は嬉しかった。買い出しを済ませダングレストを歩く彼女の顔には、安堵の笑みが滲んでいる。
遂に、帝国とユニオンの間に友好協定が結ばれることになったのだ。フレンたちが奔走した甲斐もあったというものだ。今頃詳細を話し合い、正式な調印へ向けて進んでいることだろう。
バルボスを捕まえることが出来なかったのは悔やまれるが、あれは彼なりに筋を通した結果なのだろう。ギルドらしく生き……文字通り、命懸けで。
は一旦考えるのを止めた。それからそっと、道の脇へと身を寄せる。
騎士団の人間が歩いてくるところだった。決して数は多くないが統一感のある装備と雰囲気。先頭を歩く壮年の騎士は一際映える鎧を纏っていた。
アレクセイ騎士団長だ。
確かヘリオードの魔導器暴走の際に見掛けた。記憶を辿り、ひとり頷く。まじまじと騎士たちを見つめながら、は彼等が過ぎるのを待った。
「……え?」
しかし彼等はふと歩みを止める。アレクセイが立ち止まったのだ。彼の視線は道の脇、もっと言えば……へと注がれていた。
ばっちりと騎士団長と視線を交わしてしまったは、酷く焦った。逃げ出すのはあまりに怪しいし、そうしようにも体は動かない。どう行動するのが正解なのか見当もつかない。
しばしの間、視線は合ったまま動かなかった。言葉は無い。
どうしようかとが慌てているうちに、アレクセイは再び前を向き、歩き始めた。
何故見られたのか。考えるまでもなく、右目の魔導器のためだと悟った。いくら騎士団長と言えども、人体に魔導器が移植された様など見たことが無かったのだろう。魔導器に精通する天才魔導士であるリタでも、ガスファロストで別れたクリティア族――クリティアこそ魔導器を発明した一族なのだ――のジュディスでも、この右目を見て“普通ではない”と判断した。
の心は、久々に他者の視線への怯えを孕んだ。騎士団長の眼差しは、慣れ親しんだ仲間のそれとは一線を画すものだった。
既に行ってしまったはずのアレクセイのあの眼を振り切るように、彼女は仲間の休む宿屋へと向かった。ダングレストに訪れた平和の空気を、精一杯に胸へ取り込みながら。
宿屋へ向かったは、更なる朗報を知った。
フレンの活躍により、ラゴウが捕らえられたのだと言う。少なくともこれで、カプワ・ノールは悪政から救われる。
珍しく満面に笑うを見て、「本当に良かったよね」とカロルも頷いていた。
しかしそんな談笑も束の間、一抹の不安がの中に生まれた。
悪人とは抜け目がない。特にああいう、権力に携わる悪人は。
圧政を敷き、人間を魔物の餌にしておきながら逃げおおせるような男なのだ。悪知恵ならば幾らでも働きそうなものである。
そんなの不安は、程なくして確信へと変わってしまう。
「――ひどい話だね」
冷ややかなの呟きに、宿部屋の空気はすうっと沈む。同室のリタも苦い顔をし、“ひどい話”を報告にやって来たエステルは俯いた。
は怒っていた。
ラゴウが、己の評議会という立場を利用し、罪を軽くしたのだと言う。人を殺めておきながら、己は全うに罪を償おうとはしない。
「ちょっと地位が下がるだけ、か。お偉いさんは……違うね」
「ごめんなさい……」
「エステルがそんなに落ち込むこと無いでしょ」
己が悪いかのように沈むエステルを、リタは気遣った。かつて魔導器にしか興味のなかったはずの彼女は、すっかりエステルに心を許しているのが改めて判る。それからリタは、目の据わったを見つめた。
「、あんたもそんな顔しないの。悔しいけど、あたしたちにはどうしようも出来ないわ」
「だから……悔しいの」
「わたし、お城に戻ったら、ラゴウが正しく処罰されるように頼んでみますから」
「エステル、あんた……」
