暗闇にあった意識が覚醒し、ユーリは重たい瞼を押し上げた。
視界いっぱいに映る青空。鼻を突く青々とした草木の香り。そよめく風。帝都から随分と吹き飛ばされたらしい。それより……。
――生きてる?
弾かれた様にユーリは立ち上がった。急な動きは満身創痍の体に大層響いたが、それどころではない。痛みを堪えながら、ユーリは辺りを見渡した。幸い、ほとんどの仲間がそばにいる。自分たちを運んでくれたバウルも、力なく大地へ横たわっている。相当苦しそうだ。
「……みんな、生きてるか?」
ユーリの呼び掛けに、仲間たちが次々と目を覚ます。
「私はなんとか」
「クゥー……ン」
「生きてるっちゃ生きてるけど、無事かと言われると微妙よ。何本か骨いっちゃったっぽいわ」
「船もメチャクチャじゃ……許すまじ、アレクセイ……いてて……」
何とか起き上がるジュディス、ラピード、レイヴン、パティ。
カロルとリタは、更に重傷らしい。体を動かせずに、痛みに顔を歪めている。
「ユーリ、痛いよ……」
「エステルのあれ……宙の戒典と似てた……。多分、幾つも聖核集めて同じことやろうと……」
「無理にしゃべるな、ふたりとも。すぐ医者見つけてやっからな」
ちょっとだけ辛抱してくれ、とユーリは、カロルとリタを励ました。
ふらつきながらもバウルに歩み寄って行ったジュディスは、そっと彼の顔を撫でながら呟いた。
「ありがとう、よく頑張ってくれたわね」
ユーリも彼女の隣へ立ち、バウルを見上げる。
「バウルの怪我……。しばらく運んでもらうのは無理だな」
「ええ。傷が癒えるまで、何処かで休んでもらうわ」
「無理させちまったな。ゆっくり休んでくれ」
バウルはその言葉を聞き終えると、静かに上空へと飛び去って行った。傷だらけで、何時もより力の無い飛翔。始祖の隷長の能力がいくら優れているとはいえ、あの怪我だ。どのぐらいの時間で治るのか、ユーリには見当もつかない。
空へ消えたバウルを見送るユーリたちの後ろで、再びカロルたちが呻いた。
「エステルは……は……」
「そうよ、ふたりが……! 急がないと」
「おまえらはまず自分の心配しろ」
無理やりに体を起こす二人へ、ユーリはぴしゃりと言い放つ。
もちろんユーリとて気が気ではない。
抑え切れない力に涙し、自分を“殺してほしい”と乞うた少女。
ユーリを甲板へと放り込み、自身は城下へ落ちて行った少女。
――エステルを助けるとして……間に合うか?
――そしては……生きてるのか?
考えれば考えるほど事の重さに滅入って来るものの、挫けるわけにはいかない。
「うむ……この体で乗り込めば確実に返り討ち、なのじゃ……」
ユーリの言葉にパティが深く頷いた。この状況下にありながら、パティは本当に落ち着いている。年端もいかぬ少女とは思えない貫禄だ。
周囲の景色を見渡しながら、ジュディスが提案する。
「ここはカプワ・ノールの近くのようね。とにかくノール港にいきましょ。きっとお医者さんもいるはず」
「ああ」
短く頷くと、ユーリはすぐに歩き出した。カロル、リタも背中を丸めながら、何とか自力で歩いていく。出来れば支えてやりたいところだが、皆が皆、ずたぼろだ。自分の体を支えるのが精いっぱいで、戦い慣れたこの辺りの魔物の相手すら遠慮願いたい。慎重に見つからないよう、港を目指すしかなかった。
歩きかけてレイヴンは、帝都の方角を――空を見た。帝都を中心に暴走したエアルが周囲を赤く染めているのが、遠目にも判る。
「いやな空だね。エアルが雲みたく渦巻いてやがる。……災厄、か……」
このままでは本当に何もかも間に合わなくなってしまうかもしれない。
エステル。
。
レイヴンもまた、エステルの懇願を聞いてしまっていた。そして、が真っ逆さまに落下していく様をしっかりと目撃していた。
アレクセイにとってまだエステルは必要だからこそ捕らわれている。ある意味無事ともいえるが、力の行使は相当な負担だ。
に至っては全く希望が見当たらない。船をクッションに落ちた自分たちですらこうなら、その体ひとつでエアルの衝撃に打たれ、落ちて行った彼女はもう――……。
反射的に視線を落としたとき、視界の隅でキラリと陽を返して輝くものがあった。
妙に気になったレイヴンは、輝きに向かって、ゆったりと歩いていく。
光を返していたのは、小さなペンダントだった。形から察するに、チャーム部分が開閉式になっていて、中に写真や薬を入れられるものだ。千切れた細いリボンがついてるこれは、錆で汚れ、熱で僅かに歪んでしまっている。蓋は開きそうにない。
