は無我夢中で走り続けていた。そして気が付くと、ポートアイランドの路地裏……以前から様子を見守っている猫の元へやって来ていた。
 肩で息をするの様子を不思議に思ったのか、猫はとてとてと歩み寄ってくる。猫の頭を指先でわしわしと撫でながら、が、ほうと息を吐く。柔らかな毛並みに、荒んだ心も癒されるようだった。
 は、この猫のためにちょっとお高いネコ缶購入しては与えていた。すると数日後には、すっかり猫は元気になっていた。最初はやつれていたというのに、見違えるようだった。以外にも、この猫に餌を与えている人物がいるのかもしれない。
「にゃあ」猫がに擦り寄りながら鳴く。はうっすら瞳を潤ませながら、猫を抱き上げた。
 柔らかい毛皮に頬を寄せながら、近くの段差に腰を下ろした。膝の上に猫を乗せ、ひたすらにその毛並みを楽しむ。
 やはりこの空間で月光館の学生服は浮いている。不良のたまり場なのだ、致し方ない。しかし周りの視線を気にも止めず、は猫を愛で続けていた。
 漂う紫煙、酒のにおいもお構いなしである。自分に目をつけた者たちがいることさえ気付かない……。
 そんなに、フッと覆い被さる影があった。反射的にが顔を上げる。

「また来たのかテメェ」

 そこにいたのは――荒垣だった。
 荒垣を見るや否や、は慌てて立ち上がる。猫のことはしっかり抱えたままだ。

「荒垣さんっ、この間はありがとうございました!」
「何の話だ」
「前に絡まれたときのです。ジュースまで貰ったし。真田先輩にも頼んだけど、やっぱし自分で言わなきゃなあって思って」

 荒垣は深い溜め息を吐いた。
 こいつに尻尾があったら、千切れんばかりに振ってんだろうな。
 そう思いながら荒垣はを見つめた。の顔は、文字の如く輝かんばかりの笑顔であった。

「確かにアキが言ってた。……だったか」
「はい」
「猫、懐いてんな」

 荒垣が、の腕の中で寛ぐ猫に触れた。指先で優しく撫でられ、猫は気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
 その慣れた様子の荒垣を見て、は笑った。

「荒垣さんも懐かれてるんじゃ?」
「さぁな」

 荒垣は短く返すと、段差に腰を下ろした。足を組み、何処か向こうを見つめているような表情だ。物憂げ、とでも言えばいいのだろうか。
 ふと荒垣はを見上げた。視線がぶつかる。は内心慌てた。

「座らねえのか?」
「え? あ、座ります」

 促されるまま、荒垣の隣に座る。猫はに抱かれたまま眠り始めていた。
 その姿を見つめながら、は溜息を吐いた。
 頭の中には、順平との喧嘩が蘇って来ていた。自分がもっと上手く話を聞いてあげられたなら、順平はあんなに怒ったりしなかっただろう。
 沈黙が生まれる。は猫を撫で続けていた。
 不意に目覚めた猫が、の腕から飛び出していった。どうやら構い過ぎたらしい。猫は小さく鳴いて、駆けて行った。
 は猫の後ろ姿を名残惜しそうに見つめていた。

「あー……」
「そんなシケた面じゃ猫も逃げるさ」
「シケた面って……」

 はがっくりと肩を落とした。俯くと、長いこと伸ばしている髪がさらさらと流れて、光を遮る。ただでさ光の無い路地裏で、だけが更に暗くなる。
 何だか今は、この髪が無性にむかついた。

「変なの、判ってるけど……」

 膝を抱え、がぽつりと呟く。真横の荒垣が密かに困っていることなど、には気付く余裕すらない。
 荒垣は元来、面倒見の良い性格だ。こう近くで沈む人間を見ると、放っておけないのである。この犬っぽい後輩は、あしらうのも気が引けた。
 はあ、とひとつため息を零すと、荒垣はそっとに訊ねた。

「随分としおらしいな、今日は」
「……そうですかね?」
「何かあったんだろ、頭に血ィ上ってしくじったとか」

 図星を突かれ、は言葉を詰まらせた。
 考えが足りずに順平を怒らせてしまったことは、確かに「しくじった」である。
 そして何よりがショックだったのは、この出で立ちに絡んだことを順平に言及されたことだった。
 出で立ち。自分の女装。そこまで考えて、はおもむろに顔を上げた。それから、おそるおそるといったふうに、荒垣の顔を覗き込む。

