ユーリたちはノール港の対岸の街、カプワ・トリムへと辿り着いていた。フレンら騎士団の船が彼らを救ったのである。
沈む船でユーリが船室へ飛び込んだ瞬間、そのユーリがようやく浮かんできたと思ったら人を抱えていたこと……情景を思い返しながらエステルは呟いた。
「ユーリを乗せたまま船が沈んだときは、もう駄目かと思いました」
ほっと胸を撫で下ろすエステルに、ユーリも頷く。
「思ったより早く沈みやがるもんだから、流石にオレも焦ったぜ」
「死にかけといて“焦った”で済ませるあんたの神経を疑うわ」
リタのついた悪態も、何となく可愛らしいものに思える。ユーリが船ごと沈んだ際に、この少女がユーリを案じて顔を歪めたのをはしっかり見ていた。
細やかな悪戯心を含め、は笑って口を開く。
「多分ユーリは殺そうとしても死なないよ」
「って結構言うタイプだね……」
カロルの苦笑いに、を除いた一同はひっそり同調していた。
そんな穏やかな調子も、トリムの宿屋へ向かうなり一転してしまう。
宿屋には、フレンと、ユーリが船で助けた少年、それから――ラゴウの姿があったのだ。
ユーリたちがラゴウに詰め寄らんとするのを察したフレンは、互いの間を割るように一歩歩み出る。澄んだ碧眼をラゴウに向けながら、フレンは言った。
「執政官。あなたの罪は明白です。彼らがその一部始終を見ているのですから」
凛としたフレンに、しかし、ラゴウは全く動じることはない。
「何度も申し上げた通り、名前を騙った何者かが私を陥れようとしたのです。そちらの方々とお会いしたこともない。いやはや迷惑な話ですよ」
まるで被害者は自分だとでもいうような嘆きぶりだ。そんなラゴウの態度に、堪らずリタが叫ぶ。
「ウソ言うな! 魔物のエサにされた人たちを、あたしはこの目で見たのよ!」
「リブガロを使って街の人を弄んだのだって……!」
も彼女に続いた。
今ここでこの男を止めなければ、また同じことが起きる。こいつは、そういう人間だ――。
誰もがそう思っていた。しかし。
「フレン殿は、このならず者と評議会の私……どちらを信じるのです?」
ラゴウの言葉に、フレンは何も言わず――言えずに俯く。
「決まりましたな」
笑みを含んだラゴウの声が、鼓膜を突いた。
◆◆◆
鉛を飲み下したような不快感が胸の中にわだかまっていた。その鉛は、奥の方まで流れ込んで、じわりじわりと溶けて、自分の中の黒いものを包んで取り込み、澱みを増していく。
は反射的に宿屋を飛び出し、ラゴウの姿を探していた。しかしあの悪漢の姿はとうになく、手遅れであった。
悔しい。
強く拳を握り締めると、骨が鳴いた。その音は、少しずつの心をなだめ、問いを溢した。
追いかけてどうするつもりだったのか。
明白な罪をこの目にして、それを訴えようとしても、その罪人が法を傘に罪から逃れたというのに。
頼るべき法に捨てられて、何ができるのか。
は答えた。
捕まえて騎士に渡しても、国が裁いてくれないなら……渡さなきゃいいんだ。
は思った。
渡さなくても、良いんだ。
「悪い人は、いらない……」
呟きに呼応するように右目が痛んだ。
淀んだ感情が、体を軋ませる。
足から力が抜けきる前に、は何とか道の脇へと体を持って行った。呼吸が乱れる。一体何が起きているのか、自身にも判らない。
その時――何かが脳裏を過った。
水溜まりに倒れている何か。
それはぴくりとも動かない。
かつては動いていたはずのそれを、見ている私。
辛くて、痛くて、私は叫んでいる。
それを見て、悲しんでいる。
涙が溢れて、身体中の水が流れ尽きそうだった。
水溜まりは広がる。
暗くて判らなかったけれど、よくよく見ればそれは水じゃない。
赤い、血だった。
少しずつ空気に触れて、赤は黒く濁っていく。
そして、血溜まりに沈むそれは。
動かない、それは。
――動かなくなった、人。
血溜まりの赤は完全な黒となり、その人を、そして私を飲み込んだ。
「――お嬢さん、大丈夫?」
聞き慣れない男の声に、の意識は急浮上した。すぐさま持ち前の警戒心も甦り、立ち上がろうとする。が、足がもつれて叶わない。よろけ、寄り掛かっていた壁に背中を打ち付けてしまった。
