バイトを辞める時、本当は深く悩んだ。
自分より先に辞めた先輩もいて、その先輩とあまり間を置かずに自分も辞めてしまうのはどうかと思った。シフト変更や人手の減少、いろいろと考えずとも迷惑だし手間だし。それにバイトであろうと働いている以上、責任なんかもある訳だしなんて――。
そっとが辞めたい旨を伝えた時、店主が一瞬困ったような顔をしたのも気がかりだった。しかし、すぐに店主は気さくに笑って頷いてくれたのだった。
「また良かったらおいで。歓迎するよ」
今までお疲れ様。
労ってくれた店主に、はうっかり泣き顔を見せてしまうところだった。涙腺が緩んでいたらしい。
以前風花に訊かれた時は、“代わりはすぐ見つかる”なんて言ってしまったが、そういう問題ではないことをは判っていた。
それに……世の中、本当の意味で“代わり”なんて、ありはしないのだ。
――なあ。ひとつ、頼まれちゃくれねぇか?
「」
呼ばれるままに顔を上げる。荒垣の、無愛想ながらも真っ直ぐ向けられた眼差しは、こそばゆいほどであった。
うたた寝から起き上がったの顔がよほど可笑しかったのだろうか。くっと笑いを堪えるように荒垣が声を漏らす。
ラウンジを見回せば自分たち以外は誰もいないし、外はすっかり真っ暗だ。が思っていた以上に時間は過ぎていたようだ。
「あれ……どうしたことか」
「見たとおりだろ」
明らかに呆れた風の荒垣の口調に、はばつが悪そうに俯く。なにも悪いことはしていない。ただ、些か寝ぼけているだけなのである。
そして、ぽつりと呟いた。
「はら、すいたぁ……」
「大方、居眠りして飯も食ってねえってところか」
荒垣の言葉に、は無言で頷いた。
窓の外の夜空を見つめながら、荒垣は小さく唸る。
「今から食いに行くのも億劫だな。探索が無ぇとは言え……寝すぎだろ、テメェ」
「いや実は生理が近くて……」
「そういう冗談は見かけだけにしとけバカ」
「いでっ」
徐々に覚醒してきたのボケに、またもや呆れた荒垣は、彼の額を小突いて窘めたのだった。
◆◆◆
たまにはラウンジで寝過ごすのもアリかもしれない。
そう思いながら、はひっそりと笑った。
「荒垣さん、これ美味しい」
「あり合わせでテキトーにやっただけだぜ? まぁ美味いなら何よりだ」
を哀れに思ったのか、荒垣は手料理を振る舞ってくれた。空腹ということもありの食欲は旺盛である。それに、誰かが作ってくれた料理というのは殊更美味しいものだ。……例外はあれども。
荒垣の腕前がかなりのものであることを、は全身全霊で実感していた。
自分以外殆ど誰も使おうとしないキッチン用品の数々などを振り返りながら、しみじみと呟く。
「これがテキトーだなんて風花ちゃんの前とかで言ったらヤバイですよ」
温和な彼女も、料理の腕だけはイレギュラーなのである。
風花がこの間「リーダーに食べて欲しくて」と奏夜に弁当を作っていたのを見たが、は身震いした。何をどうしたらあんな極彩色の弁当が出来上がるのか……と。
それを渡され、かつ食した奏夜の勇気と男気に涙が浮かんだ程である。
淡い感傷に浸るに、何も知らない荒垣は不思議そうに訊ねた。
「山岸の奴、料理苦手なのか」
「なかなかにヤバイです。こないだも天田くんに食べさせるんだってハンバーグ作ってたんですけどね、さすがに全力で危機察知でいろいろと止めましたよ。まあ、風花ちゃんに限らずこの寮の女子は……」
言い掛け、が慌てて口をつぐむ。
この場に肝心の女子がいないとはいえ、いや、いないからこそ、滅多なことは言うものではない。
「……何でもないです」
が心なしか強張ったのが、言葉よりよほど雄弁に彼女らの腕前を物語っていた。
