ユーリは宿屋にいた。ぼんやりと部屋の壁を見つめながら、ただただベッドに横たわる。
 昨夜自分が決めたこと、手を下したこと。様々な思いが絡んで、胸が重たい。舌打ちしながら寝返りを打つと、固いものが体に当たって小さく痛んだ。
 ――から取り上げたナイフだった。使い込まれ、古びた持ち手には赤黒い染みが滲んでいる。隠し持つには丁度良い大きさだ。
 返してやんなきゃな。
 昨夜のの眼差しが蘇った。何かを決したあの眼。ユーリの数少ない言葉から、彼女は全てを悟ったはずだ。動揺を露に揺れた瞳と義眼の輝きが、何よりの証拠。その瞳は「どうして?」とユーリに訴えていた。その時に彼女の隠し持っていたナイフに気付き、思わず取り上げてしまった。
 自分がやらなければ、彼女がラゴウに手を下していただろう。ユーリよりも余程容易く、あっさりと。
 ユーリは何となしにそう感じていた。

「ユーリ、起きてる?」

 物思いに耽るユーリに、部屋の扉を開けて呼び掛ける少年の声が届いた。帝都に戻るエステルを見送りに行ったカロルが戻ってきたらしい。ユーリはナイフをそっと隠した。

「エステルもリタも行っちゃった。も見当たらないし……。今追えば、まだ間に合うかもしれないよ」
「その気になりゃ、いつだって会えるさ」
「……ユーリのばか。もう知らない」

 こちらを見向きもせず返してきたユーリに、カロルは怒って部屋を出ていってしまった。
 ユーリとて仲間との別れが寂しいわけではない。ただカロルと違ってユーリは大人だった。
 ――行っても帰りづらくするだけだっての。
 そうしてユーリは瞳を閉じた。


◆◆◆


 昨夜のユーリとの話が尾を引き、は眠れずにいた。涙も枯れ、大分平静を取り戻していたが、まだ感情の芯は落ち着かない。日が昇るより早く身なりを整えると、彼女はダングレストの街へ出た。
 街の中を彷徨うように歩を進め、出入り口である橋へと差し掛かる。ぼんやりと考えもなく歩き、夜明けを迎えた黄昏の空を見上げていた。これ以上進んでは街を出てしまうというところで、は歩みを止めた。
 橋の手すりに身を寄せ、川を見下ろす。落ちてはひとたまりもないような高さだ。流れも決して緩くはない。

「ここに、落ちたのかな」

 無意識の呟きが己の鼓膜を叩いたことではっとした。慌てて身を引くと、は川を背にして屈んだ。落ち着け、落ち着け。必死に言い聞かせる。また泣きそうになるのを何とかやり過ごすと、ようやくは顔を上げた。
 とりあえず宿屋へ戻ろう。そう思った。エステルの見送りをしなくては。
 橋の向こうに視線をやると、騎士団、それから馬車が見えた。エステルを送るためのものだろう。
 近付こうと立ち上がった矢先、彼女の足は突如鳴り響いた轟音にもつれた。衝撃が地を揺らす。慌てては街の結界を確認した。見上げた結界の輪は異状なく輝き続けている。しかし。
 は目を見開いた。

「何、あれ……!」

 空には巨大な魔物の影があった。赤く燃える炎がそのまま翼になったような鳥の魔物だ。
 結界をもろともせずに魔物はダングレストの空を飛び回り、火球を放ち、爆発を引き起こしていた。
 何故あの魔物は結界の効果を受け付けないのか、何故この街を襲っているのか。答えの見つからない疑問を振り切るようには駆け出した。
 魔物は街へどんどんと近付いてきた。その眼光が狙うものを必死に辿る。
 大体の見当を定めた瞬間、は青ざめた。

