人魔戦争で言うところの“魔”――人間への断罪に乗り出した〈暗きもの〉の影は、テルカ・リュミレース中に響かんとしていた。

 遠い昔、〈慈しむもの〉と呼ばれたものがいた。
 彼女の連なる種族が皆そうであるように、彼女は世界を好いていた。殊更、己の血を分けたとも言える人間を愛していた。種族の中でも、彼女は群を抜いて人間に好意的だった。br>  時を経た彼女は、役目を果たしながらも、手が届く限り、己の愛する子らを守り続けていた。正しい知識と知恵を与えながら。かつての名に相応しき慈愛を以て。
 そんな彼女は今、激昂していた。
 彼女の場所に、〈暗きもの〉の牙がやって来たのだ。強大な力を持つ彼女といえど、万能ではない。彼女の力は及ばず、彼女が殊更慈しんでいた“子”と、その街は失われてしまった。
 〈暗きもの〉の考えと怒りには、彼女とて納得せざるを得ないものがある。
 確かに人は罪を犯した。この地を揺るがす大罪を。しかしその人は、幸いにもそれを自覚し、悔やみ、向き合い、立ち向かったではないか。全てを滅するにまで至る理由は、何処にも無いはずだ。
 〈慈しむもの〉の声を〈暗きもの〉は嘲った。
 ――お前は甘い。こんな生き物に何を期待している? 我等の使命を忘れたか!
 〈慈しむもの〉は返した。
 ――忘れてなどいない。しかし、彼らとて世界を形作るもののひとつ、守るべきもののひとつです。
 ふたりは余りにも対称的だった。
 相反するふたつの力が交わった。
 結果はひとつだった。
 互いに、浅くはない傷を負った。力のぶつかりは、脆くなった地を更に削っていった。それを見た〈暗きもの〉の牙は砂漠へと帰っていった。
 〈慈しむもの〉は傷つきながらも、自分の“巣”へと帰った。
 巣には、子がいた。繋がりはもう遠いながらも、確かだった。子にもまた子があり、母となっていた。

「ありがとう、私たちを守ってくれて……。あとは私が、何とか頑張りますから」

 傷ついた〈慈しむもの〉に決意に似た礼を述べると、母親は、怯える自分の子らに優しく話した。「きっと助けを呼んで戻ってくる」と。
 子らが頷くのを見て、母親は駆け出した。
 母親の姿を見送った〈慈しむもの〉は、最後の力を振り絞り、幼い子らに加護を与えた。子らの母が早く戻ってくるようにと祈りながら。
 そして〈慈しむもの〉はその目を閉じた。


 母親が戻ることは無かった。


 淀む意識の中で、作り変わる意識の中で、欠片のように落ちてきたもの。世界に等しい存在となろうとしていた〈慈しむもの〉に、届いた光景。
 血溜まりに沈む、母親の姿。
 濡れた剣を握りながらそれを見る騎士と、笑う貴族らしき男。
 何が起きたのかを悟った〈慈しむもの〉は、叫んだ。
 ――どうして!
 男たちは話していた。「子を探す」と。〈慈しむもの〉の心は凍った。何とかしなくては。守らなくては。しかし今の彼女に力は無かった。意識すら保てなかった。真新しい光が、内側から全てを埋め尽くしていく。〈暗きもの〉との戦いの傷が、彼女の変化を複雑なものにしていた。
 変わっていく己に、彼女は叫んだ。
 ――どうして!
 光が弾けた。


 かつての盟友〈偉大なるもの〉とは、よく話をしたものだ。
 彼もまた、世界ごと人を愛していた。
 そんな彼は、此度の戦で、やはり人に味方したのだと聞いた。自分も馳せ参じようとしたが彼はそれを断った。
 ――お前は、我らとは別の地を守っていてくれたほうがいい。今のように。
 その結果がこれだ。むざむざと〈暗きもの〉に全てを抉られ、友との約束すら果たせぬというのか。
 〈慈しむもの〉は思った。
 最後にもう一度、友に呼び掛けることができはしないか。思念を飛ばし、そして、彼女は気付いた。
 彼がいない。
 何処にも彼がいなかった。
 どんなに離れていても彼女たちの種族は必ず繋がっている。しかし、見つからないのだ。〈慈しむもの〉は何度も彼を辿った。だが――いない。
 代わりに彼女は知る。
 盟友は、人に殺された。
 〈慈しむもの〉は泣いた。
 人は変わってしまったのか。私の信じた世界は変わってしまったのか。
 何度も人間とは衝突があった。私たちより幼い彼等は、しかし、最後には力を合わせることが出来た。信じていたのに。どうして、世界をあんなに愛した彼が、誰よりも人との共存を願った彼が、死ななくてはならなかったのか!
 〈慈しむもの〉は泣き続けた。
 それでも彼女は、やはり人を愛したままで在った。

 遂に〈慈しむもの〉は、いなくなった。
 新たな世界のひとつとなって――。


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