環境が激変し、アレクセイとその親衛隊らが牙を剥き始め、帝都じゅうの人間が異常を察知して逃げ出しているときだった。
人々の避難の誘導を行っていた際、ルブラン小隊は下町の人々の姿が見当たらないことに気付く。
まさか伝令が行き届かず、逃げ遅れているのではないか? なにせこの非常事態だ。
不安に思ったルブランは、部下のアデコール、ボッコスらと共に下町へと向かった。案の定、下町の人々は逃げ遅れていた。伝令が行き届かないなどという甘いものではなく、帝都の他の人々は――壁に囲まれた城下に住む人々は、ようやっと整備の手がつき始めたばかりの下町の存在など、すっかり忘れてしまっているかのようだった。その事実に愕然とする間も与えぬエアルの暴走は、自分たちを脅かそうと激しくなっていく。
ルブランたちは下町の住人を必死に守りながら、ザーフィアス城へと逃げ込んだ。不思議なことに城内にエアルの侵入は無かった。だが親衛隊がどこに潜んでいてもおかしくはない状況だった。小隊はより一層気を引き締め、住人たちを安全に匿えそうな場所を求めて進む。
予想通り親衛隊の姿を彼らは見ることになった。だが、その殆どが負傷し、戦闘不能に陥っていた。稀に無傷の親衛隊との戦闘に入ったが、ルブランたちは息を合わせ、何とか返り討ちにしてやった。
だが彼らの耳に、予想だにしない音が届く。
――獣の咆哮だった。
まさか魔物が紛れ込んでいるのか? ルブランたちの表情の険しさと、下町の住人の不安は増した。
「おまえたち、気を引き締めて行くぞ」
隊長の声に、部下二人は武器を握り直して頷く。
ルブランたちの進む廊下の先から再び咆哮が響いた。言い争うような複数の人間の声も。長く大きな廊下を進むにつれ、その騒ぎは確かなものとなっていった。
そして遂に彼らはその正体を見た。
「返せぇぇ!!」
「うわああっ!」
白い大狼が、親衛隊に襲い掛かっている。「来るな、化け物!」「慌てるな、腹を狙え!」「援護します!」自分を取り囲む親衛隊の騎士の連携を、獰猛な狼は力づくでねじ伏せる。女の声で叫びながら。
「エステルを、返せっ!!」
荒れ狂った、という表現が相応しい狼の様。目ではなく気配で敵を察知し、襲撃している。瞬く間に親衛隊たちを吹き飛ばした狼は、尚も「かえせ……」とうわ言を繰り返していた。辺りを見渡し、ふらつきながら歩いては壁にぶつかり、またふらふらと歩いては壁にぶつかる。
以前ならば魔物が喋っている時点で動転していたであろうルブランは、見覚えある狼の姿に声を掛けずにはおれなかった。
バクティオン神殿で見た、へ。
「ではないか!? どうしたのだ!」
ルブランの呼び掛けが届いたのか、狼姿のは足を止めた。と同時に、ふらりと床に倒れ込んでしまった。どしりと重く鈍い音がする。ルブランは慌ててへ駆け寄った。
「おい、大丈夫か? まさか親衛隊を倒していたのはおまえか!? 何という無茶を!」
「エス……テル……むかえ、に……」
の意識は酷く混濁していた。目が虚ろだし、うわ言が止まない。皇女を探してここまで来たようだが、どうしてユーリたちは一緒ではないのだろう? 苦し気なの顔を覗き込みながら思案するも、答えは出ない。
不安そうに――傍目には完全に魔物だ――を下町の住人が見つめているのに気づいたアデコールとボッコスは、ハッとして人々に呼びかける。
「あ、安心するのであ~る! この狼は、我々の知り合いなのである!」
「そうなのだ、味方なのだ! 証拠に、街を襲った親衛隊たちといま戦っていたのだ!!」
下町の人々は大いに疑問を持ったが、自分たちを助けに来てくれた騎士たちの言葉を無下に出来なかった。実際にルブランは今も恐れることなく狼に語り掛けているし、アデコールとボッコスの瞳は真っ直ぐだ。
「よく判らんが、その狼と一緒に避難した方がよさそうじゃの」
一つ咳払いをして、貫禄のある老人が呟く。すると不思議なことに、他の人々も次第に緊張を解いていった。
「そこの部屋なんてどうだい? これ以上進むのも疲れたよ」
「食堂みたいだ、広さも丁度良さそうじゃないかね」
「よく扉を開ける勇気があったもんだな、騎士さんたちに任せた方が安全だったろ」
「あたしたちを助けてここまで連れて来てくれた騎士様にこれ以上迷惑かけろってかい」
