ホテルの一室。
趣味を疑うぐらいのピンクにまみれた部屋。
どうして自分はこんなところにいるのだろう。
なにか、忘れているような気がする……。
ぼやけた視界に映っているのは、天井だろうか。
『享楽せよ……』
誰ともつかない、澱んだ声がした。耳から届いたのではない。
なのに言葉は確かに聞こえる。頭の中に直接響いて、緩く思考をかき乱されていくような、そんな声だった。
一体、この声は何だ……?
『我、汝が心の声なり……』
不気味な声はそう答え、頭の奥で響き続ける。
『今を享楽せよ…… 見えざるものは幻…… 形ある“今”だけが真実』
今だけが……真実?
いや、この状況が、一体何のどういう真実なのか説明が欲しいのだけれど……。
こんな何もかもあやふやで怪しい非現実な状況のどこに真実を見出せと言うんだろう?
『未来など幻想、記憶など虚構…… 欲するまま、束縛から解き放たれよ……
汝、それ望む者なり……』
未来は幻想?
記憶が……虚構?
そんなの、あるものか。
記憶は、俺の記憶は……何だったっけ、記憶って……きおく……。
『汝、真に求むるは快楽なり 汝、今まさに快楽の扉の前にあり』
快楽の、とびら……。
どんどん、意識が、遠のいていく。
不思議な、甘い、あまい声に誘われるままに。
『本心に耳を傾けよ…… 汝、享楽せよ……』
その声に答えようとした瞬間、不意に声は霧散していった。
急激なスピードで、の靄がかっていた意識がはっきりとしていく。視界も確かな輪郭を取り戻す。
どうやら、何かに正気を乱されていたようだ。
「何だ、今の……」
はゆっくり身を起こした。どうやらあのシャドウがいた部屋ではない。法王の間よりずっと狭い。そのベッドの上で、自分は気を失い、何かの声を聞いていたようだ。
キョロキョロと落ち着きなく周りを見渡しながら確認する。
この雰囲気、やっぱりまだ影時間だ。
武器を探そうと、がベッドから立ち掛けたとき……シャワー室から音が聞こえた。
(誰か、いる!?)
身構えると同時に、シャワーの水音が止んだ。
は焦った。
敵か? それとも……。
武器も見つからず思考しているうちにドアは開き、シャワー室の人影は、明確な姿をの前に現した。
その人物を見て、はぎょっとした。
「なっ……!?」
短くも艶やかな銀の髪。鍛えられ、程良く引き締まった体躯。
濡れた髪や体をタオルで拭きながら出て来たのは――真田だった。
「お前、次……」
呟く真田と視線がかちりと合う。
何処か遠い眼差しと惚けた顔のまま、真田は沈黙する。しかし、の青い顔を見て、ハッとしたように目を見開いた。ようやくがいることを認識したらしい。それと同時に我に返ったようだ。
この何とも言い難い空間に堪え切れなくなったは、震え、そして――絶叫した。
「うげぇぇえええ!! なななな、何してんの! 何で臨戦体勢なのおおお!?」
「うっ、うげぇは無いだろう! 俺だって何がなんだか……って、臨戦態勢って何だ!」
真田は腰に巻いたタオルを押さえながら慌てふためいている。
はそっぽを向きながらけたたましく叫んだ。先輩だとか目上だとか、そんな気遣いを引っ張り出す余裕など毛頭ない。
「良いから、はやく服着てきてくださいっ! バトらにゃならんのですよ俺ら、シャドウと!!」
「はっ!? あっ、そうだな……。そうだな!」
素直にくるりと真田が踵を返す。
彼が着替えている間、は深呼吸し、落ち着きを取り戻す事に成功した。落ち着いてから自分の姿を振り返ると、もなかなか悲しい状態だった。
「どうして俺は髪を解き、靴もスカートも捨てようとしていたのか……」
とりあえず髪を結い、靴下と靴、脱ぎ掛けのスカートも慌てて履き直す。なくしたと思っていた武器は床に転がっていた。ひとまず安心である。
がほっと胸を撫で下ろした時、聞き覚えある声が頭に響いた。
『――もしもし、真田先輩、くん!?』
「あ、風花ちゃん?」
『良かった、やっと通じた!』
風花が安心したように叫んだ。しかし声音はすぐに沈んでしまう。
『遅れてごめんなさい。シャドウの精神攻撃のせいで、呼び掛けが届かなくて……』
「そうだったんだ……。わざわざありがとう」
『ううん、本当にごめんね……』
気を取り直すと、風花は話し始めた。
『分断されてたリーダーたちともさっき連絡をとりました。敵の位置はさっきと同じ部屋です。急いでもう一度集合してください。……あの、真田先輩、聞こえてますか?』