すぐ傍で、先の声がまた響く。
「あらら、本当に大丈夫?」
「す、すいません、平気です……」
「顔も真っ青よ? ほら、慌てなくても何も無いから」
「あぁ、すいません、本当に」
ごくごく自然と伸ばされた手を、ごくごく自然と掴んでしまった。それからは、ようやく顔を上げて相手を確認した。そして硬直する。
何処かで見た、ぼさぼさ頭に無精髭の、うさんくさいおっさん――。
は息を呑んだ。
「ラゴウの屋敷の……!」
たちを使って屋敷に入っていった、あのレイヴンだった。屋敷の騒ぎや船上でのザギとの一戦などですっかり頭から抜けていたが、この男も屋敷から逃れて大陸を渡って来たらしい。
明らかにの表情が変わったのを見て、レイヴンも硬直している。
先の行いから警戒すべきか、この伸ばされた手に感謝すべきか、一瞬は悩む。
「えっと……ありがとうございます」
ひとまずは後者をとった。レイヴンの手を頼りに立ち上がると丁寧に頭を下げる。剣呑な空気になるかとばかり思っていたらしい相手は、の態度に一瞬は驚いたものの、笑ってみせた。緊張を解き、らしい調子で口を開く。
「いやぁお気に為さらず。レディを気遣うのは紳士として当然の行いよ」
「はぁ……それは、どうもです」
はじっとレイヴンを見た。
何処か大袈裟で演技めいた抑揚のついた喋り。うさんくささを引き立てる台詞。真意を誤魔化すような振る舞い。しかしを助けてくれた事実。
彼を探ろうにも、にそんな技量は無かった。故にただ、レイヴンと向き合って感じ取るしか無かった。
「道端で倒れるとか、ここの治安がよくて良かったわね。見つけたのも俺様で良かった良かった」
「はい、ありがとうございます」
「何かその目からして事情ありっぽいしね、お嬢さん。若いからって無理しちゃあ駄目よ」
「はい……、あ」
言われては右目を押さえた。
倒れた時に見たもの……あれは恐らく自分の記憶だった。僅かではあるが“思い出した”のだ。
誰かが死んでいた。それだけははっきりしている、それだけは。
たぶん、きっと、大切な誰かが――。
更に手繰ろうとしたが、右目が痛んでは呻いた。これ以上触れると、痛みは増していきそうだ。仕方なしに諦めて、嘆息する。
「まだ調子悪いんでないの? お仲間んとこ戻ったら?」
「ああ、はい……」
そう言えば、とは瞬きした。フードを被らずに仲間以外の人間と長く話すのは初めてに近い。以前の自分ならばこんなに喋れなかったろうし、逃げ出していただろう。多分、レイヴンが目について触れたあたりで。
は、右目を覆う手のひらをそっと離した。
「あの……レイヴン、さん?」
「うん?」
「私の目のように……魔導器を体に、という話を聞いたことなんてありますか?」
の問いにレイヴンは沈黙した。それから両手を広げ、首を振って答える。「あったらびっくりよねぇ」彼の呟きは尤もであった。
「ですよね……。すいません」
「こちらこそ力になれなくて御免ね。ま、知ってる奴がもしいたら、向こうから声掛けてくるんでない?」
「そうかなぁ……」
だとしたら、フードを被らずに歩いていた方が良いのかも知れない。今まではそれが嫌で仕方なかったはずなのに、は今、そうしようと心から思えた。原因は判らなかったが、理由ならばひとつ、思い当たることがある。
――不意に対するレイヴンがぎょっとして身を引いた。その視線はの向こうに向けられている。が振り返って確認するよりも早く、レイヴンを動揺させたそれは近くに来ていた。
「おっさん……と、?」
見慣れた長髪の青年。ユーリだった。側にはラピードもいる。
ユーリはを見、それからレイヴンへ視線を移した。
「またオレらの連れにセクハラでも働いてたのか」
「ちげーわよ。寧ろお助けしてたのよ」
「へぇ。が否定しないってことはマジか。信じがたいけど」
「んま、失礼な!」
の顔は自然と綻ぶ。
自分が勇気を持てた理由。
それはきっと、ユーリたちがいるから。
自分が、ひとりではないからだ――。
ユーリとレイヴンのやり取りを、は花でも見つめているかのように穏やかな表情で眺めていた。
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