恐る恐るながらも人々は、すぐそばの広間――もとい食堂へを運び入れる協力までしてくれた。その間もは、「エステル」「迎えにいく」「返せ」などと言葉を繰り返していた。意識の無いまま気力のみで突き進んでいたらしい。先程の荒々しい戦いぶりにも納得がいく。
しかし、とルブランは顔を顰めた。
「ユーリのやつめ。こんなとこに仲間をひとりきりにさせて、一体どこで何をしとるんだ」
実際にはの方がユーリらとはぐれて一人きりになってしまっているだけなのだが、完全に気を失った狼がそれを弁明することは叶わなかった。
相変わらず、彼女の姿は人に戻らない。
◆◆◆
ゾフェルの雪が幾度となく肌に触れる。氷の刃で切りつけられているかのような感覚がした。これが不意に強く、何度も吹き付けてくるのだから、たまったものではない。
極限の寒さに対して、ユーリらの足は鈍く、遅くなってしまう。ちらりと仲間を振り返り、様子を確認してから、先頭を行くユーリはまた一歩踏み出した。
一刻も早く帝都へ向かい、エステルを救わねばならぬというのに。視界の先はただ白い。氷山と海と雪、墓標のように聳える武器たち。似たような景色ばかりで、前へ進んでいるのかも怪しくなってくる。砂漠で迷いかけた時とよく似ていた。だがこちらはあくまで海に浮かぶ氷を道としてつたっているわけで、危険性はある意味上回っているかもしれない。
何度目になるだろう。目前の流氷を魔物・バイトジョーがガチガチの背鰭たちをぶつけ、砕いて行った。何せ相手は海の中からそうしてくるものだから、粉々になった氷と一緒に海水まで霧のように飛んでくる。
「しょっぱいぃ……ちべたい……」
「な、何か落ちたよ、レイヴン」
もろに海水を浴びてガタガタと震えるレイヴンの上着から、光るものが転がり落ちたのにカロルが気付く。海に落ちないようにと拾い上げると、それが女性もののペンダントであることが判って、つい「これ、レイヴンの?」と確かめてしまった。
ああ、と曖昧な返事と共に彼は答える。
「帝都ん前でブッ飛んだ先に落ちたとこで見っけてねぇ……。何だか見覚えがある気がして拾っちゃったのよ」
カロルが差し出すペンダントを、レイヴンはじっと見つめる。熱に焼かれたペンダントの中身が気になるが、自分には直せない。誰のものとも判らぬ蓋をこじ開け、秘められたそれを見てしまってもいいのかという後ろめたさもあって、寒さとは別のものが彼の表情を曇らせた。
カロルの手の平のペンダントを、パティが「どれどれ」と覗いた。そして頷く。
「見覚えがあって当然じゃの。それはのペンダントじゃからな」
「えっ!?」
「砂漠を一緒に歩いていた時、の荷物にそのペンダントが紛れてるのを見たのじゃ。記憶を無くす前から持っていたもののようじゃった」
「それじゃあ、きっとの大事なものだね……これ」
カロルは寂しそうにペンダントを見つめた。
「直せばこの蓋も開きそうだけど……こんなところじゃ手がかじかんで上手く直せそうにないや」
「そっか……。じゃあとりあえず、少年がこれ預かっておいてくんない? おっさんまた落としそうだし」
「うん、わかった」
しっかり頷き、カロルは、大事に鞄の奥へそれをしまった。間違っても落としたりしないように。と再会した時――無事かどうかすら判らないが――、すぐに返せるように。
一段落したと見たリタは、寒さに震えながらも強気に告げる。
「話は済んだ? もたもたしてらんないんだから、さっさと行くわよ」
リタの言う通りだ。一刻も早くエステルの救出に向かわなくてはならない。バイトジョーの奇妙な妨害も気にかかる。一同は道を引き返し、再びゾフェル氷刃海の奥へと進んでいく。
……しばらく進むと、随分と開けた場所に出た。相変わらず雪と氷だらけだが、そのど真ん中に氷とは別室の大きな結晶が聳え立っていた。淡い緑色の輝きが内側をめぐるそれを見て、リタが目を剥く。
「これ、エアルクレーネじゃない!」
言われてみれば、今まで見て来たエアルクレーネにそっくりだ。だが随分と静かなエアルクレーネの様子に、ジュディスが首を傾げる。
「エアルが出ていないわね。涸れた後なのかしら」
「その割にこの辺は荒廃していないみたいだけど」
リタがエアルクレーネに近寄って観察しようとした時、一行は背後にただならぬ気配を感じた。いち早く察知したラピード、次いでジュディスが険しい顔で振り返る。「みんな、気を付けて!」ユーリらも彼女に倣って気配の正体をその目で確かめる。
