は、シュヴァーンが瓦礫に呑まれる直前に飛び込んで来てしまった。記憶を取り戻したばかりで、心境が不安定なせいかもしれない。彼女は「お兄さん!」と叫びながら狼へと転じ、結界を生んだ。
絶えず柔らかな光を放つ義眼は、結界の維持だけではなく、シュヴァーンの傷を癒すために力を行使していた。証拠に、彼の傷は塞がり、出血も収まっている。アレクセイが刺激したエアルクレーネを鎮めながら、そのエアルを利用しているのだろう。
「器用なもんだわね」
「10年前に比べたらまだまだです。……遠慮せずに寄り掛かってください」
「とっくにそうさせてもらってるよ。流石におっさん、へばっちゃったもんで」
「なら良かった」
言いながらは尾を揺らし、シュヴァーンを優しくはたいた。労って人の肩を叩くような、そんな仕草に似ている。
大狼の毛並みは柔らかで暖かく、心地良い。
「……さっきは酷いこと言ってごめんな、ちゃん」
「私を消すって話ですか? 気にしないでくださいよ」
は呑気に笑い混じりで返した。
「アレクセイにとって今の私が邪魔なのは当然です。宙の戒典ほどじゃないけれど厄介には違いないから……」
「でも俺は、実際に本気で戦ったんだぜ?」
「ここで私たちに倒されようとして、そうしたんですよね?」
それまで穏やかだったの声が鋭くなった。
自分の命よりも、シュヴァーンの悲しい覚悟の方が彼女にとっては重要なのだ。
「死のうとしたことについては、すんごい怒ってますから私」
「ちゃんだってこんなことして、死ぬようなもんじゃないの」
「死なないです。あなたを連れ出して、エステルを助けるんです。絶対に」
は瓦礫を見渡し、脱出口を探っていた。その目は、全てを思い出した後とは思えないほど曇りがない。
……何もかもを思い出したのなら、彼女は知っているはずだ。
過去にシュヴァーンと会っていたこと。義眼を与えた技師とアレクセイが協力関係にあったこと。始祖の隷長との契約で得た力に目をつけられ、彼等の実験台に選ばれたこと。そして、彼女が探し求めている家族も故郷も、とうに失われていることたちを……。
シュヴァーンの胸は軋む。あの時、自分が止めていたら、はこんな目に遭わなくて済んだかもしれないのだ。
「ごめんな、ちゃ――」
謝りかけたシュヴァーンの口を塞ぐように、ぺしりと狼の尾が叩いた。
「ぶっ!?」
「謝る相手が違うでしょ!」
「へ……?」
「私は、あなたに謝られる理由がないの!」
はきつくシュヴァーンを睨み付けながら言った。
「あなたが謝るべきなのはエステルですよね? 謝って仲直りしなくちゃだめなの、判ってますか!?」
シュヴァーンは呆気に取られてしまった。
――仲直り、だなんて。
彼がエステルにした行いは、許されるものではない。それでもは何もかも諦めていなかった。
「謝ってなんとかなるもんじゃないよ、俺がしてきたことは……」
「ちゃんと理由を話せばエステルも判ってくれる。やる前からダメだなんて言うのがダメです!」
見た目は狼でも、声は普段ののままなせいか、何だか気が抜けてしまう。
の言わんとしていることは判るのだが、全面的にシュヴァーンを信頼しきった考えの全てが甘過ぎる。
「君を助けなかった、仲間を敵に引き渡した。そんな奴が許されるはずはっぶっ!?」
また狼の尾がシュヴァーンの口を叩いた。さっきより痛い。
「何度言わせるつもりですか!」
「ちょ、ちゃ……」
「それにね、私だって、あなたが思っているほど良い子じゃないんです」
の声が、途端に元気を無くす。同時に尾もくたりと垂れ、シュヴァーンの上へ落ちる。
重苦しい空気が彼女から伝わり、シュヴァーンは瞬きした。何かは、思い詰めているようだ。
散々此方に発破をかけておきながら、何を今更彼女は悩んでいるのだろう。
……シュヴァーンが彼女の尾を撫でていると、は静かに語り始めた。