「見たことある気がするけど……どこでだ?」
呟きながらペンダントを拾い上げ、レイヴンは考える。そのまま捨て置くのは憚られて、少し悩んだ挙句、彼はペンダントを懐にしまった。
よろめきながら歩いている仲間たちは、随分と離れた場所にいる。慌てて踵を返したレイヴンは、ユーリたちに続いた。
泣きじゃくるエステルと、落下していったの姿が、再び脳裏に過ってしまう。一度ではない。何度も、何度も、それは起きた。その度に彼は己に言い聞かせた。
――諦めてはいけない、と。
カプワ・ノールで、かつて助けたティグル一家との再会を果たしたユーリらは、何とか治療を受けることが出来た。一秒でも早く帝都を目指そうとするユーリたちに、再び障害が現れた。
エフミドの丘の向こうに巨大な穴――先刻のヘラクレスの砲撃によるものだろう――が出来ており、とても通過できる状態ではないという。ノールの住人も役人も、動揺と混乱でざわついている。もっとも、丘を越えない方が安全だと思われた。なにせ帝都を中心に周囲のエアルが暴走しているのだ、影響を受けた魔物も凶暴化しているだろうし、戦いを知らぬ人間が近寄るべきではない。
だがユーリたちは帝都に向かわなくてはならなかった。そんな彼らにティグルは“ゾフェル氷刃海”の存在を教えてくれた。
その海岸はこの時期になると大量の流氷が流れ着き、運が良ければ道のように連なり、大陸の中央へ向けての迂回が可能なのだとも。
殆ど賭けのような選択だったが、ユーリたちに与えられた手段は、これしかなかった。
治療も早々に切り上げ、まだ軋む体を気力で奮い立たせながら、一行はゾフェル氷刃海を目指した。
温暖であった気候は、海岸へ近づくにつれて鋭い冷たさを孕み始める。現れる魔物たちも、それに適応した独特の変化を遂げていた。リタの得意な火の魔術が大きな威力を発揮した。
程なくして視界を埋め尽くすものは、怒涛の吹雪と流氷の浮かぶ海、僅かにある岩ばかりとなった。流氷のあちらこちらには、此処を通った冒険者の遺品なのか、剣や斧がいくつも突き刺さっている。
「昔の海賊と帝国が争った名残なのじゃ」
アイフリードに関して調べているうちに身につけたという知識をパティが口にする。 物々しい氷海の空気を更に重くさせる、眼下の海をスイスイと泳ぐ大きな魔物。翼のように巨大に発達した鰭と、鋭い棘の揃った背中をした、みるからに凶悪そうな奴だ。運悪く奴の進行先にあった氷が砕けるのを見て、カロルたちはぞっとする。
「なに、いまの!?」
「大きい……まさか始祖の隷長!?」
「……違うわね。知性が感じられないもの」
ナギーグで魔物を確かめたジュディスが、リタの問いに首を振って答える。
悠々と海を泳ぐ魔物を見つめ、またパティが説明した。
「バイトジョーなのじゃ。背骨がガチガチのピカピカで、とっても丈夫な体の魔物なのじゃ」
「ほっときゃ襲ってこないだろ。相手にすんなって。いくぞ」
ユーリの言葉に、それもそうかと仲間たちは納得して続く。
だがこの時既にバイトジョーは“獲物”の存在を認識して動き始めていたのだった。
◆◆◆
――真っ赤な空。真っ赤な街。
まるで炎に包まれてしまったみたいだ。
だが、体を焼くのは、炎ではなく、暴走したエアルたち。
エアルの嵐に揉まれながら落下した先にあったのは、巨大な植物の葉だった。エアルの暴走を受けて変化したものだ。視界も、活性化したエアルにより靄が掛かり、淀んで見える。
「……驚いた」
帝都の様子に対してなのか、自身が生きていたことに関してなのか。
はひとり、のんびりと呟いた。
体を起こして、犬のように身震いしてみる。変身はまだ解けていない。エアルの影響に対して柔軟な生まれであることをこれほどまで有難く思ったことはない。常人であれば二度、いや三度は死んでしまっているだろう。自分の血筋にほんの少し力を分けてくれたという、気まぐれな始祖の隷長の存在にも感謝しなくてはいけないな、とは頷いた。
人に戻ることも考えたが、狼に変身している方がエアルへの適応力が高まる。そのままは、植物から飛び降りた。体中を激痛が走っている。だが、動けなくはない。
エアルの禍々しい光と巨大化した植物さえなければ立派であろう帝都の街並みを眺めながら、一歩、また一歩と街を進む。
エステルは剣のような建造物を抱えた城にいた。強いエアルの力も感じる。これを辿れば迷うことはなさそうだ。
街の人々は全員無事に逃げ延びたのだろうか……?
