仕事が延びてしまって、帰宅時間が遅れてしまった。誰にでもよくあることだ。
 今、路地裏に曲がっていった女性も、きっとそんな理由があって、こんな時間に一人で夜道を駆けているのだろう。
 しかし彼女は他者に比べて運がなかった。

「いいニオイ」

 ビルの屋上で、ニタリと笑む影がひとつ。背は高いが肉付きの悪い男であった。正しく言えばそれは人ではない。男は背中からブチブチと音を立てながら、触手のようにうねる赫子を生やした。男はこの辺りを餌場とする“喰種”だった。
 可哀想に。彼女は“喰種”の餌場に迷い込んでしまったのだ。
 男がコンクリートの床を蹴り、女性の目前へと飛び降りる。

「わあっ!?」

 突如現れた“喰種”に女性はいたく混乱した。腰よりも長く伸びた髪の毛と、彼女の纏うワンピースが、風圧で勢いよくはためいた。女性が状況を理解するより先に、“喰種”の赫子が振るわれ、彼女の体をビルの壁に叩き付ける。

「がは……っ、うぅ……」

 衝撃で一瞬呼吸が止められ、次いで激痛に襲われ、女性はただ呻くしか無かった。彼女の物と思われるポーチや、掛けていたであろう眼鏡が乾いた音と共に地へ転がっていく。

「イイ、いいニオイ。形も悪くはない……ラッキーだぜ」

 上機嫌に赫子を揺らしながら“喰種”は女性へ迫る。
 男はこれから始まる食事に思いを馳せた。腕からにしようか? いや、足からにしようか? その前に女としてコレはどうか、試してみるのも良いかもしれない。……そうだ。そうしよう。何せ久々の食事。しかもこんなに“美味しそうな”人間なのだから。
 吹き飛ばされた衝撃で女は動けない。ただただ焦点の合わない瞳で、的はずれな場所へ視線を注ぐのみだ。
 ――目が悪いにしても、視線の方向がおかしくはないか?
 男がそう思った時だった。

「みぃ~っつぅけぇましたぁ~!!」

 場違いな歓喜の声が響いた。もちろん男のものではないし、目の前にいる女のものでもない。
 ならば、何処から。
 そこまで考えた男の背中に、無数の針が突き立てられるような激痛が走った。

「ぎゃあああああ!」

 頑丈な“喰種”の体に傷をつけることが出来るものは、この世にほぼない。
 同じ“喰種”の赫子、あるいはその赫子を利用して人間が作った武器・クインケでなくては――。
 五感に優れた“喰種”の鼻は、自分を傷つけた者が人間であることを察した。
 美味しそうなニオイがふたつに増えている。しかしこの女の後から現れたそのニオイは、そこらの一般人とは違う。
 先ほどと同じ声が、クスクスと笑いながら近づいてくる。

「大袈裟ですねえ、まだまだこれからですよー」
「て、てめえ……!!」

 喰種捜査官。通常“白鳩”と呼ばれる、対喰種のスペシャリストである。彼らはクインケを操り、人の身でありながら“喰種”を駆逐する存在だ。
 男が振り返ると、真っ白な髪と肌の少年が立っていた。小柄なその背丈は男より頭1つ分は小さい。
 少年は、まるでお手玉のようにくるくると数本のナイフを手で回しながら、男を見てニコニコと笑っている。

「ダメですよーダメですー。見逃せませ~ん。僕、喰種捜査官ですからぁ」

 少年の見掛けに“喰種”はすっかり油断した。今さっきは不意打ちだったから反応出来なかっただけで、相対せば間違いなく此方が上だと信じた。
 しかしそんなのは彼の思い過ごしであった。
 ――人とは思えぬスピードと身のこなしで男の攻撃を回避した少年は、幾度となく男にナイフを突き立て、肉を切り裂き、抉り、分解していった。

