とびっきりの出来栄えとなったマドレーヌを抱えて、は今日も今日とて什造の元を目指す。出勤・仕事はついでと化していた。勿論、什造に会えなくなってはいけないので与えられた仕事はきっちりこなしている。それでもやっぱり什造のことが彼女の中では最重要事項と化していて、仕事から什造への切り替えが物凄いスピードで行われていた。什造から仕事への切り替えもまたしかり。
その途中で、は什造から連絡を受けた。けたたましい着信音にあたふたと携帯を取り、これまた慌てて電話に出た。
「どうしました、什造さん?」
『今から、あんていく、行きます。そこで合流しましょ~』
「あ、あんていく? わかりました、そこに行きます」
あんていく。は聞き覚えある店名について必死に記憶を掘り起こした。
20区にある喫茶店で、今、什造と篠原が追っている“喰種”について捜査の一環として訪れた場所。ミックスサンドがとても美味しかった、と什造が話していた店。勿論その話を聞いてすぐ訪れ、そのサンドイッチと珈琲の味をも確かめた。店に入った瞬間から漂う芳しい香りで察しがついたが、本当に美味しかった。
いつか自分も什造を満足させられるサンドイッチが作れたら、と思ったものだ。
色々と考えながらもふらふらとの足はあんていくへしっかり向かっていた。
「はてさて什造さんは来てるかしら……」
あんていくの扉をくぐってすぐに漂う、珈琲の香り。この香りが嫌いな人間はなかなかいないのではないだろうか。ほう、と溜息をつきながら、は近くの席へと座る。
「いらっしゃいませ」
「あ、どもです。ホットコーヒーとミックスサンドください」
艶やかな黒髪の女性店員に前もって決めていた注文を告げ、は携帯電話を見た。
什造からのSOSが来ればすぐに迎えに行くつもりだ。だがその心配と心構えは杞憂となり、がサンドイッチを平らげた頃に什造がやって来た。
「こんにちはです~チャン」
「こんにちは、什造さん」
の正面の席へ腰を下ろした彼は、うんっと伸びをした。
「いや~話し合い疲れてツカれて、僕の背中凍り付きそうでした」
「会議ですね。今日は私、出なくて本当に良かったんでしょうか」
「チャンは体調がよくないって嘘言っておきましたから大丈夫です」
「嘘ってそれ一番いけないやつでは……」
些か後悔と罪悪感に苛まれつつも、什造の自由気ままな姿への愛おしさの方が勝っていた彼女は笑った。
当然追々不参加となった会議についての資料を独自で振り返るとして、は改まる。マドレーヌを入れてきた紙袋を什造へと差し出して、
「約束通りマドレーヌ焼いてきました。良かったら疲れをコレで癒してください」
「おーマドレーヌきましたぁ! それじゃ~早速ひとつ」
早くも袋を開いてマドレーヌを取り出した什造に、は慌てた。周囲の客、店員たちの目が気になった。一般的に、こういった場所に食品を持ち込んで食べるというのはマナー違反だ。
さすがのも、おずおずと什造へ話しかけた。
「え、えっと、お店ですしここ……お家で食べていただいたほうが……」
「細かい事気にしないです。大丈夫です」
言うや否やぱくりと一口でマドレーヌひとつを平らげてしまった什造は、んまいです、と笑ってみせる。
花丸を頂戴した嬉しさに一瞬意識が持っていかれかける。もう食べてしまったものは仕方ないが、それ以上は勘弁してほしいとが喜びをこらえつつ再三告げると、什造は渋々袋を閉じた。
什造がココアを飲むのに夢中になっている間、は、あんていくの店内をぐるりと見渡した。
途切れることなくやってくる客。いっぱいに漂う香り。テレビを見たり、談笑したり、それぞれの時間を、珈琲と共に過ごす人たち。中にはあんていくの店員に気があるような女の子もいたりして、こっそり微笑ましく思った。
――こんな平和的な空間が“大喰い”に関わっている可能性があるなんて。
尋常ではない量の捕食を繰り返していた“喰種”だと聞いている。そういえばニュースでも見聞きした気がする。とても曖昧でぼんやりとした認識だ。
は、何度“喰種”と相対しても、悲劇的な被害が自身とは無関係なもののように感じていた。ようは危機感が足りない。もし自分が喰われたとしても、その結果死んでしまったとしても、何処かで「仕方ない」と考えていた。什造との関わりを経ても尚、は、自身の命の価値を軽く見てしまう節がある。