すぐそばの海面から、バイトジョーの姿が見えているではないか。
――どうするべきか。いや、相手は魚の魔物、海から出てこられるものか……。
思案していると、ざばぁっと潮水が掻き混ぜられて大きな音を立てた。何とバイトジョーは巨大に発達した鰭で羽ばたき、宙へ浮いてみせたのだ。明らかにユーリたちを獲物として視界に捉えている。
「あらま」
強張ったレイヴンの呟きに、バイトジョーの咆哮が重なった。咆哮が揺るがしたのは、一同の鼓膜だけではない。その背後にあるエアルクレーネを刺激し、瞬間的に膨大なエアルを発生させた。一気に押し寄せる可視化したエアルがユーリたちの動きを奪う。
「やべえ!」
咄嗟にユーリはすぐそばのカロルを突き飛ばした。勢いのあまりもんどりうつカロル。視界がちかちかと瞬いて、しかし、気を失わずには済んだ。
慌てて身を起こした少年の目に映ったのは、過剰なエアルにより身動きできずにいる仲間たちの姿であった。地に殆ど伏せるような形で苦痛に顔を歪める皆。カロルの背筋を冷たいものが滑り落ちて行って、心を芯から震わせた。
「ゆ、ユーリ! みんな!」
カロルだけは難を逃れた。が、絶望的な状況に変わりはない。
エアルの重圧に耐えながら、ジュディスが呻いた。
「……まさか、エアルクレーネを狩りに使う魔物がいるなんて」
「うちとしたことが……こんなの、知らんかったのじゃ……」
今まで落ち着いていたパティにも流石に焦りが見える。
ユーリは歯を食いしばって、カロルを見据えた。
「カロル、逃げろ!」
予想だにしないユーリの叫びに、カロルは首を横に振って叫び返す。
「そ、そんな! みんな食べられちゃうよ!」
「一人で勝てる相手じゃねぇだろうが!!」
「でも!」
食い下がるカロルを、バイトジョーが振り返った。ギラギラとおぞましい光を持った赤眼。見る者の恐怖心を煽る刺々しいいでたち。凶悪なバイトジョーは、悠々とカロルの上空すれすれを通り過ぎてみせる。
思わずカロルは悲鳴を飲み込んだ。歯の根が噛み合わない。ガチガチと耳障りな音がして、何とか落ち着かせようと自身に言い聞かせるも上手くいかなかった。
……バイトジョーはエアルクレーネの前に舞い戻った。双眸が再び、苦しむユーリらに向けられる。カロルをまるで無視した態度だった。
――このままじゃあ、ユーリたちが、みんなが。
エアルを噴出させる咆哮を幾度となく繰り返すバイトジョー。
ただただそれを睨み返すしかないユーリたち。
――ユーリたちと一緒に、助けに行くんだ。捕まったエステルを。はぐれちゃったを。みんなで。
ボクは、みんなと一緒にいたくて、ここまで来たのに。このままあんな魔物なんかにやられちゃうなんて、そんなの――!
「ボクがやらなきゃ……今やらなきゃ……」
少年はハンマーを握り締めた。「カロル!!」制止しようと叫ぶユーリの声が聞こえた。
――いつもならユーリの言葉通りにするよ。けれど、今だけはごめん。聞けないや。
そう心の中で謝って、カロルは叫ぶ。己を奮い立たせ、足を踏み鳴らし、武器を振り上げる。
「今やらなくていつやるんだぁ!!」
バイトジョーがカロルの闘志を察し、此方を向いた。
カロルはハンマーもろともバイトジョーへと立ち向かっていく。ひらりひらりと素早い身のこなしで宙を舞うバイトジョーと、武器の重さで速度を奪われているカロルでは相性が悪い。それでも果敢に攻撃を繰り出し、何度か命中させることに成功する。するとバイトジョーは怒り、その尾鰭で小さなカロルの体を薙ぎ払った。「わあああ!」流氷の上を転がり、カロルは悲鳴を上げる。それでも寸でのところで踏ん張りをきかせ、態勢を立て直した。
「ち、ちょっと油断したかな」
強がってそう口にしてみたものの、体中が痛かった。またハンマーを両手でしっかり掴んで、縦横無尽な攻撃を繰り出すバイトジョーヘ少年は挑む。時に流氷の下へ潜り、鋭い角から氷の衝撃波を放ち、カロルを翻弄した。何もかもがバイトジョーの独壇場と化していた。
「だ、大丈夫、こんなの、へっちゃらだ!」
よろめきながらも、再びカロルは挑む。
「み、みんなを守るんだ、逃げるもんか……!」
挑んではいなされ、挑んではいなされ。深まる傷と疲労。目の前でボロボロにされていくカロル。
何度目か判らない。バイトジョーの攻撃がカロルに直撃する。遂に少年の手から武器が離れ、無防備な姿のまま氷上へ投げ出されることとなった。
