――ツユクサ。夕日。トンボ。うろこ雲。どれがどの季節のものだったか、よく覚えていない。ただ幼い頃によく追いかけていたなあと、見上げていたなあと、そう思えるものたち。何だかさみしい気分になったから、きっと夏の終わりとか、そのくらいだろう。
 ――子供の頃か。
 鉛筆がころりと手のひらから転がり落ちる。ああ、と拾おうと伸ばした手より若干遠い位置へ転がってしまっていたそれは、ではなく什造が拾い上げた。

「どーぞチャン」
「有難うございます」

 の手に鉛筆を返し、ニッコリ微笑む什造。も微笑み返し、会釈した。
 ふたりは動物園に来ていた。以前が、什造の昇進祝いにお菓子や料理を振舞った際、「今度一緒に動物園行きたいです」と言っていたのを実行するために。予定を合わせようとしているうちに、什造と上司の篠原の負傷も重なり実現まで時間がかかって今になってしまった。
 普段はひとりで来ることが多いという動物園に、誰かと来れたことがよほど嬉しいのか、什造の笑顔が尽きる様子はない。彼の腹部の傷は、当時見せてもらった際は卒倒するほど深いものだったが、すっかり良くなったのか元気そうだ。はほっと胸を撫で下ろす。
 ……は、そんな什造と共に『お絵描き』に興じていた。
 キリンの檻の前でしゃがみこんだ二人は、それぞれスケッチブックを抱えて思い思いのキリンを描くことに決めた。クレヨンをふんだんに使い、紙いっぱいにキリンらしきものを描き込んでいく什造の隣で、は迷いながら鉛筆を動かしていた。真っ白な紙の中央に、小さなちいさなキリンの目を一対描くと、それを何度も何度もなぞっていく。そこから進めなかった。なぞりすぎて紙に付着しきれなかった鉛筆の芯が粉になってぽろぽろ零れていく。慌ててそれを手で払ったが落ちなかった。払う手の仕草どおりに粉が動いて紙にぴったりくっついて緩やかな弧を描く。汚れてしまった。でも、消しゴムを使う気になれなかった。これ以上何も描けない気がして。
 鉛筆を持ったまま、スケッチブックを見つめて硬直してしまったを、什造は不思議そうに見つめた。

「どうしたんですか、チャン」
「……いえ、その……絵って難しいなって」
「んー?」

 什造はのスケッチブックを覗き込んだ。伏し目がちのキリンの目だけが描かれた紙。双眸とは無関係な広がりを見せる弧。目の部分は何度も何度も芯で潰されて、紙も凹んでしまっていた。什造は自分のスケッチブックへと視線を戻す。様々なクレヨンで溢れんばかりのそれ。同じ生き物を見て、同じタイミングで描き始めたのに、こんなにも変わるものなのだろうか? 什造は首を傾げる。

チャン、絵、苦手ですか? どうして目だけなんです?」
「うーん……。何でか、自分でも判らないんですけど……」

 は苦笑しながら、鉛筆を動かした。また目をなぞっている。

「何て言うか、私にとっては、生き物の『目』って多分強烈なんです」
「きょうれつ、ですか」
「はい。目は口ほどに物を言うとか、あるじゃないですか。単純に私に絵心がないのもあると思いますけど、目を描いたら、それ以上、どう手を付けたらいいかわからなくなってしまって」

 目。め。眼。抽象的なの言葉は、何となく什造の胸にも引っかかった。たくさんの目を見てきた。たくさんの目に見られてきた。それがどんなものだったか、どんな思いを齎したか、什造はしっかりと覚えている。覚えて生きてきているから、今、こうしている。
 ――目は口ほどに物を言う。
 もまた、他人の『目』に様々な思いを抱きながら生きてきたのだろう。その結果が、什造ですら気付くほどの自己への無頓着さであり、他者への異常な崇拝であり、何か根底のものが“無い”という笑い顔なのだろう。什造が共に食事することをねだらなければ彼女がろくに食べることすらしないのも、きっと。
 ――僕に隠れて吐いちゃうときもあるの、知ってるんですよ。
 そこまで自己を希釈したがることが普通ではないことを什造は知っている。

チャンは目が怖いですか」
「怖い、んですかねぇ……。怖いのかもしれませんね」
「だったら、またキリンさん描き直してみるです。今度は目以外のところから描くです」
「それもまたむつかしそうですけど」
「だいじょぶですよ。絵に正解なんて無いんですから気にしないでいーんですよ」

 渋々ながらは紙をめくり、新たにキリンの絵を描き始めた。今度は輪郭から。たとえ乗り気ではなくても什造に言われたのならば従うのが彼女だ。什造はの鉛筆がさらさらと動いていくのを目で追った。什造の絵に比べるとの描くキリンは何だか窮屈そうだ。紙のスペースを大いに余したまま、はキリンの輪郭を描き上げてしまった。それから、目だけが抜け落ちたキリンの顔にじっと向き合う。
 の困惑に満ちた顔を、什造はまじまじと見つめた。額に汗を滲ませてまで紙に向かう彼女を、静かに見守った。
 ……ぐりぐりと鉛筆を動かし、ようやっとは目を描き終える。何度か手で擦れてしまって、顔が靄がかったキリンになってしまったが、さっきの目だけの絵に比べればずっと良いと什造は思った。

チャン、絵描くの上手ですね」
「そ、そうですか? 見たまま描いてるだけでなんの味気も無いですよ? 什造さんみたいに絵心無いし……」
「確かにそのまま描いてるだけですけど、何だか目のトコをグリグリしてるの見てると親近感わきます。チャンも断面図とは解体図とか想像して楽しいですよね?」
「えーっと、キリンは解体したことないのでわかりませんけど……想像するの、楽しいかも」
「ですよねぇ、未知に満ちてますよねぇ、好奇心のカタマリです」

