が、くわあ、と大きなあくびをする。流石に疲労が蓄積しているようだ。目いっぱいに体を伸ばしてから、彼女は、隣に立つレイヴンを見た。
 アレクセイの呼び起こしたザウデ不落宮。彼に代わり団長代行に任命されたフレン。難航するギルドと帝国の交渉。評議会が全権をヨーデル殿下へと委ねたこと。様々な事が大きく動いているが、今のにとって一番大きい事は、このレイヴンと共に行うと決意した……エステルへの謝罪だった。
 珍しく弱気な顔としょぼくれた背中のレイヴンに、狼は小声で問う。

「準備良いですか? レイヴンさん」
「ちょ、ちょっち待って……。心臓がカチコチで……」
「反応しづらい冗談は止めてくださいよ」
「冗談って……。ちゃんこそ、その姿は何の冗談よ?」

 不満げなレイヴンの指摘に、は「まだ戻れないんです」さらりと答えた。戻れないと言われてはレイヴンもそれ以上言及できず、はああ、と大きな溜息を吐いた。
 ――さあレイヴンさん。一緒にエステルへ謝りに行きますか。
 ひとりでこっそり向かおうとしていたレイヴンを狼がそう呼び止めてから、エステルの部屋の前まで来るのはそれほど掛からなかった。扉をノックする勇気が固まらず、突っ立ったままになってしばらく経つ。の「レイヴンさんのタイミングでどうぞ」というこの状況ではあまり有難くない気遣いのおかげだ。

「……嬢ちゃん?」

 結局ノックは出来なかった。扉に向かって、精いっぱいの声で呼びかける。
 ……ややあって、扉は開かれた。

「はい」

 些か硬い表情のエステルが、レイヴンとを交互に見やる。そしてまた、レイヴンへと視線を戻す。彼は一歩後ろへ退きながら、言った。

「やー、あの、少し話す時間をもらえないかね。長くは取らせないから」
「わかりました、どうぞ」

 エステルはあっさり頷き、レイヴンらへ入室を促した。
 レイヴンはこの場で話を済ませるつもりだったが、「お邪魔します」とがのしのし踏み込んでいき、エステルもまた部屋の奥へと戻っていくのを見たら、入らないわけにはいかなかった。

「わあ、お姫様の部屋みたいで可愛いねぇ。あ、お姫様だから当然かぁ」
「有難うございます」
「すごいー広いー!」

 はしゃいで部屋中をぐるぐる回る狼に、エステルは小さく笑んだ。尚もうろつく狼を好きなようにさせてあげよう、とエステルが次に見たのは……まだぎこちない表情のレイヴン。

「ミョルゾの件、ですか?」

 レイヴンは頷いた。どう詫びても詫びきれない罪を犯した。彼女を散々に苦しめる結果になった。それらを全て、どう償うべきか。今の自分にできるのはただ謝罪することだけ。どんな罰でも受け入れる覚悟で、彼はここに来ていた。
 一緒に謝ると言ってくれていた狼は今、呑気に楽しんでいてそれどころではない。

「嬢ちゃ――」
「訳を教えてください」

 レイヴンを遮り、エステルは問うた。

「レイヴンは理由もなく、あんなことをする人じゃありません」

 その声に、も落ち着きを取り戻し、ゆっくりレイヴンのもとへやって来た。彼の隣に腰を下ろし、共にエステルと向かい合う形をとる。
 大きく戸惑うレイヴンへ、エステルは告げる。

「正直に言うと、あの時のレイヴンの目は怖かったです。でもバクティオンでの顔はとても悲しそうでした。だからきっと、これには訳があるんだろうって」
「理由があれば何をやっても許されるって訳じゃないでしょ」
「それは――分かりません。だから知りたいんです。それにもしレイヴンが本当にひどい人なら、今だってここにいないと思うんです」