そして、何時だったか篠原と話したことを、不意に思い返していた。
『俺はちゃんにも、人並みに幸せな生活をしてほしいなあと思うんだ』
『人並みに幸せですよ、私。篠原さんや什造さんたちと会えたお陰です』
『……ならいいんだ』
良い、と言った割に篠原の笑みは少し暗くて、にはよく判らなかった。篠原にはそんな顔をしてほしくないのに、どうしてそんな顔をしているのか、全く判らなかった。
『什造もちゃんも、欲張るべきところを欲張らないからなぁ――』
――どういうことだったんだろう、什造さんと私が欲張らないって。
いまだには、答えに辿り着けない。少なくともは、十分に欲張って生きているつもりだ。
思い悩む間に什造は一通り軽食を平らげており、椅子の背凭れに体を預けていた。
「やっぱりおいしーですね。ちゃんもここのサンドイッチ美味しいと思いませんか?」
「とっても思います。什造さんがご機嫌で食べているのを見ていると尚更」
「そうですよねぇ。ですよねぇ~」
腹をさすりながら、うんうんと什造は頷く。彼の笑顔を見て、は、什造の新しいクインケの存在を思い出した。いつか拝見したいと思ううちに随分経ってしまったが、現場に立てない以上仕方ない。早く正式な捜査官になりたい彼女の勉強・訓練は未だ続いている。遅いスタートと年齢がネックではあるが、捜査官になることが決して無理ではないという篠原の言葉を信じて邁進していた。
――什造さんのクインケを生で見るまでは死ねないかな。
小さな目標を立てて、は微笑む。
「会議のお話、教えてください。後で資料も見ますけれど」
「わかりました~。それじゃあお会計お願いです」
「はい、勿論」
什造と共に食事をしたら、会計は必ずがすることになっている。命の恩人兼捜査官の先生である什造に対して、彼女が出来うる礼の一つがこれだからだ。菓子を贈ったり、書類の片づけを手伝ったり、様々な形では、什造への感謝を示している。
この間も滝澤に「だから甘やかすなって」と言われたが、どれが一体甘やかしなのかさっぱり理解できないので困っていた。その滝澤も、が資料を読み込むときにこそっと判りやすいフォローを入れてくれたりするので、せっかく注意してもらったのに何も判らない自分が情けなくなってしまう。篠原にその旨を相談した際、何とも言えない微妙な笑顔で返されたことまで思い出し、少しばかり落ち込んだ。
「どうしたです」
「何でもないですよ」
まさか悩みの一因に什造がいると知られてはならないから、彼女は曖昧に笑って誤魔化した。
店を出るなりまたマドレーヌを頬張り始めた愛しい少年の姿をうっとり眺める。困惑も、自身の至らなさも、鈴屋什造というひとが世界を満喫する姿を見つめていると有耶無耶に溶けて消えていくようだった。
――什造さんがあれば、いい。
その為ならばいくらでもこの身を削り、心を砕き、命を注ごう。
今はそれだけでいい。その為に、より彼の為になるように、喰種捜査官を目指して頑張っていこう。
什造のそばにいること。この距離感。今まで物欲というものにてんで縁が無かったが、は、この立ち位置だけは誰にも渡したくないと、そんな欲求を抱いていた。
――万が一誰かに取られようものなら、奪ってでも手に入れなくては。
それらの感情は、日ごと秒ごとにゆっくり深く鋭くなっていく。
微笑み続けるを、ふと什造が振り返る。口の端にマドレーヌの食べかすをつけたまま。
「ねえチャン、本当に捜査官になるんですか」
「ええ、そのつもりですよ。アキラちゃんにクインケも予約してありますから」
「……そーですか」
什造の何か言いたげな眼差しから察することが出来るほど、の感覚は鋭敏ではない。愛しい恩人の口元を優しく拭って、そうですよ、と微笑んで終わってしまった。
「なら頑張りましょうね」
「はい、頑張ります」
何が正しくて何が間違っているかなんて、この世の誰にも、神様にすら判りやしないだろう。
は、誰かを想うことにのみ固執している今を、悪いとは思っていなかった。
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