たまらずジュディスが叫ぶ。
「カロル! もう無茶は止めなさい!」
「見てられねぇ! 頼むから逃げろ!」
「それ以上やったら、死んでしまうのじゃ……!」
ユーリの悲痛に満ちた怒号、震えるパティの声が続いた。
ふらふらと立ち上がったカロルは、仲間を背中に――まるで庇っているかのようだ――、首を振った。
「ううん、大丈夫、だから……」
「大丈夫な訳ないじゃない!」
「大丈夫なんだよ。だって、みんながいるもん」
半泣きのリタの言葉を、カロルはあっさり否定した。
「ボクの後ろにはみんながいるから、ボクがどんだけやられてもボクに負けはないんだ」
小さな背中が、大きく見える。だが痛む傷を押さえ、明らかに弱っている少年の姿はあまりに痛々しい。
レイヴンは唇を噛み締めた。
「動けよ、くそ! こんままじゃガキんちょが……」
心臓を押さえながら必死にエアルの重みに抗うも、びくともしない。
絶望の淵に立ちながらも、カロルの瞳に諦めは宿らなかった。その眼差しは、少し離れた流氷に突き刺さった大剣に向けられている。この武器と生命の墓場とも呼べる極寒にありながら、大剣は完全な形を保っていた。新たな使い手を待ち、あえてこの極限の地を選んで眠り続けているかのように。
カロルは駆けだした。眠り続ける剣目掛けて、最後の力を振り絞って飛びつく。
少年の真っ直ぐな闘志を受け、剣は、永い眠りから解き放たれる。カロルが想像していた以上に大剣はあっさりと抜け、手によく馴染んだ。刃こぼれの一切ない美しい大剣を握り締めた直後、カロルの体を強烈な衝撃が襲う。バイトジョーの突進だった。
宙へ打ち上げられたカロルの姿を見て、ユーリたちは青褪めた。
「カロル!」
カロルにとって、宙を舞っている時間はとても長く感じられた。体中が痛かったが、心は驚くほど静かに燃えていた。空中で大剣をしっかり構えながら、バイトジョーを見据える。バイトジョーがカロルから不穏な気配を察したのか、すぐさま移動しようとする。カロルの顔が僅かに歪む。
――もう! じっとしててよ!
その時、鞄から小さな光が零れ落ちた。さっきレイヴンから受け取った、のペンダントだった。そのペンダントが発光しながら落ちているのである。
鞄の奥にしっかりしまい込んだはずなのに、どうしてペンダントだけが落ちてきたのだろう? カロルの疑問をよそに、輝くペンダントはバイトジョーの胴体へ導かれるように落ちて、その輝きを広げた。輝きは光の鎖となり、バイトジョーの動きを一瞬抑え込む。カロルの定めた狙いが狂わぬように。渾身の一撃を後押しするように。
――とらえた!
カロルは確信する。
「あの子――!」
少年の意図を察したジュディスが目を見張る。
カロルは傷だらけの顔で笑った。
「ボクの勝ちだ!」
バイトジョーの頭上に、全体重をかけたカロルの大剣が突き立てられる。魔物が絶叫を上げ、大きく身を捩った。それが決め手となったのだろう。エアルの暴走は収まり、ユーリらの体を縛るものは霧散した。
鞄を飛び出したはずのペンダントは、落下攻撃の衝撃で再び投げ出されたカロルの元へいつの間にか戻っていた。片手で大剣を引き寄せ、もう片手で再びペンダントを鞄に押し込めたカロルの元へ、仲間たちが駆けつける。
「まったくとんでもないことする少年だねぇ。生きてるかぁ?」
「一人にしてごめんなさいね」
「見事な奮戦ぶりだったのじゃ」
「みんなガキんちょに甘いのよ。……今度はあたしたちがいるわ」
「ワオーン!」
……きっとペンダントの不思議な光は、カロルしか気付いていない。
でも、カロルはあの光を見て確信した。
――もきっと、無事だよね。はぐれちゃったけど、無事なんだね。
何とも言えない安堵に一瞬意識を手放しかけるも、ユーリの呼びかけがカロルを引き留めた。
「悪ぃ。ちょっと道が混んでてな。いけるか?」
「も、もちろんだよ!」
「よし。食らった分、倍返しにしてやろうぜ」
いつもの調子なユーリの励ましが、カロルの胸を熱くさせる。
少年は大きく頷き、応じた。
「ボクたちは〈凛々の明星〉だ……!!」
大切な仲間と共に、今一度バイトジョーへと挑む。
勿論、一丸となったカロルらが負ける道理など、ありはしなかった。
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