 嬢ちゃん、と叫びかけるレイヴンの背を狼の尾がびしっと叩いた。我に返ったレイヴンは、皇女のあまりに無防備な他者への信頼の寄せ方をどうにか注意しようとしたが、

「どうしてです?」

 と返され、何も言えなくなってしまう。これには笑ってしまった。思っていた以上に美しく純粋な心を持つエステルの真っ直ぐさが、とても愛おしく感じられた。

「……エステルはレイヴンさんを信用しきってるから、信じる信じないは通じないですよ」
「うん、そうみたいねぇ……」

 の言葉に同意し、レイヴンは仕方なく経緯を話した。
 ミョルゾで、アレクセイの命でエステルを攫ったこと。その命令に従っていた理由。原因。様々なことを話した。どうしてそこまで語らなければならなかったかというと、此方が話を終えたつもりでも「どうしてです?」と必ずエステルが更なる根底の話を求めてきたからだ。
 結局レイヴンは、かつて別の名で生きていたこと、その名で生きられなくなったことも全て話す羽目になった。
 そして本当の最後に、いたたまれなくなった彼は座り込み、額を床へ押し付けた。「本当に申し訳ないことした」と。他にもう、レイヴンには何も出来なくて。謝って済む話ではないと知りながらも。
 ――沈黙が続いた。耐え切れなくなったレイヴンは、そっと、ゆっくり、顔を上げる。そして目を見開いた。
 ……エステルが大粒の涙を零していた。
 傍らの狼は少女の姿へと還り、声を殺して泣いていた。
 どういうことだ、これは。レイヴンはすっかり気が動転してしまった。

「ちょ、嬢ちゃん、ちゃ――」

 慌てたレイヴンの頭を、跪いたエステルが抱きかかえた。突然の温もりと行動にレイヴンは声を失った。更に温もりは増す。レイヴンとエステル、二人にまとめて抱き着いてきたのものだ。
 エステルは静かに泣きながら、レイヴンの痛みに寄り添っていた。

「そんなにも辛い状況に、レイヴンはひとりで立ち向かわなければならなかったんですね……」

 嗚咽を堪えながら、がこくこくと何度も頷いている。エステルの想いへ同調するように。

「でも今はわたしたちが、わたしたちみんながいますから、だから、だから……」

 遂にエステルも言葉を発せられなくなり、ただレイヴンを抱き締めていた。そのエステルの背中を、は顔を涙まみれにしながら優しくさする。「うん、私たちがいる」小さくても確かな言葉がレイヴンに届いた。
 ――どうして俺が慰められているんだ……。
 贖罪のための訪問と語らいで、レイヴンは罰を受けるはずだった。そのはずが、自分に与えられたのは罰ではなくこんなにも温く“護りたい”と思わせる仲間の絆であった。
 言葉にならない感情の波を必死に抑えて、レイヴンは、エステルとを自分から引き離した。

「あんがと、嬢ちゃん、ちゃん。でもこんなおっさんのために、そんな涙は勿体ないよ。もっと大事な相手の為にとっておかなきゃ」
「でも……」
「レイヴン……」

 納得いかないらしいお人好しな二人の少女に、レイヴンは苦笑した。

「それにね、同情してくれんのは嬉しいけど、それでもやっぱりしたことの罰は受けなきゃいかんと思うのよ、だからね」

 そう言ってレイヴンはエステルを見つめる。しっかりと自分を罰してほしい。そう願いながら。
 優しい皇女は騎士の言葉を受け、涙をぬぐい、真剣な面持ちで立ち上がる。

「分かりました。……それじゃみんなと同じことをさせてもらいます」

 同じこととは? 思ったレイヴンの心構え身構えより早く、エステルは彼の額を平手で軽く叩いた。ぺちん、といとも簡単な、かわいらしい音。

「――これでお終い。いいですよね」

 泣き止んだエステルは、にっこりと笑った。
 ぽかんとするレイヴン。笑い続けるエステル。
 は、なんとなく、二人の気持ちが知れた。

(レイヴンさん、ほらね。エステルはちゃんと謝って話せばわかってくれたでしょ)

 は嬉しかった。幸せだった。
 その幸福感のまま、レイヴンがエステルと『これからもよろしく』の意を込めた握手を交わすのを見守っていた。「リタっちが来たらどやされそうだしもう行くわ」と、部屋に来る前とは打って変わってしゃきっと飄々と歩いて出ていくレイヴンのことも見守っていた。
 ……そして、見守ることに徹しすぎて、置いて行かれた。

「はあっ!? うっかり!!」
「ど、どうしたんです、?」

 エステルに呼びかけられ、更には思い出した。
 自分にも謝らなければならないことがあるということを。
 慌ててエステルへと向き直ったは、先のレイヴンと全く同じように土下座した。