頑ななエステルの眼差しを受け、リタは言葉につまる。勿論リタだってエステルたちと同じだった。ラゴウには相応の罰が下されるべきだと思っている。「……無理しないようにね」小さくリタは呟いた。エステルは笑って返す。
エステルは今度こそ城に帰ることになっていた。無事にユーリが下町の魔核を取り戻し、帝国とギルドの関係も落ち着いた。ラゴウも捕まり平穏を取り戻したであろう今の城へ、彼女はこれ以上フレンらに迷惑を掛けないために戻るのだという。
言葉のわりに彼女が城へ戻りたくはなさそうな顔なのを、は触れずにいた。エステル本人がそう決めたのならば、自分が口を出す権利は無いのだと。
「ラゴウは、しっかりと罰を受けるべきですから」
エステルの声に、は頷いた。
それから細やかな談笑の後、疲れきっていた彼女たちは眠りについた。
◆◆◆
エステルとリタがすっかり熟睡した夜中、は静かに部屋を出た。
の胸には一つの思いがあった。カプワ・トリムでラゴウを見失った時から決定的なものと化していたもの。ずっと心に在ったものだった。
リタは「何も出来ない」と言った。
私は「だから悔しい」と言った。
けれど、それは嘘。
ああいうどうしようもない悪党に、私でも出来ることはある。
たとえそれが、赦されない方法だとしても。
港で僅かな記憶が蘇った時のように心臓が跳ねる。黒い血溜まりが頭を埋め尽くすようだった。
――赦されてはいけない。
胸の奥から誰かが呼び掛けてきた。確かに聞き覚えのある声だった。遠く、遠くから。なのに声は、の心を強く揺さぶる。
――赦してはいけない。
ふらりと彼女は歩を進めた。
目立つ武器は持たなかった。得物は、常に懐に潜り込ませてあるナイフだけ。
揺さぶりを堪えながら、すうと深く一呼吸する。決意を今一度固め、は宿屋の戸を開き、夜のダングレストへ繰り出した。
「ワン」
出端を挫かれた思いだった。
悲鳴を上げかけ、慌てて飲み込む。
開けた扉の側にはラピードがいた。体を丸め、眠る体制をとってはいるが、碧の隻眼はをしっかり捉えていた。
静かな彼の一鳴きは、夜闇にすぐ消える。だがの足を止めるには充分だった。悟るようなラピードの眼差しに、は戸惑った。
「ラピード、さん……」
ラピードはそれきり黙った。再び瞳を閉じ、眠り始める。置いてけぼりを食らった子供のように、はただただラピードを見下ろしていた。
判ってしまったんだろうか。
物思いに耽っていた彼女がラゴウの存在を思い出した矢先、再びその出端は挫かれることになる。
向こうから歩み寄ってくる人影があった。闇目の利くにも認識しづらい、黒い影。徐々に距離が詰まっていく。見覚えがある――。
彼女はようやくその主の見当をつけた。
「ユーリ」
自然とは呼び掛けていた。呼ばれた影の正体、ユーリはゆるりと顔を上げた。月明かりの無い夜空の下、互いの表情はうまく読み取れない。
「? ……随分夜更かしだな」
「ね、寝れないの。それに夜更かしは、そっちだって」
「オレは大人だからちょっとぐらい平気なんだよ」
「なにそれ……」
そういえば、ユーリはラゴウに関する話を訊いたのだろうか? 恐らくカロルづてに彼も耳にしてはいるはずだ。ユーリのラゴウに対する怒りは一際強かったようには記憶している。
またもや己の罪から逃げ出したあの咎人を、彼はどう思ったのだろう――。
は無意識のうちに口を開いた。
「ラゴウのこと、聞いた?」
ユーリは僅かに目を見開いた。
「ああ。カロルから聞いたよ」
「私、許せない……。あんな奴が真っ当に裁かれずに生きるなんて」
珍しくが感情を露に話すのを、ユーリは見守るような顔をして聞いていた。ユーリの雰囲気が普段とは僅かに違うことを、は感じた。
