いきなり見知らぬ人に突き飛ばされて、私はアスファルトの床に倒れ込んだ。痛かった。眼鏡が飛んでいって、ただでさえ暗い夜道が更に恐ろしいものに思えた。
「な、何ですか……」
掠れた声を絞り出して、私は、私を突き飛ばした人を見たつもりだった。ちょうど月明かりのある方角だった。
――瞬間、真っ黒な影が乱入してきて、真っ赤なまっかな血が視界を染めた。
文字通り本当に真っ赤だった。乱入者から、蠢きながら尾のようなものが生えて、剥き出しの内臓みたいに脈動していた。それが全部を真っ赤にしてしまった。私を突き飛ばした人の悲鳴がして、次第に悲鳴が消えて、ひたすらに肉を槌で叩き潰すような、包丁で刺し続けるような音がした。
私は、乱入者が人ではなく“喰種”であることに気付いた。あの蠢く触手は、たしか、かぐね。赫子。
赫子は辺りを真っ赤にするために、私の目の前で人間をぐちゃぐちゃにした。楽しそうに笑いながら、でも苛立ったような声を上げながら、“喰種”は赫子を振るった。ぐちゃぐちゃにされているあれは本当に人間なのかな、どうだったかな、判らないな。だってぐちゃぐちゃなんだもの。たまたま居合わせた人の顔なんて、一瞬見ただけの人の顔なんて、思い出せる訳がない。
乱入してきた“喰種”は大きかった。とても大柄だった。吹き飛ばされた私の、眼鏡を壊されてぼやけた視界でもそれはよく判った。
私はおそらくその“喰種”が立っているであろう方を見上げていた。月明かりを背負った大きな“喰種”は、私を見て、さっきまで上げていた笑い声をぴたりと止めた。
「……かあさん、大丈夫だった?」
心配げに、“喰種”は私にそう問い掛けた。男のヒトの声だった。
私は瞬きした。
私には子供はおろか、恋人すらいない。おまけに私は人間……。
何かこの“喰種”は勘違いをしているようだった。
でも私を案じてくれている。
つまり“喰種”は、私を助けてくれたということ?
「あ、有難うございます。でも私、あなたのお母さんではないです……」
素直に礼を述べて、誤解も解こうと私は口を開いた。
すると目の前の“喰種”は、ああ、とぼんやりした声を漏らした。
「そうだよね。うっかりしてた。母さんがいる訳無いのに……馬鹿なことをしちゃったよ」
「いえ、その、助かりました。本当に有難うございます」
「……馬鹿な子だなァ」
低い笑い声がした。彼は、少なくとも私に危害を加えるつもりは無いようだった。
逆光と、私の低い視力のせいで、どんな姿をしているヒトなのか全く見えない。不意にその影が動いて、バキリと何かが割れるような音がした。
「眼鏡と携帯電話。一応壊させてもらったから。これで見逃してあげる」
「は、はい……」
「本当に運が良いよ、君。良かったね」
「あ、ありがとうございます。本当に。助けてくれて……」
私が再び礼を言うと“喰種”は、私に近付いてきた。コツコツと革靴の底がアスファルトを叩く音がして、それから彼は、私に顔を寄せてきた。暗くて見えない。見せないようにしているのが、馬鹿な私にも判る。
「最後にもうひとつ、良いかな」
「はい?」
私の耳元で“喰種”が囁く。
「 」
私は目を丸めた。
予想もしない言葉だったから。
思わず、相手が“喰種”だということも忘れて聞き返してしまう。
「そんなことで良いんですか? 命を助けて頂いたのに……」
「僕の気が変わらないうちに素直に聞いておいた方が良いよ」
「あ、はい……判りました。じゃあ――」
――その後、彼は私を殺すことなく去って行った。どこの誰が通報してくれたのか判らないけれど、程なくして警察、それから喰種捜査官がやって来た。私を突き飛ばし、大柄な“喰種”に殺されたのは、人間ではなく“喰種”だったということが判り、私は質問攻めにあった。
血飛沫と細かくなった肉で汚れていたものの、私に怪我がないことを不思議がられ、私は様々な検査を受けた。それからその人たちは色々なことを聞いてきた。けれど、私には殆ど答えられなかった。早々に視界は奪われ、あっという間に何もかもが終わってしまっていたから。
何も判らない私には謝ることしか出来なかった。
ただひとつ言えたのは、
「私を助けてくれたヒトは、喰種だったんです」
それだけ、だった。
信じてもらえなくても、それだけが真実だった。
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