少女は、川を、傷だらけの姿で流されていた。
どうしてこんなことになってしまったのか、覚えていない。自分のことすらも、ぼんやりと曖昧な記憶でしか捉えられない。
怪我には慣れっこだ。流されているうちに、取れかけていた右腕は「くっついていた」。
しかし、陸に上がる力がない。
――このままだと死んじゃうかもしれないなァ。
そう思っていた少女の側に、ゆるゆると近づく影があった。川に住む何かだろうか。影は大きい。
――食べられちゃうのかなァ。
ぷかり。影は水面へと姿を現した。それは蛙だった。ただ……少女の知る限り、規格外に大きい。赤い肌に黒い紋様。胸元に銀色に光るひし形のようなマークを身に着けていた。オシャレな蛙だな、と思っていると、蛙は口を開き、大きくて長いベロを少女へと伸ばしてきた。少女の体にくるりとベロを巻き付けると、自分の背に少女の体を導くようにして、川原を目指した。
――この蛙さんは、どうしたのかなァ。
ひんやり冷たいぬるりとした体に身を任せ、少女は遂に陸へと運ばれた。蛙は慎重に少女を下ろすと、ぼんっと音を立てて煙に紛れて消えてしまった。
「あ……」
――助けてくれたのにお礼も言えなかった。
少女が体を起こそうとした時、
「動かない方が良いですよ」
と、男性の声がした。
声の方を振り返った少女は、初めてそこに人間がいることに気づいた。二人の男性が立っている。その装いがまた、少女にとっては見慣れないものだった。
一人は金髪碧眼。レンズが三つある眼鏡。顔の下半分を覆う口布にスーツ姿。ボリュームある髪を一本結いでまとめ上げている。
一人はきつい三白眼につんつんと跳ねた白い髪。逞しくも引き締まった体躯を黒い上着と白のズボンで包んでいる。
声を掛けてくれたのは、金髪の男らしかった。彼が続けて口を開く。
「どうしたのですか、そんな傷だらけで」
「……よく覚えてなくて……」
少女に目線を合わせるように男たちは片膝をついて顔を覗き込んできた。ふたりの視線にきょろきょろと律義に反応しながら、少女は瞬く。
「あの蛙さんはお知り合い? どうして助けてくれたの?」
「あれはまあ、確かに知り合いみたいなものです。使い魔とでも言えば分かりやすいでしょうか」
「傷だらけの人間が川を流れてたらそりゃ助けるだろ」
当然のようにそう語られて、少女は驚いた。驚いたということは、こういった善意から離れて久しいのだということでもあった。思い出そうとすると、頭の奥がズキリと痛んだ。
「うぐっ……」
少女が頭を押さえると、お頭、と金髪の男が呟いた。お頭と呼ばれた男は、頷き、少女を抱き上げる。
「ちょっと我慢してくれよ。すぐ手当してやっからな」
「放っておけばだいじょうぶ……」
「大丈夫な顔色じゃねえよ」
そんなに酷い顔をしているのだろうか、と少女が不思議がっているうちに、もっと不思議なことが起こった。
男二人の移動スピードは、尋常ではなかった。足が速いという概念を超えている気がした。
あっという間に集落らしいところへと辿り着き、まばらながら人のいる場所へと来た。
あれよあれよという間に少女はテントの中の寝台に寝かされ、医師らしき人物から怪我の手当を受けた。
「ありがとうございます」
少女がぺこりと頭を下げると、医師も、男二人組も、「気にするな」と笑った。
見ず知らずの人間を助けてくれた彼らに何度も少女は礼を言った。 医師が去ると、白い髪の男が口を開いた。
「オマエ、名前は? 俺はチップ=ザナフ。こっちはアンサーだ」
「チップとアンサー」
「そう。で、オマエは?」
少女は困った。自分の名前を思い出せないのである。恩人の問いに対して答えが用意できないことを少女は悩みに悩み、しょぼくれた声で告げる。
「ごめんなさい……。分からないの……」
「分からない? 覚えてないってのか?」
「うん……。でも生きてきたのは覚えてるの。でもでも、名前あまり必要じゃなかったから……」
「んん? どういうこった?」
「ごめんなさい……」
チップの疑問ももっともだと少女は落ち込んだ。自分でも訳の分からないことを言っているのは分かる。