荒垣も言及することなく「そうか」と頷いて流す。
互いの心には“触らぬ神に祟りなし”という共通の思いが生まれていた。
「まあ、あれです。俺が飯炊きババアしてるうちは良いんですけど、毎回毎回はやれないし……」
「天田なんか育ち盛りだろ。ちゃんと食わせてやらねえとな」
「そうなんですよ! だからね、俺もしっかりしたもん食べて欲しくって……」
ぴたりとの声が止まった。言い掛けたまま、荒垣をじいっと見つめる。「何だ」と不審そうに返す先輩に、怖いもの知らずの後輩は不意に目を輝かせた。
荒垣は嫌な予感がした。
――こいつ、面倒くせえこと思い付いた顔してやがる。
そしては、荒垣のそんな予想を裏切らなかった。
「荒垣さんの料理、他の面子にも食べてもらいましょーよー」
「はぁ?」
「折角上手なんだから皆に振る舞ったってバチ当たんないでしょ!」
荒垣は溜め息をついた。
妙に調子づいたの勢いは止まりそうにない。
半ば諦めながらも荒垣は返した。
「お前、自分がたまには楽したいってだけじゃねえだろうな」
「それもありますけど」
「素直だなオイ」
食事を平らげたは、丁寧に「ごちそうさま」と両手を合わせると笑った。
「皆で食卓囲むのも、短い青春の思い出作りに良いでしょ?」
「何歳だオメェ……。自覚あるか判らねえが、たまに喋ることが年寄り染みてんぞ」
「えっ、嘘でしょ!?」
目を丸めるに、荒垣は溜め息でもって返答する。どうやらには自覚が無かったらしく、珍しく悄気て見せた。
「まだ華の十代なのにぃ……」
「また年寄りくせえ言い回しして」
「あああ、これがいけないのか! うわー無理だ直せる気がしねぇー!」
「傍目にもだいぶ無理そうだからな」
荒垣の追撃に、大袈裟に頭を抱えてテーブルに突っ伏す。はは、と荒垣に笑い声まで上げられ、ますますはうめく。年寄りくさいという指摘が、相当に衝撃だったようだ。
さすがに気の毒になったのか、荒垣はの頭をぽんとひと撫でする。まるで犬猫に接するかのようにささやかなそのアクションが功を奏したかは判らないが、不意には顔を上げた。
「で! 料理すんのしないの!?」
「そこに話戻すのかよ」
元気を取り戻したは再度荒垣に迫った。荒垣には、がここまで必死になる理由が判らない。温度差を感じ、それを隠すことなく何度目かの溜息を吐いた。
しかし同時に悟っていた。……この後輩が引き下がることはないだろう、と。
「うーん、何時がいいかなー。どうしよっかなー。学園祭が落ち着いてからのが良いですかねー。打ち上げみたいに! ってことは下旬も下旬かなー。どうしよっかー荒垣さん」
その証拠に、既に料理の日取りを算段し始めている。
なんて調子の良くて呑気な男だろう。見た目は女子だが。
……荒垣は静かに返した。
「別に学園祭前でも良いだろ……。俺にゃ関係無え」
「お兄さんは休学中でしょうけれど私には関係あるのよ! なんちゃって……って、あれ? つまり料理しますって事でオッケーですか?」
「断らせる気も無えくせによく言うぜ」
「あっはっはっは、すいませーん」
大して反省していなさそうな後輩の脳天に、荒垣は、今度は拳骨を落としてやった。「いだっ!」という叫びとともには頭を押さえる。思ったより強く入ってしまったようだ。だが、唐突な提案に巻き込まれたことを差し引けば“おあいこ”と言ったところであろう。
それを自覚しているのか、は文句を言わなかった。寧ろ、嬉しそうである。
「約束ですよー、荒垣さんっ!」
全力の、全開の笑顔であった。
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