「ごめんなさい、エステル!」
「ど、どうしてが謝るんです?」
「謝らなきゃ気が済まないことがあるの!」

 額をびっちり床に押し付けたまま、はまくしたてる。

「私ね、大体記憶が戻ったの。それでね、アレクセイがエステルの意識を奪ったり勝手に力をいじくったりするときの術式の一部が、私の義眼作った人が考えたものだったの。十年くらい前だと思う。けどね、私がその技術者とアレクセイの関係を早く何とか断ち切ってれば、エステルに降りかからなくてよかった災いかもしれない。実際にバクティオンでアレクセイが私の力を使ったし、関係は確実にある。それに、私、フレンにも『エステルを護る』って誓ったのに! 護るどころか、エステルが攫われるの止められなくて、それに追いつくまでいっぱいかかっちゃって……! 狼姿で驚かせちゃうし……! とにかく、私が断てなかったものにもエステルを追い詰めた原因があるから、ごめんなさい!!」
のせいじゃないと思います。十年も前だなんて、だってまだ子供ですし……」
「いいや、私のせいでもある! 子供か否かより、とにかく一因はあるに違いないから!! だから詫びさせて、大切な仲間をちゃんと護れなくて苦しい想いをいっぱいさせてしまった。だから……ごめん」

 エステルは意固地になるを、レイヴンにそうしたように、そっと抱き締めた。女性同士だから先より遠慮を無くして、その体を全部腕の中へ迎える気持ちとしぐさで。
 そうすると、もエステルを抱き締め返した。ぎゅうっと、何処かへもう二度と勝手に行かせてなるものかと、誰かに攫わせたりなどするものかと。そう訴える力強さだ。

「ありがとう、。でもわたし、いっぱいに守られてます。だから、そんなに責任を感じないで」
「でもね、エステル……」
「わたしが良いって言うんだから、良いんです。それに守られるだけなんて嫌です」
「かわいい子には護衛が必要でしょ?」

 まるで姉妹のように抱き合いながら、はエステルに答える。

「エステルみたいに可愛くて良い子はね、私ぐらいに狡くていけない奴がガードに入るべきだよ」
「……だったらにも必要ですね」
「私は狼だから平気だよ」
「もう。記憶が戻ったら更に頑固です、って」

 頑固で良いとは思った。あまりに柔軟で誰にでも手を差し伸べる優しいエステルの為には、ちょっと頑固な友人がストッパーとして必要だ。
 だがよりも頑固さに関して格段に上であるエステルの友人が、すぐそばにいた。
 ……そのことをが思い出した途端、部屋の扉をノックする音が響いた。

「エステル? あたしだけど、入るわよ」

 間髪入れずに入ってきたエステルの親友魔導士……リタ。
 リタは、泣きじゃくるがエステルに抱き締められているのを見て、目を真ん丸にした。

「え、ちょっと、なに? この状況?」
が、わたしを護れなかったって言うから、そんなことはないって言ってたんです」
「ぐう……涙止まらなくてごめん……」
「……全く、あんたって本当にアホか……。まあ良いや」

 嘆息しながら歩み寄ってきたリタは、涙を止めようと意味不明な呻きを上げるから、それをあやすエステルへと視線を移した。

「例のシステムとエステルの力の制御について、あたし色々考えてみた。今から良い?」
「はい。ここでやるんです?」
「んー……。一応別の場所に移った方がいいけど、ソレどうする?」

 リタが、ソレ、と言ってを指さした。
 ソレ呼ばわりされたは、一生懸命涙をこらえてリタを見上げる。

「私にも何か出来るかもしれないから、連れてって!」
「そう来ると思ってたわよ」

 にっと意地悪く口角を上げたところから察するに、リタは最初からが来ると踏んでいたようだ。
 エステルごめんね、ありがとう、とはようやく立ち上がる。
 そして三人の少女は部屋を出た。

「本当にありがとうございます。リタ、
「これからが本番よ。礼なんて成功してからでいいから」
「きっとやれるよ、天才モルディオがいるんだもの」

 何とかなるではなく、何とかしてみせる。
 言葉には出さずとも、とリタの想いはひとつになっていた。


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