちが勝手になついてただけなんですけどね」

 荒垣は黙ったままを見ていた。
 の話に、荒垣は聞き覚えがあった。しかしそれはいささか込み入った事情があり説明する気も無い。
 ――荒垣は、の話に出る人物たちから“直接”その話を聞いているのである。

「はい、特製ラーメン二つ! おまちどおさま!」

 ラーメンが運ばれてくると、は落ち込みようが嘘のように顔を輝かせた。

「わはっ、いっただっきまーす!」

 それが空元気であることは判りきっていたが、荒垣はやはり言及しなかった。
 荒垣も何事も無かったように「いただきます」と、ラーメンに手をつけ始めた。
 ある程度麺を啜ってから、レンゲに掬ったスープを一口含む。

「っ、いて……」

 切った口の中に、熱々のスープは少量とはいえど染みない訳がなかった。

「こりゃ冷めるまで待つしかねぇな」

 荒垣のつぶやきを、は聞き逃さなかったらしい。

「ふふっ……」

 正面から聞こえた小さな笑い声に、荒垣はひっそりとつられたのであった。

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