「エステルを拘束していた術式と、無理に力を行使させるときに浮かんだ術式。どれも見覚えがあります。……昔、私の“右眼”を作った人が、似たものを私に使いました。恐らくアレクセイは、あの人とはそういう技術も共有していたんだと思います」
「そう、だったのか」
「実際にここへ来るまでに、一度、アレクセイに私の力を使わせてしまいました。でも私の力と彼の術式の相性が良くなかったみたいで、聖核がひとつ壊れて……。だから多分、共有した技術を元に、満月の子の力に合わせた術式を作ったのかなって……」
の声は、どんどん弱々しくなっていく。
「……技師とアレクセイに、共有させてはいけない情報を共有させてしまった。そんな機会を与えてしまったんです、昔の私が。それはつまり……私がエステルを苦しめてるのと、おんなじ」
「違う、ちゃん。それは……アレクセイたちが勝手にしたことだ」
――義眼を与えられた頃のは、ほんの幼い子供だった。親と故郷を失い、弟妹と共に技師たちに引き取られ、運命をねじ曲げられた哀れな少女。たったひとりの少女が仮に技師たちの目論見に気付いたとて、何が出来よう。
それでも、は深く責任を感じていた。
「本当は、シュヴァーンさんに……レイヴンさんに……偉いこと言えない。私が昔、知らない間に協力してしまったことがエステルを今苦しめているのは、変わらない事実です。エステルに、謝らなくちゃいけない。私がもっとはやく全部を潰していたら、エステルはこんなことにならなくて済んだかもしれない」
「さあ、判らないぜ? ヘリオードの結界が暴走したときから、あの騎士団長サマは嬢ちゃんに目をつけてた……」
アレクセイはシュヴァーンに、エステルの力についての報告と監視を命じていた。ついでに、消えたはずの実験台・のことも。あわよくばの力も利用するいうつもりだったのだろう。しかしこの遺跡でが記憶を取り戻し、利用するには“手間だ”と判断したアレクセイは、その存在の処分をシュヴァーンに命じた。宙の戒典を消す、そのついでに。
いつでもは、あの男にとって“ついでの駒”だった。昔から協力しあっていたという義眼の技師すら、そうだったに違いない。
アレクセイも最初は、確かに“理想”を目指して進む真っ直ぐな人間だった。そんなアレクセイが、今では全く真逆の力へ向かって進み、歪んでいってしまった。彼は何にも勝る絶対的な“力”を望んだ。その為ならどんな犠牲も厭わないのである。
――止めずにただ従っていた俺が批判できたことじゃあないか。
フッと微笑みながら、シュヴァーンはの尾を撫でるのを止めた。代わりに、落ち込む白狼の頭へと手を伸ばす。
「ちゃんが気に病むこたぁ無いわよ。それでもエステルちゃんに謝らなきゃってんなら……おっさんと一緒に謝ってちょーだい。ひとりじゃ心細いんでね」
レイヴンらしい口調でシュヴァーンが提案すると、の瞳に輝きが戻った。その屈託のなさと一喜一憂ぶりが、を幼く見せてしまう。これが本来のの性格だった。遠い昔、シュヴァーンが見て感じたそれのままだ。恐らく今、人の姿に戻れば、満開の笑みを咲かせていることだろう。
撫でられるのが気持ちいいのが、シュヴァーンの言葉がよほど嬉しかったのか。幸せそうには目を細める。
「実は……そうしたいなって私も思ってました! なんだかすみません、ちょっと卑怯な発想で……」
「いやいや、何も卑怯なんかじゃござあせんよ、ちゃん」
――まあ、ここを無事に出られる目処すら無いしね。
急激にシュヴァーンの心は冷え、現実へと引き戻された。
いつまでもが力を行使するわけにはいかない。人の姿を捨ててまで自分を庇ってくれたことには感謝している。しかし、あまりにも長い間戻らずにいては、いくら特殊な力の持ち主と言えど悪影響がないとは限らなかった。
(……こんな男と一緒に死なせるには、惜しいな)