「エステル!」

 魔物の攻撃は、馬車たちを狙っていた。たくさんの騎士が傷付き、倒れ伏している。そのひとりひとりを、優しすぎる少女が己の力で癒して回っていた。魔物と少女の距離は詰まっていく。
 魔物は“エステル”を狙っている――!
 の義眼が強く輝いた。光は力となって身体を駆け巡る。この感覚には覚えがあった。ガスファロストでバルボスと戦った際のものだ。鎌を携えながら、彼女は一気に馬車の元まで近付いていく。
 人間離れしたスピードで、はエステルと魔物の間に滑り込んだ。突如現れた彼女に「!?」エステルが叫ぶ。
 エステルを背に、魔物を睨んだまま、は鎌を握り締めた。
 魔物の赤い瞳。鋭く、此方を威圧する眼光に、ふと恐怖だけではない別の感情も沸き上がる。初めて抱くものではない。何処で感じたものだったろうか?
 自分たちをただの獲物と見据える訳ではない眼差しに、は疑問を覚えた。

「エステル、逃げて」
「そんな……出来ません!」
「逃げて!!」

 魔物に隙はない。しかしエステルを逃がす時間を作るぐらいならば自分にも可能だとは信じた。忌々しい義眼の生み出す力が、今ばかりは頼もしく思える。
 しかしエステルは動いてくれなかった。怪我人と仲間を置いていく薄情さを、彼女が持ち合わせている筈が無かった。自分が狙われていることに気付いているはずなのに。
 これでは共々やられてしまう。これまでか――。したくはない覚悟を迫られ、が眉を顰めた瞬間だった。

“まだ、お前たちは人間の肩を持つか”

 は息を呑んだ。魔物を見返しながら、必死に頭の中を整理する。
 声が、した。
 自分とエステル以外に口の利ける人間は側にいない。第一聞き覚えのない声だった。その声は、耳からではなく、直接頭の中に送り込まれてきた。思念とでも言えばいいのか。しかしそれは、確かに彼女に聞こえた。
 ――あの魔物から。
 呆然と立ち尽くすに、魔物は再度声を放つ。

“好きにするが良い。だがお前たちと同じように、此方にも此方の意志がある”

 魔物はそれきりへの思念を閉ざした。そうして、の向こう――エステルを見据え、鳴いた。

「忌マワシキ、世界ノ毒ハ消ス」

 先とは違い、この声はエステルにもはっきりと届いた。否、エステルに向けられた言葉だった。
 忌まわしき世界の毒――。告げた魔物の眼光には怒りが宿っていた。エステルを睨んでいた。こちらは何一つ訳が判らない。
 突如蚊帳の外に放り出され、挙句仲間を毒呼ばわりされ、は怒りで頭に血が上るのを感じた。

「ふざけるな、お前――!」

 激昂したの叫びは、新たに生まれた爆発音によって掻き消されてしまった。
 爆発は魔物の側で起きていた。何処からか攻撃を食らったらしい。急いで周りを見渡すと、街の外に大きな要塞があるのを確認することができた。いつの間にあんなものがあったかは全く判らないが、助かった。「ヘラクレス――」小さなエステルの呟きを拾い、はあれがヘラクレスという名前だと知った。エステルが判るならば、あれは恐らく帝国の兵器なのだろう。
 要塞の攻撃は、魔物のみならず街にも被弾した。更には魔物が攻撃をかわし始めたことで、被害は拡大していってしまう。魔物は攻撃を回避するために、エステルから離れざるを得なくなった。
 今のうちに逃げよう。そう思ったがエステルを顧みたとき、向こうから見覚えある姿が駆け寄ってきた。

「ユーリ!」
「カロルまで……」

 エステルを案じたユーリとカロルの二人だ。しかし状況が状況なだけに、話す暇は無さそうだ。砲弾も魔物も、いつ此方に及ぶか知れない。
 爆音の中、ユーリはエステルを見た。

「オレはこのまま街を出て旅を続ける」
「え?」
「帝都に戻るってんなら、フレンのとこまで走れ。選ぶのはエステルだ」

 随分と意地悪な聞き方だな、と傍目には感じた。己で選択させることは大事だが、その聞き方では――少なくともエステルの心にとっては――選択肢はひとつしかないではないか。
 エステルは涙ぐみながら、ユーリに答える。