不安を抱えながらも、はザーフィアス城門へと辿り着いた。まるで牢屋の扉のように厳重な城門だ。ただでは開かないだろう。力づくでこじ開けることも考えたが、寸でのところで思いとどまる。騒ぎを起こすと、街中に入り込んだ魔物が寄ってくるかもしれない。それに城にアレクセイがいるとなれば、何処かへ親衛隊が隠れている可能性もある。
……門を開くのは諦めて、は植物を駆け上って行った。鋭い爪を引っかけて城門の高さまで上ると、思い切って向こうへ跳んだ。着地も上手くいった。
「この体も結構便利かも」
呟きながら、は城門を顧みた。
吹き飛ばされたユーリたちの安否も気になるが、きっと彼らなら無事だろう。なにせあんな無茶をした自分が、こうして無事なのだ。諦めることを知らない仲間たちの強さを、は何度も実感してきた。
――先に行ってるね、みんな。
一刻も早くエステルを助けんと、は城内へ飛び込んでいった。
初めて入るザーフィアス城の中は、思い描いていた以上に豪奢な城であった。そして、やけに静かだった。城に入った途端、エアルの暴走は鎮静化していた。どうやらエアルが暴走しているのは外だけのようだ。
これは、よくない。城の中と外でこんなにもエアルの状態に差があるのは、アレクセイが術式でもってエステルの力を利用して作り上げた環境だからだ。早くアレクセイを止め、エステルを救わなくてはならない。
意気込むの足に力がこもる。
城の中にいるのはアレクセイの親衛隊ばかり。果てしなく広く複雑な城の中を、敵との戦いをできる限り避けながら、かつ迅速に進む……。というのは無理であった。
人気のない城の中で狼がうろついていては、すぐ見つかってしまう。一度見つかってしまい戦いになってからはそれに気付いた。だが、どうしても人間の姿へ戻ることが出来なかった。力の操作が上手くいかないのだ。怪我のせいかもしれないし、エアルの乱れのせいかもしれない。記憶が戻って、力の使い方に慣れたとはいっても、は、自身の力の全てを把握している訳では無かった。本来なら同じ力を持っていた親から教わるはずだったが、その前に死に別れてしまった。記憶が戻ろうが戻るまいが、結局は手探りで自分の力の使い方と性質を確かめて行くしかないのである。
――エステルも本当なら、今頃自分の力に向き合ってるはずだったのに。
――あんなに苦しい想いをしなくて良かったのに。
彼女の運命を弄ぶ男の顔が過って、の腸は煮えくり返った。
「アレクセイ……許さないから……」
次いで、落下する直前にエステルが口にした言葉が木霊する。
――殺して。
思い出した途端に体が冷たくなっていくような感覚がして、はかぶりを振った。
「必ず、行くんだ……エステルを迎えに」
傷ついた体に鞭を打ち、精神力でひたすら歩を進める。
何処かで落ち着いて休みたい。いや、休む暇があったらエステルを救わなくては……。は歯を食いしばる。
この状態でアレクセイに挑んだところで高が知れた。なりそこないだ化け物だと罵られ、その言葉と力に抗うことすら叶わぬまま、沈むことになるだろう。……それでも、行かなくてはならない。
――止まっちゃだめだ。
少女の想いに反し、その足は頽れ、意識は深い闇へと吸い込まれていく。
「……は……………か………」
完全に意識を失う直前、は、聞き覚えのある声を聞いた気がした……。
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