すると、アンサーが助け舟を出してくれた。
「怪我で消耗して記憶が混濁しているのかもしれません。少し安静にさせましょう」
そう、きっと助け舟なのだろう。少女は思った。だが。
「ごめんなさい……。もう長いこと記憶がぼんやりしてて。怪我は大丈夫、治って来てるから」
「……名乗れない事情でも?」
「事情があるとしたら、忘れてしまった、としか言えないの。本当なの」
自分のことを忘れてしまうほど、少女は長い永い時間を生きていた。
いつも虚ろで、生きる意味もわからず、世界を彷徨っていた。
こうして他者と接することも随分久々で、失礼が無いかと怯えながら口をきいていた。
少女の困惑の表情に、いよいよ本当らしいと察した二人は、顔を見合わせた。
そして先に少女へ向き直ったチップが、こう言う。
「じゃあ俺たちで名前を決めても良いか?」
「え……」
にかっと微笑むチップに、少女はおずおずと頷いた。
了承を得るなり、チップは早速提案する。
「そうだな……。『カエル』はどうだ?」
「いいよ」
「よくありませんよ!」
すんなり決まりそうなところを慌ててアンサーが割って入る。
「何でよりにもよってこんな少女に両生類の名前をつけようと思ったんですか! お頭!」
「え? ほら、お前が口寄せの蛙で助けたから……」
「あ~! 私のせいか~……!」
頭を抱えたアンサーは、「カエルは止めましょう」とチップに伝える。少女にも「あなたも抵抗してください」と。
二人は揃って頷いた。
チップは少女と再び見つめ合った。
「好きなものはあるか? 花とか、景色とか」
「……桜とお空」
「じゃあ『ミ』だ!」
「却下です!」
少女が頷くよりも早く、アンサーがチップを止める。
「なんでだよ」
「なんでって……分からない時点でもうお頭には任せられません……。私が考えます」
少女は不機嫌そうなチップと溜息を吐くアンサーを見つめながら、首を傾げ続けていた。
……その日は、体を休める様にと二人の計らいにより、少女はそれ以降ベッドで横になっていた。
アンサーが彼女に「名前」を持ってきたのは、翌日のこと。
「どうですか、調子のほうは」
「ありがとう! だいぶ楽になったよ」
「それは良かった」
少し遅れてチップもやって来る。
「お。顔色良くなったな!」
「おかげさまで!」
傷だらけだったはずの少女がほとんど無傷になっているのを、二人は当然気づいた。しかし言及はしない。どういう事情があるかはともかく、勘の鋭いチップは彼女に全く敵意や戦意がないことを分かっていたし、アンサーもまた同じであった。
長いこと落ち着いて休むことを知らなかった少女にとって、一晩にしてここは「安全な場所」としてインプットされていた。
無警戒の少女を見て、アンサーは口を開いた。
「約束通りあなたの名前を考えてきました」
「うん!」
「嫌だったら嫌だと言ってくださいね?」
眼鏡を人差し指でくいっと上げながら、アンサーは言う。
「……」
少女は繰り返す。
「?」
「そうです。。どうでしょうか?」
「……うん!」
少女は大きく頷いた。
「! ありがとう! 私は今からだね!」
満面の笑みを浮かべる少女を見て、チップとアンサーも笑った。
「何だよアンサー。俺と大して変わらねえじゃねえか」
「大違いですよ。カエルやミと一緒にされたらたまりません」
が寝台から降りて、嬉しそうにチップとアンサーの周りを跳ねて回る。
「カエルでも良かったかもしれねえな」
「せめてウサギとでも称しましょうよ。こら、病み上がりなのにあまり動き回らない」
「だって嬉しいんだもの!」
振り返ったが泣いているのを見て、アンサーは声を詰まらせた。
チップは、彼女が自覚なしに泣いていることにすぐ気づいた。涙を零しながら万歳をするを見て、優しく微笑む。ひとしきり跳ね回って満足したらしいの頭を撫でると、彼は言った。
「、改めてよろしくな。そしてようこそ東チップ王国へ!」
こうして、東チップ王国に新たな国民が一人増えたのだった。
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