せめてだけでも何とか抜け出せれば良いのだが、そんな力が彼女に残されているだろうか? シュヴァーンが目を覚ます前から結界と治癒の力を行使し続けているようだし、仮にシュヴァーンが「ひとりで脱出しろ」と彼女に告げたところで動くとは思えない。何せ崩壊する部屋に考えなしに飛び込んでくるような子なのだから。
(でも、せめて、この子だけでも……救えないだろうか)
そう思ってシュヴァーンがの顔を見ると、優しく目を細めたまま彼女は言う。
「絶対、一緒にここを出ましょう。あなたと私で」
シュヴァーンは驚いた。一瞬、自分の心が読まれているのかと思った。
だがは本当に何となくそう言っただけのようで、深い意味は無いようだ。
「にしても、どうすれば良いかな……。瓦礫を上から退かさないと、此処から突き進むにも瓦礫が落っこちてきちゃう……」
が再び難題に頭を悩ませ始めた瞬間――、
「……長……」
何者かの、声が響いてきた。
とシュヴァーンは顔を見合わせた。互いに先の声が聞き間違いではないことを確認すると、改めて耳を澄ませ、瓦礫を見上げる。
「――隊長……!」
声はシュヴァーンたちに近付いてきていた。男性の声である。
「誰かいるんですか!」
は必死に呼び掛ける。その叫びがどれほど瓦礫の隙間を抜けていってくれるかは判らない。それでも彼女は必死に声を張り上げた。
「お願いです、助けて! ここに怪我をしている人がいるの! レイヴンさんが……シュヴァーンさんがいるの!!」
「シュヴァーン隊長が!?」
声は確実にたちの存在に気付いた。がしゃんがしゃんと金属のぶつかる、聞き覚えのある音。これは、鎧を着込んだ騎士が歩くときにするものだ。音からして、付近にいるのはひとりではないらしい。
の呼び掛けから程無くして、彼女たちの真上の瓦礫が動き始めた。ぱらぱらと細かな土や石が降り落ちてくる。結界が弾いてくれなければ、目に入ってしまいそうだ。だが、結界の光は弱まってきている。シュヴァーンとの激戦からずっと力を使っているのだ、満身創痍の体で魔導器を酷使する辛さが、シュヴァーンには痛いほど判る。
「ちゃん、やっぱり消耗が……」
「あなたが助かるまで保てれば、結果オーライですよ!」
それでもの声は明るかった。
ふたりの視界を阻む瓦礫が、駆けつけた男たちの手によって取り除かれる。
「シュヴァーン隊長ぉおおおっ!」
叫び声が三つ、シュヴァーンとの耳を突いた。
――見慣れた夕焼け色の隊服。やけに身長が高くて細い男と、逆に小柄でまるっとした男。そして、壮年の騎士。
シュヴァーンの部下、アデコールとボッコス、ルブランであった。
「良かった、隊長……。もう少しの辛抱ですぞ!」
三人は隊長の無事を確かめて安堵すると同時に、狼のに酷く驚いた。
「この光は一体……なっ、ま、魔物!?」
「違う、この子が俺を守っていてくれたんだ」
剣を構えたルブランを、咄嗟にシュヴァーンは制した。
「な、なんと……よく判りませんが、狼殿、心から感謝する!」
「それよりも、早く、シュヴァーンさんを!」
「しゃ、喋ったのである……」
「なんてこった……」
「アデコール、ボッコス! 今は隊長と狼殿の救出だ! もっと石を取り除くぞ!!」
ルブランの叱咤で我に返った部下ふたりは、彼と共に再び瓦礫を退かし始める。
はその光景に安堵していたが、シュヴァーンは違った。また祭壇の中が揺れ動き、一度崩れた天井から更に石を降らせていることに気付いたからだ。
まだ動けそうなはともかく、怪我の癒えきっていない自分では脱出の足を引っ張ってしまう。元より十年前に尽きるはずだった命。それを今日、再び終わらせたいと願った。
だから、彼は叫んだ。
「お前ら、早く逃げろ!」
「わかっております、もう少しです!」
大きな瓦礫を必死に押し退けながら、ルブランが返す。
――わかっていない!