「あっ、ああ! 大丈夫だ! 行くぞ」
慌てて出て来た真田は、から視線を外しつつ答えた。そのまま部屋を出ようとして、しかしぴたりと止まり、静かにを振り返る。
「……。この事は誰にも言うなよ」
「頼まれても言いませんて……お互い傷付くだけですよ」
「……だ、だよな……」
何処と無くしょげた風の真田と、未だ青い顔のは、ゆっくり部屋を出た。
あのままシャドウの攻撃に操られていたら、自分たちはどうなってしまっていたのだろうか。
そう考えたは、ある意味、巨大シャドウと戦うよりもぞっとした。
◆◆◆
程なくして奏夜・ゆかりと合流したたちは、奏夜から説明を聞いた。
再び法王の間へ行くには、シャドウの張った結界を解かなくてはならないこと。
結界を解くには、法王の間にあったような怪しい鏡を壊すしかないこと。
とても同じ精神攻撃を受けたとは思えないほど、奏夜の語り口は淡々としている。
「――ということで、ホテル内の怪しい鏡を壊して、結界を解かなきゃいけないんだ」
「それは判ったけどよ、リーダー……」
は、奏夜の顔……腫れ上がった片頬をじっと見据えた。
「そのほっぺ、どうしたのよ」
「何でもないっ!」
「何故に岳羽が反応するんだ?」
「何でもないですから!」
真田はいまいちピンと来なかったようだが、にはゆかりの態度が十分な答えとなった。恐らく彼女らも精神攻撃の果てにトラブルがあったのだろう。平手打ちぐらいで済むトラブルで良かったではないか、と前向きに考えてみる。
それより、とゆかりは話を切り換えた。
「鏡の話なんだけど……思い出したの! 法王の間の鏡、何か変だと思ったら、映らなかったんだ」
「映らない……って、自分の姿がってこと?」
「そう。多分、そういう鏡が何処かにあるんじゃないかな。それを壊せってことでしょ」
なるほどな、と奏夜が頷く。
「……虱潰しに部屋回って、調べるしかないか」
『すみません……』
「風花が謝る事じゃないから。……サポートありがとう」
申し訳なさそうな風花にそっとフォローの言葉を掛け、奏夜は早速近い部屋へ突入した。まだ平手打ちの跡が残るというのに、なんと頼もしく凛々しい横顔だろう。
慌てて三人もリーダーの後を追いかける。
「確かに映ってない」
奏夜は迷い無く鏡の前に立ち、剣を振り上げた。
豪快な音ともに鏡は弾けた。そして破片を散らした……だけかと思いきや、様子が違う。
割れた鏡の中は、黒い影を伴い、ぐにゃぐにゃと歪んでいた。シャドウの体を作る影によく似た、何も反射せず、ただ呑みこむだけの黒い靄が鏡の枠の中で立ち込めている。
『やりましたね! 上の階にも同じような反応がひとつあります。恐らくそれを壊せば、結界も解けます』
「判った、すぐ向かう」
一行は、部屋を出た。風花の指示通りに階を上がり、部屋を回り、先と同じ要領で鏡を割った。
これで、改めて法王の間は開かれた訳である。
『今度こそ、いけます! 皆さん、頑張ってください!』
一行は、勢い良く法王の間へ飛び込んだ。
――先とは全く違うシャドウが構えている。大きな硝子状のハートから赤い液を滴らせ、歪な一対の羽をはためかせて浮かんでいる。
その見た目からでもアルカナが知れた。『敵、アルカナ“恋愛”タイプです!』風花の素早いアナライズで自分の推測が当たっていたことを確かめると、声もなく刀に手を掛ける。
こいつには酷い目にあわされるところだったのだ。4人の目には、法王戦以上の気迫と鋭さが満ちていた。
「乙女心を弄んだ罪は重いわよ!」
「死ぬ覚悟は出来てるだろうな……」
中でも、ゆかりと真田の気合の入りようは異常なほどである。
やや後込みするの背を、奏夜が叩いて励ます。言葉もなく、悟ったような青い眼差しに、はホッとしたように笑った。
「また変な精神攻撃が来るとも限らないから、落ち着いて行こう」
「ああ、うん」
「……風花、バックアップ頼む」
『了解です!』
奏夜は剣を片手にシャドウへ突進して行く。
ゆかりも、真田も、各々が攻撃を仕掛ける。
三人を見つめながら、はそっと召喚器を取り出した。
「――ペルソナ!」
迷い無く引金を引いた瞬間、ペルソナ・デオンが姿を現す。
デオンは蝶の両手を力強く羽ばたかせると、真っ直ぐにシャドウへ向かって行った。
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