篠原の退院を祝って、はカップケーキを焼いて出勤した。
 誰かの心配をし、誰かの祝い事をし、誰かのことを常に考えられるのは幸せだ。
 いくらでも自分を疎かにして、大切な誰かのために身を削りたい。にとっての情や愛は、そういうことだった。
 昔からご飯を食べないのも、大して眠らないのも、だいたい慣れている。
 優しい両親を失い、優しい親戚に見守られ、厳しい社会の波に飛び出して。ずっと昔から、優しさに守られながら、最低限の食事と睡眠を得、細くほそく生き延びてきた。これからもきっとそうだろう。
 自分を気にかけてくれる誰かの為だけに最善を尽くす。

「篠原さん、ご退院おめでとうございます!」
「ありゃまあ丁寧にわざわざありがとうな、ちゃん」

 ぺこりと頭を下げるに微笑みながら篠原は言う。

「お見舞いにも何度も来てもらったし、悪いねぇ」
「いえ。尊敬する恩人の入院とあっては当然です」

 顔を上げたの眼差しはキラキラとしていて、嘘を言っているようには見えない。それでも以前に比べてやつれてこけた頬が、篠原の胸に小さな不安を生んだ。
 ――什造も言ってたが、この子は……。

「ちょっと一緒に出ようか。たまにはのんびりちゃんとも話をしたい」
「はい」

 什造の姿はない。恐らくまた何処かへ繰り出しているのだろう。たまには什造抜きでもいいか、と篠原はケーキの箱を机に置いた。が外出の準備を済ませて戻ってきたのを見て、共に〔CCG〕を出た。
 今日の空は薄曇り。雲越しの陽光はそれなりに強く、雨にはならないだろう。二人で歩きながら、世間話を続ける。篠原が入院していた間の職場や什造のことが主だった。何度か言葉を交わし什造はきっとまた動物園にでも行っているだろうと結論が出たところで、篠原は足を止めた。

「この喫茶店、なかなか良いんだ」
「私、今までこんなお店があるの知りませんでした」
「じゃあちょうど良かった。入ってお茶にでもしよう」
「はい」

 はそっと店内を見渡すと、ぽつぽつと客がいた。誰もがスーツ姿で、仕事の合間に息抜きに来たサラリーマンのように見えた。だが一部の客の足元に見慣れたアタッシュケースがあるのに気づいて、ここは捜査官がよく来る店なのだろうとひとり納得する。煙草とコーヒーの香りが漂う、静かな喫茶店。「軽食もあるから」と篠原が笑う。はとりあえず、はい、と微笑んで頷いた。
 席に着くと篠原は早速コーヒーを注文し、も同じものを頼んだ。すぐに二人分のコーヒーが運ばれてくる。篠原がカップに口をつけるのを見て、もそっとコーヒーを飲む。ほろ苦い。

ちゃん、ちゃんと休んでないだろう?」
「え?」

 唐突な篠原の問いに、は目を真ん丸にした。コーヒーを零しかけて、慌ててカップをソーサーまで戻す。
 休んでいると言えば嘘になる……かもしれない。什造と篠原の怪我を聞いて、気が気ではない日々を過ごしていた。ふたりが復帰するまで自分なりに頑張ろうとデスクワークも自主訓練も懸命に取り組んだ。ふたりが復帰してから何をお祝いに作っていけばいいかと悩んで色々なレシピを試した。眠れないのは元々そういう性質だからと気にならなくなって久しい。……悩みに悩んだは、ぽつりと溢す。

「そんなに眠らなくても、昔から動けるんです。……眠るのが怖いと言った方が的確なのかもしれません」

 篠原はじっとの声に耳を傾けてくれている。その眼差しからは自分を心配してくれているのがひしひしと伝わって、何とも言えないこそばゆさをは覚えた。だが、嫌ではない。寧ろほっとするような……そう感じて、はハッとした。誰かに心配されたことで無自覚のうちに緊張を続けていた心が解けかけたのに気づいて。同時に自分に失望した。迷惑をかけまい、恩を返さねばと必死だったつもりが、逆に心配をかけてしまっているなんて。落ち込んだ彼女は言葉を続けられなかった。
 篠原は当然、それに気づいた。

ちゃん、無理しちゃいけないよ。眠れない、食事もとれないじゃあ、死んでしまう。捜査官になるどころじゃない」
「私は……そんなに食べられないんです」
「食べるのが怖い?」

 の肩がびくりと跳ねたのを見て、篠原は何となく合点がいった。

「ずっと勘違いしててごめんな、ちゃん」
「な、なにがです?」
「初めて会った時、喰種と会っても笑っていた君を見て、誤解してた。君は怖がらないんだって。悪かった」
「いえ……どうして篠原さんが謝るんですか」

 の経歴を知ってから、何度か篠原はという人間について考えてきた。その答えが明確になった。
 自分に無頓着で、命の危機に瀕してもどこか他人事だったのは、それだけ自身の人生に興味がなかったから。
 それが什造に助けられ、自分の命が『救われた』ことにより、彼女は自分の命が救われるだけの価値を見出そうとした。
 自分のためではなく、誰かのために身を削り尽くす。そうすることで、は自身の命に少しでも価値を付与しようとした。恩を返すため。什造が助けた命が無意味にならないため。捜査官を目指しているのも恐らく、そのひとつだ。
 目に見えて恐怖を訴えることがなく、目の前に刃が振り下ろされても眉一つ動かさないのは、肉親の死を間近で体験し、自分もそういうものなのだと諦めていたから。本当に諦めていたから怖がらない。
 でも、什造たちのために行動していくうちに、恐らくその諦めが薄れた。諦めてしまっては、救われたことを無駄にしてしまうから。諦めが薄れて、は、恐怖を思い出した。よみがえったその感情は、の知らないうちに体に支障をきたし始めた。
 眠るのが怖い、と彼女の口から聞けたのは良かった。そのおかげで篠原のこの推察は確定的なものへと変わったのだから。