シュヴァーンはもう一度叫んだ。
「俺のことを置いていけと言っているんだ!」
ルブランたちが瓦礫を退けてくれたお陰で、は抜け出せそうだ。だががここから離れれば結界が――シュヴァーンを守るものが無くなってしまう。それで良い、とシュヴァーンは思った。
「何言ってるんですか、シュヴァーンさん!」
非難するようなの声に、ルブランが力強く頷く。
「狼殿の言う通りです。我らも騎士の端くれ、己の隊長とその恩人を見捨てて逃げるなぞ出来ませんぞ!」
アデコールとボッコスも「そうです!」と土まみれの顔に満面の笑みを浮かべてみせる。
祭壇の崩壊は秒刻みで加速していく。
このままでは彼らもろとも……。
そんなシュヴァーンの焦りと想いが、荒々しい怒号と共に炸裂する。
「いい加減にしろ!」
あまりの剣幕に、部下とがシュヴァーンを見て硬直した。
シュヴァーンの叫びは止まない。
「お前らは判っていない、自分の命を危険に晒してまで助ける価値なんて俺には無いんだ! いいか俺には――」
「ない訳ないでしょう!!」
シュヴァーンを遥かに上回る剣幕で、ルブランは怒鳴り返した。
呆気にとられたシュヴァーンが、ぽかんとした顔で部下を見つめ返す。その後ろでは、が嬉しそうな顔をしてルブランの言葉に何度も頷いている。
ルブランは続けた。
「話をしている暇があったらお助けできます! 隊長、狼殿。もう少しだけご辛抱ください。……アデコール! ボッコス!」
呼ばれた二人の部下は、剣を手に頷いた。
三人はシュヴァーンたちの動きを阻む巨大な瓦礫を前に距離を取った。
剣をしっかり構えながら、ルブランたちは集中する。
「いいか、ずれるんじゃないぞ! ……3、2、1、はぁっ!!」
ルブランの合図で、三人は一斉に剣から衝撃波を放った。見事三人の攻撃は、救出を阻んでいた瓦礫を砕き散らす。
歓声を上げながら、彼らはシュヴァーンの体を穴の中から救い出した。だがシュヴァーンの体は、まるで助けを拒んでいるかのようにぐったりと力を失っている。
は彼の無事を確認し、穴から飛び出た。結界と言う力場を失った穴に瓦礫が落ちていく音を背に、は真っ直ぐシュヴァーンたちに駆け寄っていく。
部屋に降ってくる瓦礫が次第に大きくなっている。先刻のようにまた激しい崩壊をするに違いない。は焦った。
「私の背中にシュヴァーンさんを乗せてください! そろそろ部屋が崩れます!」
「かたじけない、狼殿! よし急ぐぞ!」
「よせ、早く逃げろ――」
力ないシュヴァーンの声に、ルブランとは揃って返す。
「だまらっしゃい!」
「怪我人は黙る!」
二人の気迫に、またもやシュヴァーンは言葉を失う。
……もう、抵抗する気力も無くなっていた。
ルブランたちの手によっての背中へ乗せられ、シュヴァーンは無事に、部下たちと共にバクティオン神殿を脱出した。
一行が神殿を出ると同時に、中からは大きな崩壊音が轟いてきた。まさに紙一重のタイミングだ。あれに巻き込まれていたら、いくらとはいえ希望を抱き続けてはいられなかっただろう。
――いや、ちゃんなら「何とかなる!」って言いかねないか。
ゆっくりと地面にが屈み、シュヴァーンは彼女の背から下りた。安心して地面にぺたんと伏せる土埃まみれの大狼を見ながら、シュヴァーンは嘆息する。
真上に広がる大きな青い空と目を突くような日差しの眩さが、身も心も疲れきった体には響いた。
だが、じっとしてはいられない。
一種の決意を持ちながら、シュヴァーンは部下たちを顧みた。
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