「あぎゃ、ぎあ、ああああ!」

 男の断末魔が響く。ナイフは止まない。男が言葉らしいものを吐けなくなり、挙げ句に声すら出せなくなり、動かなくなっていく。少年は止まらない。「死にますか? 死にましたか? 死んだ? 死んだ? まだ死ぬな~がんばれがんばれがんばれよぉぉお!」叫びと笑いを混ぜこぜに発しながら、少年は“喰種”を細切れにした。
 ……切るものが無くなったことに気づくと、少年ははたと止まった。そして、ようやく女性の方を見た。

「ご無事ですか~?」

 少年――鈴屋什造が笑うと、それまで呆然としていた女性は、こくりと頷いた。

「はい、おかげさまで」

 女性もまた、笑っていた。
 相変わらず彼女の視線は、的はずれな場所へと向けられていた。
 それから10分もせずに、他の捜査官や現場処理係の人々が駆けつけた。
 駆けつけた人々は、血塗れの什造と女性、現場の惨劇に目を剥く。
 その中でひとりだけ落ち着いている男性が、被害者に声を掛ける。体格のいい、優しい目をした人だった。どうやらこういった現場には慣れているようだ。

「君、怪我はない?」

 焦点の合わない目で、女性は必死に捜査官を見ようとした。金とも銀ともとれる色素の薄い髪と、真っ白な肌。そして淡い緑がかった灰の瞳が、日本人離れした印象を与える。
 血塗れながらも、彼女は大して具合が悪い様子もなく頷いた。

「“喰種”に吹き飛ばされた時に体打ちましたけど、何とか帰れそうです」
「えっ!? いやそれは一応病院に行った方が良いから……帰るのはちょっと待って」
「有難うございます。えっと……」
「ん? ああ、私は篠原幸紀。君を助けた鈴屋什造の上司兼パートナー……なんだけど」

 頭を掻きながら、篠原は訊ねた。

「もしかして君、目が悪い?」
「はい。眼鏡、吹き飛ばされた時に飛んじゃったみたいで」
「じゃあ近くにあるかも……。什造! その辺に眼鏡転がってないか?」
「はいー?」

 呼び掛けに答えた什造が振り返り、一歩踏み出す。
 ――ばきん。
 何かが壊れる音がした。
 篠原は何となく状況を察し、額を押さえた。

「……踏んじゃったね」
「……踏んじゃいましたー」

 えへらえへらと笑いながら什造は右足を上げた。レンズが割れ、フレームの歪んだ眼鏡が見える。
 篠原は申し訳なさそうに女性へ向き直った。

「ごめん……。うちの什造が、君の眼鏡を壊してしまった」
「いえいえ、吹き飛ばされた時点でダメになってたと思いますから。それに、一番大事なものは、鈴屋さんに助けて貰いました」

 彼女は胸を押さえながら、微笑む。

「命、なくさずにすみました。本当に有難うございます」

 惨劇や襲撃の恐怖など微塵も滲まない、本当に穏やかな表情だった。今さっきまで命を狙われていた人間の浮かべるものとは思えない。
 あまりに落ち着いた彼女の姿に、篠原は面食らった。どう対応したら良いものか彼が珍しく悩んでいると、ひょいひょいと跳ねるような足取りで什造が近付いてきた。

「はい~、お姉さんの荷物です。入れ物はちょっと血がついちゃいましたけど、中身は無事でしたあ」
「有難うございます、鈴屋さん」
「どーいたしましてです」

 笑う什造からポーチを受け取った女性は、ハッとしたように目を見開いた。

「申し遅れました。私、です。助けて頂き本当に有難うございました」

 そう言って頭を下げるを見て、篠原は気の抜けた笑みを浮かべる。全く恐怖を感じていない彼女へ、一先ず彼は提案した。

「……じゃあ、病院に行きますか。ちゃん。お話はその後で」
「はい」
「レッツゴーです」

 什造に手を引かれながら、はふらふらと歩き出した。
 二人の髪色と雰囲気のせいだろうか。什造との並ぶ姿は、まるで姉弟のように見えた。

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