「表情や態度には出なくても、怖がることを知っているから、今も怖がっているから、眠るのも食事も怖がって上手くできなくなってるんだと思う。怖いと表現することを思い出したんだね、君は」

 篠原の言葉はにとって衝撃だった。
 誰かの心配をし、誰かの祝い事をし、誰かのことを常に考えられるのは幸せだ。いくらでも自分を疎かにして、大切な誰かのために身を削りたい。昔からあまり食事をしないのも、大して眠らないのも、だいたい慣れている。
 自分を気にかけてくれる誰かの為だけに最善を尽くす――……つもりだった。
 それが、最近上手くいかない気がしていたのは、篠原の言うとおり、自分の中に“恐怖する”という感情がよみがえったから。恐怖とは心身に影響を及ぼす。
 恩人が傷つくのを何度も見て、誰かの為に尽くしていたつもりでしかなかったことを見せつけられ、心は大きく揺らいだ。
 最近になって価値がつけられたこの命は、このまま眠って明日ちゃんと目を覚ますことが出来るだろうか? 眠らずにベッドで丸まっていると、死んだ父と母の姿を思い出した。自分より確実に価値があったはずの命に守られて生き延びてしまっている命に今更価値をつけてもいいのだろうか? 果たして無価値な命が、誰かの役に本当に立てるのだろうか? 悩みは睡眠のみならず食欲を侵した。自分に眠ったり食事したりする暇は本当にあるのかと悩んだ。正直、毎日ミスなく過ごせているのが驚くほどだった。気力を振り絞って何とかやり過ごしていた。
 しかし。

「……そうですね、私、怖がりになってきてしまいました。篠原さんや什造さんが怪我しても、私、机仕事しかできない。お見舞いしかできない。役に立たないって思ったら、いろんなことが怖くなりました」
「役に立たないなんて自分を決め付けちゃいけないよ。怖がることはなにも悪くないんだよ。人並みの感情を持って、幸せになって欲しいって前にも言っただろ?」
「はい、でも、どうしてもわからなくて。私にはこういう生き方しかしてこなかったから。什造さんも気にしてるのに気付いて、どうにかしなきゃと思って、そうしたらますます怖くて訳がわからなくなっていって……」
「なに、簡単なことさ」

 コーヒーを啜って、篠原は微笑む。

ちゃんは誰かの為に何かすることが幸せなんだろう? とても健全なその思考の『幸せ』にスポットをあててみるんだ」
「スポットを……」
「たとえば、什造を喜ばせるためには健康じゃないと大変だぞ。奇想天外予測不能なヤツだからな。グッスリ眠ってしっかり食べて、什造の無茶ぶりへ応えられるよう構えておくんだ。……まあ、アイツの無茶ぶりにNOと言える勇気も必要だけど」
「そ、そんなこと……」
「して良いんだよ。一度だけの自分だけの人生なんだから。窮屈にしないで、もっと自由にしていいんだ。誰かを幸せにするのは簡単なことじゃない、自分も幸せにならなくちゃいけない。怖がっても悩んでもいいんだ。人間そういうものなんだから」

 実際私も、喰種と戦うのは怖いからね。そう苦笑する篠原を、はじっと見つめる。
 以前の自分ならきっと、篠原の話を理解できなかっただろう。瞼を伏せ、はぎゅっと両手を握り締めた。
 不眠と拒食で不安定な心はむき出しになっていて、正しく機能し始めていて、だからこそ篠原の言葉が受け止められた。納得できた。
 誰かの為に最善を尽くす。それは変わらない。変えなくていい。
 でも、そのために自分を蔑ろにすることはあってはならないのだ。
 そうだ、自分を蔑ろにしてくたばってしまっては、それこそ救われた命を無駄にすることになる。篠原たちを悲しませることになる。

「私は、たぶん、自分が死ぬのは消えることだと勘違いしていました。死んだからそれで終わり、文字通り消え去るんだって。でもそんなの出来たら、とっくに死ねていたはずですもんねぇ……」
「気づいてくれて、生きてくれていて良かったよ。だからこれからはもっと、自分を大切にしてあげような」
「はい。おかげで、こうやって篠原さんたちにお会いできましたから」

 は嬉しかった。普通に笑って、普通に怖がって、普通に幸せを感じていいのだと、篠原との語らいで教えられた。
 人が変わるときはこうも唐突なのかと驚いたが、嫌ではない。
 感情を押し潰してきた今までとは違う心の波。張りつめていたものが解れて、こわばりが無くなっていく。
 ――誰かの為に、まずは自分を大切にしてあげよう。
 篠原の言葉を噛み締めて、改めては笑う。

「幸せです。そして、この幸せをずっと続けられたらなって思います」

 誰かの幸せを見ることが、私の幸せ。誰かと私、ふたつでひとつの幸せをずっと続けるために。
 の笑顔に、篠原も安心したように頷いた。
 それからはフレンチトーストを注文し、数日ぶりの食事をとった。少し胃には堪えたが美味しくて、涙ぐみながらは、什造にもこの店とこのメニューを教えてあげようと決めた。
 珍しく人前で食事を行う部下を、篠原は温かく見守り続けた。


 以来、は、他者を思うからこそ自身の心身を整えることを誓った。これから本当の意味で誰かの為に尽くせる、そう彼女が喜びを噛み締めたのも束の間、〔CCG〕は新たな作戦の決行を発表する。
 ――“梟”討伐作戦。
 対象の居所は20区にある喫茶店・あんていく。
 SSS級“喰種”の駆逐作戦だった。

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