にとって、音楽は日課であり習慣である。いや、呼吸に等しいと言っても過言ではない。の人生において、音楽とは、重要かつ死活的問題ものなのである。
仮に音楽を奪われたなら、は卒倒してしまうだろう。超高校級の暴走族が「風を感じてぇんだよ!」と荒れたり、超高校級の同人作家が「二次元キボンヌ!」と嘆くのと、同じようなものなのだ。
それほどまで本人にとっては当然と化しているものを、「教えてくれ」と頼まれても、にはどうしたらいいのか判らなかった。
とどのつまり、現在、は大変困っていた。
「なーなー、頼むよー。くーん」
目の前にいるのは、桑田怜恩。超高校級の野球選手であり、を困らせている張本人である。
野球の天才である彼。実はなんと野球が嫌いらしい。そして今はミュージシャンを目指しているのだという。
そこで桑田は、わざわざこの音楽室まで足を運び、超高校級の音楽家であるに尋ねてきたのである。
「どうやったら音楽家になれんの?」と――。
「私はただ音楽が好きなだけで、“音楽家”になろうとしたわけではないんだ…」
「何それ天才アピってんの? 天才なのは重々承知してますけど?」
「……簡単なボイストレーニングぐらいなら指導出来るが……」
「そーゆーまだるっこしいのは良いからさ、ちゃちゃっとミュージシャンになれる方法が知りてーんだよ!」
「ちゃちゃっと……」
ますますは困った。腕を組み、ううむとうなり声さえ漏らし始めた。
そんなに痺れを切らしたのか、桑田は身を乗り出しながら訴えた。
「じゃあさ! オレとバンドやんね? お前、作曲も演奏も出来んだろ?」
「あまり気乗りがしない……」
「何だよ、つれねーの!」
「釣られては困る……」
尚も引き下がらない桑田に、は頭を抱えたくなった。
イスに座ったまま、が額を右手で押さえ唸る。そんなの周りを桑田は回る。小学生でもやらないような奇妙なふたりのやり取りが続いた。
10分ほど経ったろうか。不可思議なプレッシャーに耐えかねたが、ぴたりと唸りを止めた。桑田も止まる。
桑田はひっそり身構えた。
さすがにしつこ過ぎたろうか。寡黙でローテンションを貫くでも、人間なのだ。怒る時は怒るに違いない。
そしてきっと多分絶対、怒ったら怖い。
「――桑田」
「は、はい?」
静かな、しずかな声。
反射的に丁寧に返してしまう桑田に、は尋ねた。
「君が音楽家を目指す理由は、何なんだ?」
聞き覚えのある言葉だった。
確か、ああ、そうだ。以前苗木と話していた時、同じようなことを訊かれた。
桑田はあの時と同じように答えようとした。しかし、おかしい。
声が出なかった。
はいつの間にか桑田を見上げていた。その目は何時にも増して表情が感じられない。
大和田や十神のように睨んできている訳ではないのに、何故か威圧されているような気がした。
「答えられないのか?」
「お、お前が怖い顔すっからだろ」
「それは失礼したな」
の声音は思っていたより柔らかい。どうやら本人に悪気はなかったようだ。
桑田は眉をひそめた。
別に悪いことをした訳ではない。なのにどうして自分は、こんなに後ろめたさを感じているのだろう。
それきりふたりの間には妙な沈黙が流れた。気まずさを感じているのは桑田だけで、は紙とペンに集中し始めていた。
暇を持て余した桑田は、の作業をただただ見つめていた。
はで、自分を困らせ続けた桑田が静かになったことで何時もの調子を取り戻し始めたようだ。
あっと言う間に、紙は楽譜へと姿を変えた。
「桑田」
「へっ? あ? な、何?」
「やるよ」
すっかり気を抜いていた桑田にが紙を差し出してきた。出来立ての楽譜だ。まだインクも乾ききっていない。
目を丸める桑田に、は言った。
「桑田が野球を捨てて音楽をとりたいなら応援する。……本当にそう思ってるならな」
気だるそうないつもの表情。なのに放った声は、やたらと空間じゅうに響いた。
はそのまま席をたち、出て行ってしまう。
音楽室の薄暗い照明では、せっかく渡された楽譜もよく読めなかった。たとえ自室に持って行ったところで読める訳もないだろう。
がものの数分で書き上げた一枚の楽譜さえ、自分はろくに理解できない。
――なんかムカつく。
思わず手に力がこもる。ぐしゃりと音を立てて楽譜は歪んだ。
「意味わかんねーっつーの!」
見てろよ。びっくりするぐれーにカッチョいく弾いてやっかんな!
桑田は駆け足で寄宿舎に引き返した。
彼の部屋の壁に立てかけてあるギターが、オブジェから楽器に復活するまであと少し。
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