 笑い合っていた二人は、不意に笑みを消すと背後を振り返った。
 たくさんの人込みに紛れて、少しだけ違う空気を察した。二人は視線を巡らせ、ほぼ同時に異なるそれの正体へ目星を付ける。「チャン」「はい」広げていた絵描き道具を全部鞄へしまい、は、歩き出した什造に続いた。鉛筆を一本しまい損ねたが、拾うのも煩わしくてそのままに。
 什造ののんびりとした歩みに合わせ、はやや後ろをついて歩く。動物園を出ると、マークしたものを追いかけて、これまたゆっくりと歩いて行った。わくわくを堪え切れないふうの什造には思わず笑みをこぼす。足取りは軽く、眼差しはきらきらと、しかし鋭く。
 楽しい時間はあっという間だ。みるみるうちに日は傾き、薄暗くなっていく。

チャン、今日のお夜食は」
「お腹に優しいおじやにしましょう」

 夕食どころか夜食に話が飛んだのは、夕食を食べる暇が無くなるから。
 動物園で目星をつけた人込みとは別種のものを――“喰種”を、二人は生き生きと追いかける。そして、追われていることに遂に気付いたらしい対象は、突如脇道へと入り込んでいく。このまま二人を撒くつもりらしい。

「什造さん、私が曲がります」
「じゃあ僕そのまま行きますね」
「はい、それでは」

 すれ違いざまにサソリを一本受け取ったは微笑んで別の脇道へと入っていった。什造もまた笑顔で見送り、そのまま対象を追いかける。血の匂い。得物を探る目つき。何より本能的に勘が騒いだ――……。什造がそうやって追跡して外れたことはない。今回もまた当たりであった。
 狭い路地の中を、女が焦りながら駆けている。動物園で目星をつけた人物だ。

「何で逃げるんですかぁ~」
「逃げるに決まってるでしょ、そ、そのヘンなニオイ!! それにあたしが何か判ってるんでしょ、何でよ!?」
「いやいやだってアナタがあまりにそれっぽいんですもん。そーやって思わせぶりに正解自白しちゃうのもですね」

 と行動していると実に仕留めやすい“喰種”と出会う。什造は常々自分が“喰種”にとって狙いやすく見えるであろうことを勘づいてはいたが、のそれは什造を上回る。つまり二人が揃えば“喰種”への遭遇率が上がる。これを利用しては自らを撒き餌のように使い、そこを狙う“喰種”をこっそりつけていた什造が仕留めるなんて方法もとってきた。だがこの囮戦法は篠原にきつく叱られて以来、が気の毒なほど落ち込んでしまったので止めてしまった。それでも二人はそういう運命なのか“喰種”に出会いやすい。
 ひとつ不満を言うとすれば、什造にとってはあまり手応えのない相手が多いことか。
 女の目がギロリと赤く輝いた。赫眼。わかりやすい“喰種”の印。
 にぃっと什造が笑ってサソリを携えたのも束の間、女の背後に影が立った。同時にちらつく、夜の僅かな光を返して輝く小さな刃。気配を察して振り返った女喰種の目に刃が突き刺さる。
 耳をつんざくような絶叫に耐えながら、影は……は、ほっとしたように笑っていた。

「右目もらいました」

 手首を捻って女の目玉を抉り出したは、悶える女の体を蹴って什造のいる方へと移動した。

チャン、無茶しましたねぇ~」
「そんなでもないですよ、常に目標のちょっと上を狙って行動しなくちゃですから」
「ただ蹴る時は注意ですよぉ、足を掴まれたらピンチです」
「気を付けます」

 ぺこりと頭を下げたが投げて寄越したサソリを受け取り、今度は什造が女へと向かっていく。揺らめく赫子が見えたが、此方の方が早い。

「仕留める時は苦しめずに一気に、ですよねぇ!」

 ――そういえばチャンと会ってから、僕、いったいいくつやっつけたんでしょう?
 すっぱり取れた“喰種”の首が宙を舞い、ごとりと転がり落ちる。
 その様を見たは、

「やっぱりすごいです、什造さん!」

 子供のように拍手をしていた。
 それを見て、什造もとても誇らしい思いがした。それと共に、こうも思うのだ。
 青白い顔。やつれた体。少し冷たいぐらいの体温。
 ――チャン、ちゃんとした生活して生きておいたほうがいいです。
 年上とは思えない彼女を、什造は、心配してしまっていた。

「さてー、テキトウに連絡してお夜食食べるです」
「はい」

 こうしている間も誰かが何処かで死んでいる。食べたり寝たりと同じように。
 それでも、死ぬというのは面倒だ。
 が死んだらたくさん減るものがある。ご飯。おやつ。手放しの賛美。一緒に出掛ける相手。少しずつ見えてきた、自分以外の誰かの体が壊れないように願う気持ち。
 が死んだら、什造の減らしたくないものが沢山減ってしまう。
 彼女はいつも通り連絡を済ませ、動かなくなった“喰種”をまじまじと眺めていた。転がっていた目玉を踏みかけて、申し訳なさそうな顔をしてそれを摘まみ上げ、遺体の側へと置く。不思議な気遣いだ。
 ――転がしておけば後でまとめてどうせ片付けてもらえるのに。

「今日こそチャンもお腹いっぱい食べましょうね」

 血に塗れたの手を掴んで什造は言う。
 はい、といつも通りは笑って頷く。
 今日も多分彼女がちゃんと食事を摂ることはないだろうと思うと、什造の胸は何故かもやもやとして不快になった。

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