「そうだな、オレも許せねえよ」
「人の命を弄ぶ奴が、生きてていいはずないのに。おかしいよ、こんなの」
「それで眠れなくて出てきたのか?」
本当は違っていたが、は頷いておいた。真意を語ったらややこしくなってしまう。彼女は一先ず彼の思うままに話を運んでもらおうと考えた。
素直に頷いたに、ユーリは苦笑する。
「お前、結構感情的なんだな」
「……ユーリたちに会うまでは違ったんだけれどね」
脱け殻のように生きていた自分の感情が蘇ったのは、間違いなくユーリたちのお陰だった。仲間との交流が心を刺激して、少しずつ自分が失ったものを思い出させてくれている。共通した感情と目的を持つ存在がいることの素晴らしさに、は幸せを感じていた。
同時に彼女は怒りや憎しみと言う感情も思い出していた。許せないものが世には在ることに気付いてしまった。不条理に苦しむ弱いものの存在を知ってしまった。世界は守るべきはずのものを追い詰め、咎人に甘い汁を啜らせて平然と在ることを。
だからこそ今、こうして宿屋を抜け出そうとしていた。
――ラゴウを殺すために。
ひっそりとは拳を握り締めた。
考え込み、押し黙るに、ユーリは何か感じるものがあったらしい。瞬きひとつの間を置いて、彼は言った。
「とりあえず休め。ベッド入って目ぇ閉じるだけでも変わるもんだ」
「で、でも」
このまま眠るわけにはいかなかった。ユーリに促されながらもは宿屋へ入ろうとしなかった。彼がその気になれば無理矢理部屋に戻されそうなものだが、ユーリはただただを諭すように見つめるだけである。
不意にユーリはへ手を伸ばした。反射で身を強張らせる彼女自体に、ユーリが触れようとすることは無い。
彼が触れ、取ったのは、が隠し持っていたナイフだった。
ユーリはナイフを手にすると、改めてを見た。その眼差しは何時もと異なる光を持っている。の中で、ユーリに感じた“違い”が確かなものに変わっていく。
「気持ちは判る」
は何も言えずにユーリを見上げていた。夜風が雲をずらして、ほんのり差し込む月光が彼を照らしていた。
ユーリは再度口を開いた。
「けど、お前がやることじゃない」
彼はそのままの横を過ぎ、宿屋へと入っていってしまった。
は呆然と立ち尽くしていた。
頭の中が真っ白になった。
算段は粉々に砕かれた。
意味がなくなった。
ユーリは気付いていた。が為さんとしていたことを。隠し持っていた殺意を。今これから、それを向けに行こうとしていたことを。
そしてユーリと同等、あるいは彼以上に聡いも、気付いてしまった。僅かな言葉ではあった。しかしには充分すぎた。
人知れず彼は、かの咎人へ手を下したのだ。
言い様の無い感情が胸の中に溢れ、満ちていく。
自分があと少し早ければ、彼は手を汚さずに済んだのではないか。彼があんな顔をすることは無かったのではないか。
そう思うと堪らなく悲しかった。
彼こそ、こんなことをするべきではなかった。
失うもののない自分がすべきことだったのに。
ごめんなさい。
は泣いた。次から次へと零れる涙を拭い、嗚咽を堪えながら、心の中で何度も謝った。
しかし泣きじゃくりながらも悟っていた。
これはユーリの決意なのだ。彼が決めたことなのだ。ならば自分にはもう、口を出すことなど出来ない。決意を踏みにじる権利は、誰にも存在しない。
そう割り切ろうとすればするほど、何故か悲しみは増していく。
何時から起きていたのか、ラピードは先のように彼女を見上げていた。泣き止まぬ彼女を、何も言わず、ただただ静かに。
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