「わたしは――旅を続けたいです!」

 しかしは、少女の眼差しを見守りながら己の考えを改めた。
 ユーリは決断を促したわけではない。帝国の姫ではなく、“エステル”の答えを聞きたかったのだ。
 エステルは、エステル自身として出したい答えを抑圧されていたのだろう。生まれ持った血筋のために醜い権力争いに巻き込まれ、彼女は彼女らしくあることを許されなかった。だからこそ、こうやってユーリは彼女本来の心を問うたのだろう。しっかり言葉にさせようとしたのだろう。
 そしてエステルは答えた。姫としての立場からではなく、エステルというひとりの少女として――。

「そうこなくっちゃな」

 微笑むユーリの差し出した手を、ひとつ成長した花の乙女が掴む。
 一行は駆け出した。砲弾が橋を直撃し、瞬く間に街との道は分断されてしまう。崩壊に巻き込まれないようにと足を止めず走るたちの前に、ふと映るクリティアの女性の姿があった。
 ジュディスだ。

「何してるのジュディス!」

 はたまらず叫んだ。ジュディスが魔物と対峙しているように思えたからだ。
 呼ばれたジュディスがこちらを振り返る。危機感など無いという顔だった。と、続いてエステルが彼女に駆け寄る。

「逃げよう、危険だよ!」
「危ないことしないで!」

 揃って口にする少女たちに、「おまえらがそれ言うな」ユーリは嘆息した。心配はない、と断るジュディスの手を、少女たちはやはり揃って掴んで進み出す。

「あら、強引な子たち」

 ジュディスはやはり、危機感など微塵も滲ませない微笑みで呟いた。
 いくらか進むと砲撃も止み、魔物も目的を達したのか身を翻し去っていくところだった。
 ようやく一息つけるか、という時。

「待つんだユーリ! それにエステリーゼ様も!」

 崩れた橋の向こうから声が響いた。フレンであった。
 エステルは彼に向き直ると、開口一番「ごめんなさい、フレン!」大きな声で謝った。

「わたし、やっぱり帝都には戻れません! 帝都にはノール港で苦しむ人々の声は届きませんでした。自分から歩み寄らなければ何も得られない……。それをこの度で知りました。だから旅を続けます!」

 エステリーゼ様、と呼び掛けて言い澱むフレン。彼に向けて、今度はユーリが何かを投げ渡した。きらりと輝く淡色の球体――バルボスから取り返した魔核だ。

「その魔核、下町に届けといてくれ!」
「ユーリ!」
「帝都にはしばらく戻れねえ。オレ、ギルド始めるわ。ハンクスじいさんや下町の皆によろしくな」

 側にいたカロルが、ユーリを見上げた。嬉しさのあまりに瞳は潤んで輝いているほどだ。
 ギルド。そう口にした親友を、フレンは真っ直ぐに見据えた。

「それが、君の言っていた君のやり方か」
「ああ、腹は決めた」
「それは構わないが、エステリーゼ様は……」
「頼んだぜ」

 これ以上は野暮だと言うようにユーリは友を背にした。次に彼はカロルを見た。

「言うのが逆になっちまったけど、よろしくな、カロル」
「うん!」

 そうして各々が新たな決意を胸に、一行はダングレストを発った。
 慌ただしくも何故かこの面子らしい何かを感じて、はひっそり笑った。しかし笑ってばかりいられないのも事実だった。
 火の鳥が投げ掛けた言葉は、の心に大きな波紋を残していた。
 を“お前たち”と指し、傍らのエステルを“世界の毒”と指した。
 あえて区別し、あえて別々に語りかけた。
 エステルは、何なのだろう。
 そして私は、何なのだろう。
 行き場のない疑問が頭の中でぐるぐると巡る。この混乱は、デュークと対した時のものに似ていた。

(魔物のあの言い方じゃあ、私は)

 デュークも、火の鳥も、の知らないを知っている。そしてそれを語らない。
 どうしようもないもどかしさに、彼女の先までの笑みは失せ、歪んでいた。

(私はまるで、“人間”じゃないみたい……)

 この時既には、何故か魔物が喋ったこと自体に対しては何の疑問も持たなくなっていた――。

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