「あ、あの」
「何だ?」
「その、ビビらないで聞いてくださいよ?」

 念を押しながら、は周囲を確認する。溜まり場にはもう自分たちしかいない。騒いだせいで驚いて散ったのか、荒垣たちがいる空間に不良たちが馴染めなかったのか。どちらにせよ、好都合である。
 は意を決し、口を開いた。

「俺……こんなナリだけど、男なんです」
「知ってる」
「えぇえ!?」

 荒垣の即答は、を大いに驚かせた。
 驚くを他所に、荒垣は淡々と続ける。

「アキから聞いた」
「さっきからアキって……あ、真田先輩か。あんにゃろう!」

 は、脳裏に爽やかに笑う真田を思い浮かべると、細やかな恨みの念を飛ばした。
 人の秘密を勝手に打ち明けるとは何事だろう。あの人らしいと言えばらしいが、は複雑な心境だった。

「……えと、驚かないんですか?」
「驚かなかった訳じゃねえよ。だからって騒ぐもんでもねえ」
「なるほど……」

 荒垣の反応に、は神妙な面持ちで頷いた。
 こんな風に受け止めてくれる人に会うのは初めてだった。
 女装だと知って気持ち悪がるとか、面白がるとか、驚くとか、の予想できた反応のどれでもなかった。
 ありのまま受け入れてくれたのだ、荒垣は。
 そんな彼に、は……感動していた。感極まって言葉に詰まるに、荒垣はこう言った。

「本人がそれで良いんなら良いだろ。周りが騒ぐことじゃねえ」
「……変じゃないっすかね」
「似合ってるんじゃねえか」
「そっか。へへ、ありがとうございます」

 荒垣の言葉に、胸が幾分軽くなったようだった。
 しかしすぐには顔を伏せた。

「こういう格好が普通じゃないことは、自分でも判ってます」
「そうか」
「でも、外見だけで判断されてモノ言われたくないし、こんなナリでも、男だから……。男のプライドとか意地とかも、あるんです! 女装だって俺なりに理由が有るんです」

 胸の中で、色んなものが混ざって凝り固まっていく。
 重たくて重たくて、苦しい。
 それをほぐせないかと、は、まとまらない言葉をぼろぼろと零した。
 とりとめないの言葉を、荒垣はじっと聞いてくれていた。
 その厚意に甘え、は話し続ける。

「俺がこの格好してんのは、自分が『男』だってことを否定したいわけじゃないし、女になりたい訳でもないんですよ……」

 それまで黙っていただけの荒垣は、不思議そうに瞬きをした。
 そして、自然と浮かんで来た疑問を口にした。

「じゃあ何で、そんな格好をするようになったんだ?」

 が固まった。その沈んだ表情に浮かんで来たのは、驚き。一瞬遅れて、苦しそうに目を細める。自身、言葉にしがたい複雑な事情が渦巻いているのを、荒垣は悟った。
 しかしすぐには、その表情を消した。代わりに、今までとは打って変わって、は、明るい笑顔を見せた。

「そうするっきゃなかったんす!」
「は……?」
「それに今は、慣れちゃったし。女の子の格好楽しいし!」

 目まぐるしく変化するの様子に、荒垣は唖然とした。
 しかしはマイペースだ。荒垣を見て、明るく声を張りながら笑う。

「荒垣さんが“似合ってる”って言ってくれたし!」
「ほぼ初対面の人間の言葉でそこまで舞い上がるかよ、普通……」

 溜息を吐く荒垣に、は満面の笑みで頷いた。この寂れた空間に似つかわしくない爽やかだ。
 荒垣は呆れ、肩をすくめた。こんなに元気なら心配などせず放っておけば良かったと、心中でひっそり呟く。

「……っと、そろそろ帰ろうかな」

 傾き始めた日を見て、は腰を上げた。スカートの埃を払うと、くるりと荒垣を振り返り、深々とその頭を下げる。

「ありがとうございました」
「なんもしてねぇよ」
「でも俺、すごい助かりました。荒垣さんにそんなつもり無くても……ありがとうはありがとう、です」

「じゃあ、また!」そう言っては、改めて頭を下げ、ぱたぱたと靴音を響かせながら去っていった。
 慌ただしいの背を見送ると、荒垣は静かに空を仰いだ。

(アキとは別の意味で面倒な奴だな……)

 “また”と言ったからには、また会いに来るつもりに違いない。
 何故そこまで気に入られてしまったのか疑問を感じつつ、荒垣も立ち、路地裏を後にした。

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