唄を歌う魔物がいる。
 その姿を一言で表すならば、白狼。しなやかな体躯を包み込む毛並みは常に風をまとって揺らいでいた。色違いの双眸に宿る光と、顔を走る十字の傷跡は、その者の今までを物語るようだった。
 魔物は少し前からこの街・オルニオンの周囲を徘徊しているらしい。人に危害を加える訳でもなく、他に何をするわけでもなく、じっとこちらの様子を伺うだけ。
 その魔物が歌っていると最初に気付いたのは、オルニオンに住む小さな子供だ。
 ある夜、風に乗って届いた音色で子供は目を覚ました。その音色がどうしようもなく気になった。耳に心地よい、しかし何処か切ないその音が。
 親の目を忍び家から抜け出し、子供はその音色を辿った。「夜にひとりで外に出てはいけない」と普段から言われていたが、気付かれる前に戻れば大丈夫。子供はそう思った。
 そのうち、不思議な音色が唄であることと、街の外から聴こえることに気付いた。
 誰だろう。好奇心に勝てず、街を囲む柵の隙間からそっと草原を覗いたとき――きらりと光る魔物の眼差しを見つけた。
 月明かりに照らされた大きな白い狼だった。最近街の周りにいるという魔物であることに子供は気付いた。
 魔物は子供のほうをじっと見据えていた。子供も魔物を見つめ返す。不思議と恐怖は無かった。
 どうしてだろう、と子供が感じた時。あの唄が近いことに気付いた。聞き間違いかと思ったが、確かに聴こえる。
 あの狼のいるところから。

「もう、おやすみ」

 はっとした子供の耳に、優しい声が届く。歌っていた声と同じ声だ。気付けば唄は途切れていた。
 慌てて子供は家へと駆け戻り、親を起こし、興奮しながら語った。
 「魔物が歌っていた」と。
 それから度々、白い魔物の唄を聴いたと言う住人の報告があるようになった。特に襲われたという話も無い。ただ、魔物が歌っている。それだけなのである。子守唄のように優しいそれは、特に子供の興味を惹いてしまった。
 歌う魔物の存在は、街に住む大人のみならず騎士やギルドの者からしても不気味であり、不安の種であった。子供が街の外に飛び出してしまわないか。魔物が急に襲いかかってはきやしないか。心配は尽きない。
 かつてのように魔導器があれば、魔物への対処の方法は幾らでもあったろう。しかしその魔導器は、つい最近失われた。この世界の存続と引き換えに――。

「――で、その魔物を何とかしてくれってか」
「ああ」

 オルニオンの見張り台からヒピオニアの草原を見渡し、気だるそうにユーリは呟いた。隣に立つ友人・フレンの潔い笑顔と頷きに、ユーリは手すりに凭れながらぼやく。

「魔物退治なら専門家がいるだろうに」

 フレンは苦笑した。口では気が乗らないふうを装いながらも、親友が既にやる気十分であることがフレンにはお見通しなのである。
 しかしそこには触れず、フレンはゆっくりと話し始めた。

「僕も報告を受けたときは悩んだんだ。けれどどうしても引っ掛かってね……」
「歌う上に話しかけてくる、なんてか?」

 ユーリの問い掛けに、やはりフレンは頷いた。
 草の香りをはらんだ風が緩やかに吹き抜けていく。その風を受け、草原の遠くを見つめながら、フレンは口を開いた。

「言葉を話す魔物と聞いて、始祖の隷長のことが真っ先に頭に浮かんだ。けれど現存する始祖の隷長はもう、バウルとクローネスだけの筈だろう?」
「つい最近、始祖の隷長になったとかはどうだ? どんな生き物も始祖の隷長になる可能性はあるんだろ」
「……思ってもいないことをよく言えるね」

 まだるっこしいやり取りは終わりだと言うようなフレンの静かな呟きを、ユーリはさらりと聞き流す。
 確かにユーリもそんなことを本気で考えてはいなかった。行き当たりばったりな発想をするカロルや、夢見がちな思考のエステルでさえ、新しい始祖の隷長などとは思いやしないはずだ。他の仲間たちだって、きっと。
 ――唄を歌う、白い狼。
 それを聞いただけで恐らく皆は、一人の少女の姿を思い出すだろう。今のユーリと同じように。
 抱えたものを誰に知らせるでもなく、ただただ穏やかに在った、健気な彼女の姿を。

「ったく、随分長い間姿眩ましてくれてたもんだな」

 ユーリたち〈凛々の明星〉が人知れずこの世界を救った最後の戦い。
 その時を境に、ユーリたちの前から姿を消した仲間がいた。口下手で気の弱いところもあったが、芯の強い少女だった。
 あんなに可愛がっていたカロルやパティにも、誰にも一切何も告げること無く、少女は、ひっそりと消息を絶った。
 ギルドの仕事ついでに行方を探してみようにも、あてが無い。旅のついでに聞いて回ろうにも、手掛かりも無い。彼女の行きそうな場所も、しそうなことも、何も思いつかない。
 彼女のことを、知っているようで知らずにいたことを自分たちは深く思い知った。
 フレンは何処と無く遠い目で、広く続く緑を見据えている。

「僕らは“また何時でも会える”って思ってたんだけれどね」
「あいつは違ったみてーだな。薄情な奴だぜ、ったく……」

 手すりに頬杖をつきながら、ユーリは目を細めた。不機嫌を隠しもしないその表情を、フレンがひっそりと笑っているのは気付かないふりをして。

「会ったら覚悟しとけよ、

 低いユーリの呟きは、穏やかに吹き続ける風に乗って消えていった。

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